第11話

 さて、いま逃げていったサラリーマンはこれで大丈夫だろう。指針刃はそう判断を下した。さっきの男が逃げていった方向には誰の姿も見えない。どこまで行ったかわからないけれど、とりあえずもう巻き込まれることはないはずだ。


 刃は先ほど自分がした発言のことを思い出して少し恥ずかしくなった。ちょっと格好つけすぎたかもしれない。そんなつもりはまったくなかったのだが、結果的にそうなってしまった。まあ、仕方ない。誰も損をしたわけじゃないし。


 それから、刃は先ほどの男が歩いてきた方向に視線を向ける。そこには黒いもやの塊があった。大きさは平均的な日本人の体格と同じ程度である。体格的に男の可能性が高いが、実際のところは不明だ。


 それを直視しながら、刃はふむ、と心の中で納得する。

 これが『邪神の本』が使う認識阻害の力なのか。


 さて、いま見えている『あれ』は果たして見たままなのか、それともこちらになんらかの妨害が働いた結果あのように見えているのか――どちらなのだろう。


 どうであったとしても、暗い夜の街であのように見えているものを目撃したのなら、ちゃんと目撃していたはずなのに、『暗闇に紛れてよくわからなかった』と思っても不思議ではない。こちらの推測が正しければ、奴が離れてしまえば、目撃者側にはしっかりとした記憶が残らないわけだからあまり関係ないかもしれないが。


 暗黒のもやに包まれた何者かは無言でこちらを向いているようだ。もやに目があるわけではないのでこちらを向いているとは限らないが。なにかこちらから仕掛けてみるべきか――次の一手を悩んでいると――


「お、おおお前……!」


 もやから聞こえてきた声は変成器で変えたような、まったく年齢や性別を特定できない声であった。


 だが――


 声の特定はできなくとも、いま発せられた声が妙に上ずり、どもっていたことを考えれば、もやに隠されている誰かが現在かなり動揺しているのは明らかだった。


 これはもう少し喋らせてみたら、手荒なことをしなくても情報を引き出せるかもしれないぞ、と刃は直感する。


「な、ななんなんだよお前……」


 やはり激しく動揺している。

 少し妙だが……まあいい。挑発をしてみよう。それでどう出てくるか――


「ただの通りすがりの警備員だよ。危ない目に遭っている人を見かけたから助けた。それが仕事だし。なにか問題でも? 治安活動の一環だよ。だって警備員だからね」

「け、警備員だと? ふ、ふ、ふざけたこと言うな!」

「ふざけてないよ。あんた相手にふざけてどうするんだ。僕になんの得があるわけ? あんた相手にふざけると僕の預金残高が増えるってならやるけど。やってほしいならやってあげるよ。一度目だし料金はサービスしておこう。どうだ?」

「な、なんだと!」


 もやからはヒステリックな声が聞こえてくる。


 せっかくの隠蔽もこれではあまり意味がない。隠蔽されているはずのものが透けて見えてしまっている。それにしてもやっぱり妙だ。あれだけ大胆な犯行をしていたわりにいまここにいるこいつは素人臭すぎる。どういうことだろう。


「く、くそ! なめた口たたきやがって……。そもそもなんだよお前! どうやってあれを千切ったんだよ?」

「どうやってって……こう空手チョップをやったら切れたぜ。ところてんみたいに」

「う、嘘つくんじゃない! そんなことできるわけがないじゃないか! 俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

「…………」


 素人臭いというか――なんだこいつ。言動がお子様すぎないか? どう考えてもいま話している奴にあんな大胆なことができるとは思えない。


 これが演技だったのならすごいが……。とても演技をしているようには感じられない。


 なんなのだろうこれは。いま話してる奴はたいしたことないだろうが、なにかまだ刃にわかっていないことがあるような気がしてならない。


 それにしてもいま話している相手はなんなのだろう。もしかしてもやの中にいるのは小学生なのだろうか。大人よりも頭の回る小学生もいると思うが、こいつがそれだとはとても思えない。想定外のことが起こったのだとしても。


「そ、そもそもなんだよ。なんでそんなこと、でできるんだよ! ず、ずるいじゃないか!」

「……は?」


 刃は思わずそんな声を出してしまった。この発言をしている何者かがあまりにも幼稚すぎるせいで。


「ずるいって、あんたがそれを言うのか? どこで手に入れたのか知らんが、その力をなんの力も持ってない普通の人に対して使ってたわけだろ。抵抗できないような人相手にさ。僕なんかよりあんたの方がよっぽど卑怯じゃないか」

「う、うるさい! 俺はいいんだよ!」

「なんで? お前がいいんなら僕だっていいじゃないか」


 刃はその自分本位な発言にだんだん苛立ちを覚えてきた。マジでなんなんだろう? 最近の小学生はもっと大人なのではないか、と思った。小学生の知り合いなどいないけれど、そのように思う。


 というか、ある程度の年齢なのにこんな発言をしているのだとしたらやばすぎるぞ……。別の意味で関わりたくない相手だ、と刃は思った。


「だ、駄目なものは駄目なんだよ! でも俺はいいんだ!」

「だからなんで?」

「うるさい黙れ! なんでそんな当たり前なことがわからないんだよ! ふざけやがって!」

「ふざけてるのはお前の方だろ。なんでお前が身勝手なことをするのが当たり前なんだ? なに? もしかしてあんた、自分が世界の中心な新世界の神かなにかだとでも思ってるわけ? おいおいおいマジかよ。すげえな、そりゃ。

 あんたが何年生きてるのか知らないけど、そこまで思い違いできるのならもはや才能だな。僕には何年経ってもできそうにないよ」

「な……!」


 もやの中にいる誰かは言葉を失っている。一体どんな心理にあるのか見当もつかないが、子供じみた癇癪を起こしていることだけは確かだった。


「ま、あんたが新世界の神でもなんでもいいけどさ。僕の知ったことじゃないし。神だろうが王だろうが自由にすればいい。一応、この国ではそういうのは許されているわけだからね。ここは少し話をしようじゃないか」


 この様子だと、適当に殴って身柄を押さえることは簡単だろうが、まだいくつか不明な部分がある。もう少し時間を稼いでおくべきだろう。


「お前に話すことなんかあるか! 死ね!」


 その言葉とともに刃の足もとからなにかが噴き上がる気配を察知して、素早く後ろに下がってそれを思い切り踏み潰した。地面を踏みつけた鈍い音が響いたのち、夜の街はもとの静寂へと包まれる。


「……危ないな。なにをするんだ」


 向こうは不意を打ったつもりだったのだろうが、この程度の不意打ちを食らうようでは三流にもならない。やはりこいつ、明らかに素人だし、そのうえかなり子供だ。実際の年齢はともかくとして。それに頭のほうもかなりお粗末なようである。


「馬鹿な……」


 奴としては会心の一撃のつもりだったのか、いま刃が行ったことをあり得ないというような声が聞こえてくる。


「そんなもん当たるか。こっちはあんたと違って素人じゃないんだ。時間の無駄だから余計なことしないでくれないか?」


 刃は一歩だけ足を進める。


「う、動くんじゃない!」

「脅しのつもり? そんなの通用しないってさっきわかったはずだけど」

「黙れ黙れこの野郎! なんでお前がそんなことしてるんだよ! おかしいだろ! そんなことやっていいなんか言ってないぞ!」

「だからさ、なんでお前にそんな権限があるわけ?」

「あるっていったらあるんだよ!」

「…………」


 話をして情報収集しようかと思ったが、無理かもしれないなこりゃ。


 いま目の前にいる誰かは、あまりにも身勝手な自分の権利を主張しているだけである。そんな相手とまともな話などできそうにもない。時間を稼いで情報を集めるのは悪手だったか……。話が通じない相手と話をするのは刃の仕事ではない。どうしたものか……。


 と、そこで刃はある疑問を抱いた。


 いま事件を起こしている誰かは『邪神の本』に操られていないのではないかという疑問だ。


 もやの中にいる何者かは自分の意思を持って動いている。そうでなかったから説明がつかないことが多い。


 わざと目撃者を作り出すという大胆なことをしていたにもかかわらず、何故もやの中の誰かはあれほどまで慌てているのか。


 一連の人体消失事件が誰かを呼び寄せることを目的としているなら、刃を狙っているにしろそうでなかったにしろ、最低でも誰か一人に見つかることは織り込み済みのはずだ。見つかることを前提にしていながら、あれほど取り乱すというのはおかしい。


 であるならば、『邪神の本』の意思と、いまもやの向こうにいる誰かの意思は別個にあり、なおかつもやの向こうの誰かは『邪神の本』に精神を乗っ取られていないことになる。


 そうなるとどういうことだろう。


 何故、『邪神の本』がそのような行動をわざわざ取っているのかはまだ不明だ。そもそも、もやの向こうの誰かは、ここまでの言動から判断するだけでも協力するような相手ではない。むしろ、協力したところでなにもメリットはなさそうである。


 なんらかの形で、もやの向こうの誰かは『邪神の本』に踊らされているのかもしれない。直接的ではないやりかたで。


 さて、どうする。


 もやの向こうにいる誰かの裏にいると思われる『邪神の本』の意思が出てくる前に決着をつけてしまうべきだろうか。視線を前に向ける。やはり目の前にいる誰かはちゃんと認識できない。全身が黒いもやのようなものに包まれたままだ。性別も年齢もなにもわからない。それはまだ『邪神の本』の意思がそいつを切り捨てていない証拠でもある。


 もやの向こうの誰かが素人であるというのは確信に変わっていた。いくら特殊な力を持っていても、所詮は素人である。捕らえるのは簡単だし、口を割らせるのはもっと簡単だろう。進んでやりたいことではないが、できなくはない。


 だが、それをするべきだろうか。いまの状況を『邪神の本』がなんらかの形で把握しているに違いない。捕らえられたことを察知したら、すぐに奴を切り捨てるだろう。そうなるとこちらとしてはあまり都合がよくない。どうしようか……。


 先ほどなにかしようとしたのをいとも簡単に踏み潰されたのでこちらを警戒しているのか、なにもしてこない。こちらの都合を酌んでそうしてくれているというわけじゃないのだろう。


「ところで」


 聞いてみるだけ聞いてみることにした。なにか収穫があればそれでよし。なにもなくともマイナスになるわけでもない。


「あんた、その力をどこで手に入れたんだ?」

「そ、そんなのお前には関係ないだろ」

「ま、確かに関係ない。その通りだ。もしかして、事典みたいな本とか持っているんじゃないかと思ってね」

「な、なんでそれを」


 それを口走ってしまってから失言に気づいたようだったがもう遅い。

 まさかとは思ったが、本当にこんな見え透いたカマかけに引っかかるとは。


「なら話が早い。あんたのことは見逃すからその本を寄越してくれないか?」

「な……」

「別にいいだろう。それを僕に渡したところで刑務所に行くわけじゃないし。あんたがなにをしたかなんて罪に問えないしな。そのあたりで手を引いたらどうだ? 楽しんだだろ?」


 これ以上、素人がかかわってもろくなことにはならないぞ、とは言わないでおいた。


「ふ、ふざけたことを言うな! なんでお前の命令を聞かなきゃならないんだ! こ、これは俺のものだぞ!」


 お前のものじゃないだろう――とは思うが口に出したところで意見が変わりそうもない。気は進まないが、仕方ないか。こっちはこれが仕事だ。


「じゃ、適当に痛い目に遭って、その本について口を割ってもらおう」


 その言葉とともに刃は自らの身体を文字通り作り変える。自分の身体のありとあらゆるすべてを闘うためのそれへと。


 アスファルトを踏み砕き、夜の闇を切り裂きながら黒いもやに向かって刃は突撃する。風を破る弾丸のごとく。あらゆる無駄を削ぎ落し、最短で。音もなく風のごとく翔ける。もやは動かない。素人だからとっさに動くことができなかったのだろう。


 相手の顔が見えなくてよかった。殺すつもりはないとはいえ、恐怖に歪んだ顔というのはあまり見たくなかった。それには、何度やっても慣れない。


 自分の手が届く場所にまで距離を詰める。拳の先に力を送り込み、一気に打ち抜いて――


「驚いたな。まさか早々に当たりを引けるとは」


 そんな言葉が聞こえて、もやの向こうの誰かは、素人には止められるはずもない刃の拳を受け止めた。起こるはずのなかった出来事に刃は思わず動揺し、ほんの数瞬だけ動きが止まる。目の前にいる誰かの気配が一変していることに気づく。刃の本能がそれについて警鐘を鳴らす。


 やばい。

 殺さずに捕らえるのはやめだ。そんなことをしていられる相手じゃない――


 先ほど打ち込んだ右拳を引き、そのまま手刀を放つ。確実に決めるために首に向かって。もやに包まれていても、首の位置を見間違えることはない。


 しかし、刃が放ったその手刀は空を切った。もやの奥にいる誰かには当たっていない。しくじった。手に広がった感触は、やっぱりところてんのようだった。


「ほう。ただ暴れるだけの獣でも、甘さを捨てきれない未熟でもないようだ。予想以上のあたりではないか。この時代にはなかなか相応しくない戦士のようだな、お前」

「…………」


 刃は言葉を返さない。言葉を弄するべきではないと思った以上に、この相手と言葉を交わすべきではないと思ったからだった。


 恐らく。

 いま話しているのが、『邪神の本』の意思なのだろう。


「私も戦士としての矜持くらいは持ち合わせている。きみとは手合わせしてみたいところだが――あいにくいまの私は身体を借りている身でね。勝手はできないのだ。悪いがここは退かせてもらおう。またな」


 刃が「待て」と言う前に、暗黒の中に異様な響きを広げるその声とともに黒いもやが肥大化し、あたり一面を埋め尽くしていく。刃は逃げようとしたものの、高速で大きくなるもやの範囲からは離脱できなかった。それに包まれると、刃の意識も暗黒に包まれていく。

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