第10話
ざり、ざり、ざり。
田中利明は学生時代から慣れ親しんだ夜の街を歩きながら、果たしていま自分は転職をするべきだろうかと、悩んでいた。
世間からは優良だと言われている大手企業に新卒で就職でき、待遇にも不満はなかった。
いや、正確に言えば多少の不満はあったが、それは働くとなったらどこにでも発生するレベルのものだ。その程度で辞める辞めないだのと言っていたら働くことなど到底できやしないだろう。
だが、それはもう過去のことである。
最近になって看過できないレベルで待遇が悪化したのだ。
最近行われた人事異動で自分たちの上司になった男がとんでもない男だった。
モラハラ、パワハラは当たり前。
自分はろくに仕事はしない。だが、部下の手柄は平気で奪う。
他の者がいるオフィスで大声を出して人格否定の罵倒など日常茶飯事。
自分の気に入らない相手にはその品性を疑いたくなるような嫌がらせをする。
なにもしないくせに部下たちには必要以上の負担を強いて、それで『管理ができていない』などとふざけたことを言う。
まだ一ヶ月も経っていないというのに、こういうことを言いだしたらきりがないほどだ。
奴のせいでもう二人も会社を離れてしまった。両方とも自分よりも若い二十代の子たちだった。それを思うとすごく悲しいし、なにもできなかった自分も苛立たしい。どうして奴に好き放題させてしまったのだと、後悔している。
それに辞めてしまった片方はまだ今年で入社二年目の女性だ。
もう一人は就職氷河期世代だった。自分が入社したときよりも遥かにハードルは高かったはずである。多少、考えかたに違いはあるものの、十歳近く離れていればそのくらいは当たり前なので田中は気にしていなかった。二人とも仕事もよくできるし、感じのいい子たちだった。
何故、優良企業と知られている自分の会社にこんなろくでもない奴がいるのか、奴を雇った人事の頭がどうなっているのかと言いたい。弱みでも握られているのではないかとすら思えてくる。
いや、もしかしたら昔はまともだったのかもしれない――が、昔がどうであったとしてもいまはろくでもないクソ野郎であることに変わりはなく、過去はまともだったからといっていまの所業が許されていいはずもない。
どうしてこうも人間としてどうかしているような奴がいるのだろうか。田中にはそれがわからない。
田中は昔から正しくあろうと心がけてきた。
誰かにそう強制されたわけではない。気づいたときにはそうあることが当たり前だと考えて、ずっと生きてきた。
だから、まったくわからない。
平然と人を傷つけて貶めるようなことができてしまう人間の心理というものが。
理解したいとも思わないけれど。
ざり、ざり、ざり。
無論、仕事の能力と本人の人間としての品格に因果関係も相関関係もないことくらい田中にだってわかっている。人間としてはどうしようもない奴でも、仕事に関してはとても有能な人間という奴も、十五年の社会人生活で何人も見てきた。
だが、あいつはどうだ?
仕事はろくにやらない。実際はどうだか知らないが、奴の言動を見ている限り、とてもできる奴とは思えない。
ただ馬鹿みたいに大声を出して、人格否定しているだけである。できるのであれば、もっと叱責をするにしても、できる人間であったのならそのような人格否定などしないはずだ。ろくになにもできないような奴だからそんなことしかやらないし、そもそも他にはなにも知らないのだろう。
ざり、ざり、ざり。
定期的に異動が行われる日本企業では、時間が経てば奴はどこか別の部署に異動になる。
だが、奴の異動が行われたのはつい最近だ。あと二年くらいはあのクソ野郎が上司だろう。それを考えると絶望的な気持ちになる。
あと二年もここ一ヶ月のようなことが毎日続くのだ。
会社に奴の問題行動のことを訴えたとしても、すぐには対処されないのは目に見えているし、そもそも日本企業は正規雇用されている人間のことを簡単には切れない。適当な軽い処分を受けただけで終わって、結局なにも改善されないままというのも奴の問題行動がさらにエスカレートするというのも充分あり得る。
そうなったときに一番困るのは自分たちだ。
それに、人事異動というのは意味不明なところがあるから、二年ではすまない可能性だってある。
ざり、ざり、ざり。
自分の身を守ることを第一に考えるのなら、いつになるかもわからない異動まで耐えるより、さっさと辞めてしまうべきだ。
あんなわけのわからない輩に付き合って心や身体を壊してしまったらなにもならない。
心や身体を壊さなければ、なんとかなるだろう。それに、田中はまだ未婚である。しばらくは働かずとも生きていける余裕はあるので、焦って新たな職を見つける必要性もない。とはいっても、三十半ばも過ぎた身だから、のんびりしてもいられないだろうが。
それに日本は、こういった他人の悪意で心や身体を壊してしまった者を、社会不適合者とか言ってレッテルを貼りつけてつま弾きにするのが大好きな素晴らしい国である。次に自分がそうなるかもしれないなどとは微塵も考えないで。
ざり、ざり、ざり。
だが、同時にこうも考える。
なぜ、なにも問題を起こしていない自分の方が会社を離れなければならないのか、離れるべきはどう考えたって奴の方だろう、そんなのおかしいじゃないか、と。
どうしてこんなことになっているのだろう。この国はどこで舵を切る方向を間違えたのだろうか。一回、なにもかも滅亡した方がいいのではないかと思えてくる。自分が生きている間にそういった問題が正される日が来るのだろうか――
ざり、ざり、ざり。
しかし、奴を懲戒解雇に追い込むにはどうしたらいいだろう。奴の問題行動が人事に見逃されているのも少し気にかかる。ただ人事がことを荒立てたくないだけかもしれないが――もしかするとなにかあるのではないか――という疑念がぽつぽつと浮かぶのも事実だった。
果たして自分はどうするべきだろう。
離れるか、
それとも戦うべきなのか――
ざり、ざり、ざり。
そこで田中は背後から聞こえてくる異音に気づいた。
背後を振り返ると、そこには小さな街頭に照らされているだけの真っ暗な夜の街が広がっている。住み慣れた街のはずなのに、静寂と暗黒に包まれているせいかとても不気味だ。あの暗闇の中からなにか飛び出してくるのではないか――そんな思いが頭を過ぎった。
そこで田中はこのあたりで起こっている人間が消失するという事件のことを思い出した。
噂によると、目の前でいきなり人間が消えてしまった、とかなんとか。
さすがにそれは少し馬鹿馬鹿しすぎる。田中はそう思った。それならまだホッケーマスクをつけたチェーンソー男が襲いかかってくるほうが現実味がある。
この都市伝説めいた噂を流した奴がどんなのか知らないが、少しセンスが欠けていると言わざるを得ない。
道が暗いせいでなんだか恐ろしいもののように感じるが、なにかあるわけではない。気のせいだ。田中は踵を返して再び歩き出した。
ざり、ざり、ざり。
その瞬間、再び聞こえてきた異音のせいで思わず足をとめてしまう。
やはりあの変な音は気のせいではない。背筋に冷たいものが走る。しかし、なんの音だ。なにか重いものを引きずるような音だったが――
なんだか身体が重い。いま着ているスーツが水を吸ったかのような感覚だ。もしかして本当に『なにか』いるのか? いや、まさか、そんなこと――
ざり、ざり、ざり。
また聞こえた。しかも先ほどより大きくなっている気がする。
やはり、自分の背後には『なにか』いるのだ。振り向いて背後を確認したい衝動とともに、決して振り返ってはいけないと本能が訴えてくる。
逃げなければ――と、判断を下し、走り出そうとすると――
明かりが少なく、着ているスーツが黒のせいでいままで気づかなかったが、黒い影のようなものがまとわりついているのを認識してしまった。それを見てしまった田中の恐怖心は大爆発を起こす。
だが、なにが起こっているのかまったく理解できなかった。
身体が思うように動かせないことだけは理解できるのがとても恐ろしい。恐怖でなにがなんだかわからなくなっている間にも自分にまとわりつく『なにか』の量はどんどん増えている。
気づいたときには、いつの間にか自分の身体が影のようなもので包まれていた。影に包まれた部分が消失してしまったかのようだ。これが、最近この街で起こっていた人間消失事件の原因なのか――
じりじりと後ろの方に自分の身体が引きずられていることを認識して、田中の恐怖はさらに爆発した。
先ほどまでおぼろげなものだった『なにか』に気配が明らかに強くなっている。なんだ。なんでこんなことになっている。俺がなにをしたっていうんだ。なにも悪いことなんてしてないのに。それなのにどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのだ。理不尽すぎるじゃないか。恐怖に混じって怒りが湧き出して自分でもなにがなんだかわからなくなってきた。まだやりたいことだってたくさんある。プライベートでも仕事でも。大学を卒業してからまだ一度も行けていない海外にだって行きたい。結婚だってしたいし子供だってほしいと思っている。やりたいことなんて全然できていないのに。どうして。嫌だ。死にたくない。死にたい人間なんて腐るほどいるんだから俺を狙う必要なんてないじゃないか。そいつの狙えよ。なんで俺を。やめてくれ。お願いだから。嫌だ嫌だ。誰か助けてくれ。田中の身体にまとわりついている『なにか』は自分の身体をほとんど塗り潰していた。墨汁かなにかでも浴びたみたいに真っ黒だ。死にたくない。助けて。助けてくれ……。
失禁しそうになりながらそう願っていると、急に背後からかけられている力が消え去り、その反動でアスファルトの地面を派手に転がった。恐怖のせいか、痛みはまったく感じなかった。いつの間にか身体にまとわりついていた真っ黒な『なにか』が消えていることに気づく。なにが起こったのかまったく理解が追いついていなかった。なにが起こったんだ……。
「逃げてください」
夜の闇を切り裂くように聞こえてきたその声が恐慌に襲われて前後不覚に陥っていた田中を現実世界に引き戻した。
「振り向かずに体力が続く限り逃げてください。これは僕がなんとかします」
それを聞いた田中は返事もせずに言われた通り、背後を振り向かないで、体力が続く限り全速力で走り続けた。
走って。
走って。
走りまくった。
社会人になってからろくに運動していなかったはずなのに、不思議なくらい走り続けることができた。火事場の馬鹿力とかそういったものかもしれない。
どれだけ走ったのは見当もつかなかった。
百メートルも走っていないかもしれないし、何キロも走ったかもしれない。
どこか壊れてしまったのか、足はなかなか止まってくれない。息が切れてもなお足は動き続け、止まったのは足が限界を迎え、派手に転んだときだった。
全身に千切れるような痛みを感じる。
いくら命の危機があったとはいえ、何年もろくに運動していないなまった身体であれだけの距離を走ったのだ。どこか身体を痛めていてもおかしくない。
だけど――
助かったことに変わりなかった。
どうすることもできない絶望的な状況から、確かに自分は助かったのだ。ちゃんと生きている。夢じゃない。全身を突き刺すように走る痛みがその証拠だ。
いくぶんか気持ちが落ち着いたところで、自分が道路のど真ん中で転がっていることに気づいた。せっかく助かったのに車に轢かれて死んだのでは笑い話にもならない。
そうなったら、さっき助けてくれた誰かに対して仇を返すように感じられた。立ち上がることができなかったので、這いずって歩道まで進んでいく。歩道の壁に背中をもたれかけて、息を落ち着けた。
そういえば助けてくれたのは誰だったのか。必死だったのでよく思い出せないが、聞こえてきた声は若い男だったような気がする。
気分が落ち着いてきたら、今度は笑いがこみ上げてきた。なんで笑っているのか理解できない。
だが、笑いたくて仕方がなかったのだ。
死ぬような思いをしたせいで、どこか壊れてしまったのか――と、馬鹿笑いを続けながらそんなことを思う。
その笑いが収まったところで、いままで自分が悩んでいたことはなんだったのか、という思いが過ぎった。さっき自分に襲いかかってきた『あれ』に比べれば、あのクソ上司のことなど砂粒かなにかとしか思えなくなっていたのだ。
戦ってやろうじゃないか。あのクソ野郎をクビに追い込んでやる。自分のクビが切られようが知ったことか。いままであいつがやってきた報いを受ける日が来たのだ。そうに違いない。
この世界には、先ほど自分を助けてくれた誰かのように、もっと恐ろしいものと戦っている者がいるのだ。それを考えれば自分の敵などたかが知れている。
そのためには色々準備が必要だ。明日からそれに取りかかろう。田中は再び高らかな笑い声をあげた。
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