第9話
「準備も終わりましたので、これから『邪神の本・消失事件』について、現在わかっている情報を発表したいと思います」
加奈子は律儀にここでもお辞儀をして、澱みない慣れた口調でそう告げる。
準備、といってもたいしたことはしていない。結構な荷物を持ってきていたので、もっと大がかりだと思っていたがそうではなかった。タブレットPCをネット回線と小型のプロジェクターに接続しただけである。
それに、加奈子から刃に手渡されたのは分厚い紙の束ではなくタブレット端末だ。ここにはひと通り、まとめられた情報が入っているのだろう。なんだかハイテクだな、などとそんなことを思いながらも加奈子の指示を待っている刃であった。
「それでは、そちらのタブレットにある地図のアイコンをタップしてください」
刃は言われた通りに地図のアイコンをタップする。すると、すでに加工が施されたこの街の地図が表示される。
地図には赤と青と黒の三色の点が表示されている。赤い点は三つ、青と黒の点はその倍ほどの数だ。
「この三色の点は?」
「そちらは、消失事件が発生した場所ないし、発生したと思われる場所です。
赤は複数の目撃があった地点、青は一つの目撃になりますが比較的信頼できる情報、黒は目撃情報があったものの、確証が取れてない情報になります。
これは弊社所属の調査員の聞き込みから割り出したものなので、大なり小なり誤差はあるかと思いますが、地図上にあるこれらの地点周辺で事件が発生したと考えていいでしょう」
地図の一番東にある光点の位置は刃の住むアパートからそれほど離れていない。これをやった奴はなかなかどころではない大胆さだ。
というか――
「なんか、やけに目撃されてる事件が多いね」
刃はこの地図を見て、感じた率直な意見を口にした。
「はい。その通りです。この事件の妙なところの一つですね。まあ『邪神の本』などというものかかわっているわけですから、前提からして妙ではあるのですが。まあ、それについて論じる必要はないでしょう。
とにかく、この目撃情報の多さはちょっとおかしいということです」
「これだけ目撃情報があったなら、事件を起こしている奴の尻尾をつかめていないのはおかしい、ってこと?」
「ええ。理解が早くて助かります。人間がまるまる消滅するという相当な出来事をこれだけ目撃されているにもかかわらず、犯人をまったく割り出せていないのはどう考えておかしい。これだけ目撃があれば、犯人に関する情報がもっとあって然るべきなんです。
「ですが、事件自体の目撃情報の多さのわりに、それを起こしている犯人の情報はまったくといっていいくらいに出てこなかった」
「『邪神の本』が持つ不思議な力によってなんらかの隠蔽がなされている?」
「もしくは、この犯人が政治的、経済的に大きな力を持っている、ということも考えられなくもないですが、そちらの可能性は低いと思われます。権力を持っていても、ここまで情報を統制するのは難しいですから。
「ですので、この事件の目撃の情報と犯人に関する情報の量的な格差は、指針さんの言うように、『邪神の本』の特殊な力によってなんらかの隠蔽がなされている可能性が高い。ここまでなにか質問はありますか?」
「犯人自身の隠蔽にかかわる『邪神の本』の力についてなにか見当は?」
「残念ながら、いまの段階ではそれについて信頼できるようなものはありません。聞き込みの結果から、強力な集団催眠のようなものと感じられましたが、『邪神の本』の特殊な力によってなされているのだとすれば、そう断じてしまうのは早計かと思われます」
確かにその通りだろう。この段階で『邪神の本』の力を決めつけてしまうのは危険だ。決めつけてしまったら、それと合致しない情報を見落としがちになる可能性が高い。人間の認知は自分の見たいもの、自分に都合のいいものを優先的に選別する。それは刃も変わらない。
それに『邪神の本』の特殊な力は多岐にわたるものであると竜太から聞いている。
そうなると――
「一つ思ったことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「竜太から聞いた話なんだけど、『邪神の本』の特殊な力の中には他人を操るほか洗脳のような能力があると聞いた。そういった力があるのだとすれば、事件を起こす前になんらかの誘導をして意図的に目撃させたり、そもそも見てもない目撃を当人があったと思わされているということもあり得ないかな?」
刃の意見を聞いて、加奈子は表情をまったく変えぬまま思案する。しばらく無言の時間が続いたところで――
「そうですね。それはあり得るでしょう」
やはり表情を変えないまま氷のような冷徹さを持って加奈子は言う。
「それだと、目撃情報のうち、無視できないレベルで信頼できないものが混じってないかな?」
もともと人間の記憶というのはたいして信頼できるものではない。『邪神の本』などという理外のものを使わずとも、記憶の捏造など簡単にできてしまう程度には大抵の人間の記憶はあやふやだ。
「ええ恐らく――というか、かなり高い確率でそれは混じっているでしょう。
ですが、いくつかの目撃が完全に捏造されたものであったとしても、少なくともいまの段階でそれを気にする必要はないと思われます」
「その理由は?」
「いま起こっている消失事件が、誰かをおびき寄せるための餌である可能性が高いからです」
「……餌」
ごくり、と刃は唾を呑み込んでそう呟いた。
そうであるなら、事件の目撃情報が多い理由も説明がつく。
力を使えば完全に近い隠蔽も可能なはずなのにそれをしない。そればかりか、わざと目撃情報という『餌』を作り出す。そうなると刃たち――事件を起こしている奴はこちらを特定しているわけではないだろうが――をあぶり出そうという意図が見えてくる。
『邪神の本』がそれを行う意図は不明だが、偽の目撃情報も『餌』であったのなら、目撃情報自体を警戒する必要はあまりない。偽であろうが、そうでなかろうが、誰かにそれを察してもらうことが目的なのだから。
だとすると、警戒するべきは別のところだ。
「一番気をつけるべきなのは、その誘導や偽の記憶を植えつけられてしまうこと、かな」
「はい。それだけはなんとしても避けなければなりません。誘導ないし記憶の植えつけがどのようにして行われるのか、その影響力の強さがどの程度のものか不明ですが――それらがこちらに致命的な打撃を与えることになりかねないのは事実でしょう。避ける方法があればいいのですが、それについて現段階ではまったく情報がないので対策を立てるのは難しいですね」
「……どんなことをしてくるのかわからないってのは怖いね」
刃のその言葉を聞いた加奈子は、このブリーフィングが始まってからはじめてその表情に変化が見られた。わずかなものであったが、それは確実に。
「……怖いものとか、あるんですね」
「そりゃあるよ。僕だって怖いものは怖い。それに、わからないものっていうのは一番恐ろしいよ」
「……指針さんは、もっと怖いもの知らずだと思っていました」
冷たい無表情とは裏腹に、加奈子は恐る恐るそう言った。
「……もしかして、僕のこと竜太から聞いてる?」
「はい。こちらに来る前に、指針さんの経歴にはひと通り目を通しています。黙っていて申し訳ありません」
「別にいいよ、そんなの。仕事相手の経歴を知っておくのは普通だしさ。それに、そう思うのも無理はないよ」
だって。
異形の怪物に恐怖があるなどと思わないのが普通なのだから。
彼女がそう考えたって無理はない。
むしろそれは必然と言ってもいいだろう。
怖がる怪物など、それは実に滑稽だ。
そう考えると、いくらか楽になる気がする。
たぶん、気のせいに違いないけれど。
「まあ、僕のことはいいさ。それよりも話を続けよう。余計なことに余計な時間を使うもんじゃない」
「そうですね。その通りです。では、話を続けさせていただきます。
こちらが記憶の誘導や偽の記憶の植えつけを受けるのも驚異ですが、もう一つ気をつけておくことがあります。相手が使っている隠蔽の力です。
「目撃情報の多さから、目撃者のうちの結構な数が実際に犯人の姿を見たのではないかと推測されます。それにもかかわらず目撃者のすべては犯人に関する情報はない。
「これについて考えてみると、次のような推測ができる。そもそも犯人のことを認識することができない、現場では犯人のことは認識できていたはずだが、犯人がその場から消えてしまったら、その記憶が消えて認識できなくなる――この二つのどちらか、もしくは両方の力があるのではないかと考えています。相手がこれほど大胆な行動を取っていることを考えると、両方あると考えて行動するべきでしょうね。
「これは、誘導や偽の記憶を植えつけられるほどではありませんが、かなり厄介ものでしょう。犯人が事件を起こしている現場を押さえたとしても、その場で押さえることができなかったら、また初めからやり直しになってしまうわけですから。
「この認識阻害の力が指針さんに対してどれほど影響力を持っているかまだ不明ですが、事件の目撃者と同じレベルで作用すると考えて動くのが無難です。
「その場から逃げさえすればなんとかなる、という手段を持っていると、見つかった際に阻害の力が発揮するまで距離と時間を稼ぐ手段を豊富に持っているという予測が立つ。
「それらを総合すると、相手が逃げに徹した場合、追いかけるのは非常に困難であるという結論が出ます。いままで『邪神の本』の足取りがなかなか追えなかったのもこの強力な認識阻害が原因かと思われます」
「ふむ。さすがは『神』ってとこだね」
「ええ。ですが、私たちの目的は『邪神の本』の回収、もしくは破壊ですから、実際に『邪神の本』の足になって動いている者を捕らえる必要はない。
「むしろ、足になっている者を捕らえてしまうと、『邪神の本』の方が足を切り捨てるという行動を取る確率は非常に高い。無論、次に足となる人間を見つけるまで動けなくなるわけですが、ここはアメリカの砂漠地帯などと違って人間がいないところを見つける方が難しい場所です。数時間、早ければ数十分で次の足を見つけてしまうでしょう」
「足になっている奴は泳がせたまま、『邪神の本』の居場所を特定する方がいい?」
「はい。ですが、露骨にやるのは避けた方が望ましいです。こちらが足を泳がせていることを察知されてしまえば、現在、足になっている人間を早急に切り捨てて別の者に乗り換えてしまうということもあり得ます」
「うーん」
次から次へと出てくる困難を目の当たりにして、刃は思わずうなり声をあげてしまった。いつものことであるが、簡単にはいかないものだ。
「難しいね」
「はい。ですが、いまの段階ではかなり大雑把なものになりますが、『邪神の本』の居所を推測できます」
「どういうこと?」
「いま開いている地図をスワイプしてください」
「うん」
刃は言われた通り、タブレットの画面をスワイプする。するとまた地図が表示された。今度の地図には三色の光点を囲む円が表示されている。
「無差別殺人にはいくつかのパターンが見られるのですが、よくあるパターンとして、一見無作為に起こしているように見えて、ある地点から二キロ程度の圏内で犯行を起こしているということがあります」
「じゃあ、この円の中心近くに犯人の自宅があるってこと?」
「自宅のケースが多いですが、自宅と決まっているわけではありません。実際に生活している自宅は離れた場所にあり、犯行を起こすときにだけ利用する拠点ということもあります。
「ですが、どちらにしても犯行の証拠が多くある場所に変わりありません。
それに『邪神の本』は事典のように分厚くて大きな本ですから、携帯するのには向いていない。持ち歩く必要がないのであれば、『邪神の本』の本体は自宅ないし拠点に置かれたままになっていてもおかしくありません。
「とはいっても、これはあくまで推測ですので確証はありませんし、場所も大雑把でしかありませんから、私と指針さんの二人しかいない以上、その近辺をローラー作戦で捜索するのは無理があります。
「仮にローラー作戦的な戦略を取ることができたとしても、あまり得策ではないでしょう。察知されて、別の人間に乗り換えられてしまう危険が出てきますから。そんなことになれば元も子もなくなる。ですが――」
そこで少しだけ加奈子の論調に変化が生じた。
「私は『邪神の本』は、少なくともいまは逃げることはない、と推測しています」
「どうして?」
「『邪神の本』の一連の動きには確信があります。言い換えると、明確な目的を持って動いている。ここまでわざとらしく目撃者を作っていることがその一つです。
「先ほどこれらを私は、『誰かをおびき寄せるための餌』ではないかと言いました。誰かをおびき寄せることが目的で、このような小さくないリスクを負っているのなら、『邪神の本』はこの場所になんらかの強い目的を持っており、このような行動をすべて計算して取っていると見たほうがいいでしょう。
「さらに、これだけのリスクを負っても自分が捕らえられるとは考えておらず、逃げる気もさらさらない。むしろこちらを挑発しているように感じられます。『捕まえられるもんなら捕まえてみろ』というような」
加奈子の口調は相変わらず静かなものだったが、それにはどこか怒りのようなものが感じられた。ただの職務としてこの仕事を受けたのなら、こんな怒りを発したりはしないのではないだろうか。
やはり『邪神の本』となにかあったのだろうか、と刃は気になったものの、いまそれを口に出すべきではない、そう判断を下して、それは胸にしまった。
「ですから、ここは相手の挑発に乗ってやりましょう。それに次に事件が起こりそうな場所は見当がついています。また画面をスワイプしてください」
刃はまたタブレットの画面をスワイプする。
今度は三色の光点とそれを囲む円の他に数字が表示された。
「ところで、その地図の点を見て、なにか変だと思いませんか?」
「そう言われると確かにそうだ。やけに規則的だね」
言われるまで気づかなかったが、地図にある光点は多少のばらつきはあるものの、将棋盤のような配置になっている。
「その横にある数字は、目撃情報から算出された日付と時刻です。情報にムラがあるので、厳密には一定ではないですが、すべての事件が三日か四日の間隔で起こっています。均等に近いものになっているのはかなりおかしい。
「それに事件が起こったと思われる時刻もかなり近いです。前に事件が起こったのは四日前。そして、円の一番右下のあたりに空きがある」
「ということは、『邪神の本』が餌を撒いているのなら、今日また事件を起こす?」
「その通りです」
「じゃあ、これから僕はそのあたりに出て行って、起こる可能性が高い事件を阻止し、できれば『邪神の本』を回収、もしくは破壊するってことだね」
「はい。ですが――」
「大丈夫。それほど範囲は広くないし、問題ないよ。それに、『邪神の本』の特殊な力が僕にどれくらい影響するのかも確認できるからね」
「……申し訳ありません」
そう言った加奈子の表情はやけに曇っていた。
「どうして謝るのさ」
「危険なことを、させてしまうわけですし……」
「気にしなくていいよ。身体を張るのが僕の仕事だ。それで僕が大怪我しようが死のうが藤咲さんの責任じゃない」
「……お強いんですね」
「そんなことない。ただそれ以外できないだけだよ」
たぶん。
指針刃という人間は生まれる時代を間違えたのだろう。
そんな風に、思う。
「ま、これからなにをするか決まったわけだし、話し合いはこのへんにしよう。まだ時間があるから飯も食っておきたいし。なにかあったっけな……」
「では、私がなにか作ります。よろしいですか?」
「うん。よろしく頼むよ」
さて、飯を食ったら仕事だ。
さっさと終わらせてしまおう。
そのほうが絶対いいに決まってる。
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