第13話
「クソクソクソ! 舐めやがってあの野郎!」
増田道夫は怒りに身を任せてヒステリックな声を上げ、近くにあった電柱に蹴りを入れた。蹴りを入れても電柱はまったく揺らがず、叫び声も夜の街の虚空に響くだけだ。蹴りつけた電柱が壊れてくれたのならいくぶんか気が和らぐかもしれないが、壊れるどころか一ミリも動いてないのが現実だった。それが気にいらない。たかが無機物が自分の思い通りにならないなどあっていいはずがないのだ。
おかしい。なにもかも間違っている。どうしてこんなことになっているのだ。増田は世界でもっとも優れた人間なのだ。そんなことあってはならないのに。何故こんなことになっている。やはりこの世界はなにもかも間違っているのだ。あらゆるものを徹底的に壊してすべてを作り変えなければ……。
それに――
なんだあいつは。
増田は先ほど自分に歯向かってきた男のことを思い出した。それだけですべてを焼き尽くしたくなる怒りの炎が増田の心の中に旋風を起こす。
「クソが! 誰にあんな口を叩いてると思ってるんだ!」
またしてもそう叫び声をあげて、増田は近くの壁を殴りつけた。しかし、壁は壊れることはなく、殴りつけた自分の拳に空しい痛みと衝撃が返ってくるだけだった。当然、こんなことで怒りが治まるわけもない。
若い男だった。自分と違って別段、特別なところはなにもなさそうな凡人にしか見えなかった。年上だったとしても二十三、四ぐらいだろう。自分とそれほど変わらない。
それなのに。
それなのに何故、奴は自分の力をものともしないのか。
いつも通りの顛末を迎えるはずだった木偶野郎を消滅させるはずだった。クソ以下の凡人を消滅させるはずの力を『ところてんみたいだった』などとのさばって平然と切り裂き、あのサラリーマンを助けて、それを邪魔してきた。それも許すことはできないが、それ以上に許されないのは自分を愚弄し、さらには歯向かってきたことだ。増田を誰だと思っているのか。ゴミ以下の存在がそのような暴挙を行っていい道理などない。それはあらゆる時代で決まっている真理なのだ。
だが――
奴はそんなこと気にもかけていなかった。奴の態度を思い出すだけでもとめどなく怒りが溢れてくる。
きっと愚かすぎて増田の持つ素晴らしさなどなに一つ理解できなかったのだ。低脳のクズめ。
だから奴はあんなことを平気でしでかしたに違いない。なんということなのか。
そして、それは許されることでないのは明らかである。
そのような行為を平気で行う者にはしかるべき罰を与え、自分がどれほど愚かなことをしたのか理解させる必要がある。
いや、理解させるだけでは駄目だ。
自分が受けた千倍の屈辱を与え、徹底的に後悔させたうえでその身をすべて引き千切って細切れにして、家畜の餌にしてやるくらいのことをしなければこの怒りが治まることはない。
しかし――
奴は木偶のくせに増田の力を平気ではねのける力を持っている。それは当然許されることではないが、自分の目の前で起こってしまった現実であることに変わりはない。それだけは認める必要がある。それが自分の脅威であることも。
どうなっている?
どうしてこんなことになったのだ。
自分はこの世界すべてを支配できる力を手に入れたのではなかったのか?
そう、その通りだ。それは間違いじゃない。増田は確かに力を手に入れたのだ。それが現実のものであることは増田が一番よく理解している。紛れもない真実なのだ。当たり前じゃないか。増田はこの世界でもっとも偉大な存在なのだ。力を手に入れるのなんて当たり前ではないか――
だが、あの男にはどういうわけかその力がまるで通用しなかった。
あり得ない。
増田の力を踏み潰して、引き千切って、平然としたまま、猛獣のような野蛮さと速度と力で圧倒的な圧力をもってこちらに立ち向かってきた。
そもそも何故奴はそんなことができる?
ゴミ以下の凡人にどうしてあのような絶大な力を与えたのか。
どう考えたって、そんなのあっていいわけがない。
やはりこの世界は間違っているのだ。そうでなければ道理が合わない。増田のことを邪魔できる者の存在などそもそも間違っている。
間違いは正さなければならない。
それが真理だ。
真理に反するものはすべて排除しなければならない。
しかし、どうする?
間違いを正すにしても、なにをするにしても、あの男は増田の邪魔をするに違いない。奴は増田の持つ『本』の存在を知っているようだった。そして、奴の言動からして、それを増田から奪うつもりだ。
やはり排除しなければならない。
排除しなければ、増田はこのままずっと屈辱的な立場に甘んじなければならなくなる。
そんなことあっていいはずがない。
増田にはこの間違った世界を正すという崇高な目的があるのだ。
というか、この力は万能ではなかったのか?
どうなっているんだ、本当に――
『ずいぶんと荒れているな』
不意に頭の中に声が響いてきた。相変わらずその声は余裕ぶっている。その態度はいまの増田によってとても不愉快だった。どうしてこいつはあんなことがあったのに余裕でいるのか。ふざけるのも大概にしろ。
「なんだと? こっちはあんなに馬鹿にされたんだぞ! 荒れるに決まってるだろ!」
『そう言うな。愚か者の戯言など適当に流してしまったほうがいいこともある。無論、常にそうしていればいいわけではないがな。支配者たる者、余裕の一つや二つは見せてやらねば、あの手の輩にいつまでも軽く見られてしまうぞ』
「そ、そうか。……確かにその通りだ」
怒りで少し余裕を欠いていたかもしれない。それに奴の言うことは的外れではないだろう。余裕のない者は軽く見られてしまう。それは事実である。
「まあそれはいい。気にしても仕方ないからな。それより、どういうことなんだよ?」
『どういうこと、というのはなんだ? それでは漠然としすぎていて答えようがないぞ』
「なんだとこの野郎!」
『だから落ち着け。なにをそんな焦っているのだ』
増田のことをたしなめるような声が聞こえてくる。それが増田の神経をさらに逆なでした。
「お前は俺に歯向かってきたあのクソ野郎のことをなんとも思ってないのか?」
『なんとも思っていないわけではないよ。おぬしとは違うだろうがね』
「あいつ、力が全然通用しなかったんだぞ! どう考えたって脅威だろう!」
増田は金切り声をでそう言った。
『脅威だと言われればその通りだが、脅威だからといって焦る必要はなかろう。必要のない焦りなど致命的なミスを犯す原因の一つだぞ。そもそも必要性のある焦りなど存在しないが』
「そ、そうかもしれないけど……どうにかしないと駄目だろう。それにあいつ、『本』のことを知ってるみたいだったぞ。俺からあれを奪うつもりなんだ。奴がまた襲ってきたら、ど、どどうするんだよ!」
『それは私に任せると言ってたような気がするのだが――思い違いだったかな?』
「ま、任せるとは言ったけど、俺に知らせなくていいなんて言ってないぞ! お、お前だって、俺が捕まっちゃったら、ここ困るだろ!」
『……ふむ』
ちゃんと聞いているのか、そうでないのか、奴はそう言ったまま沈黙する。
「お、おい。聞いてるのかよ!」
『ちゃんと聞いているよ。安心しろ。おぬしの言う通りだ。せっかく目当ての者を見つけたのに、おぬしが捕まってしまったら、私も面倒なことになる。それはなんとか避けたいところだな』
「ほ、ほら。じゃ、じゃあどうするんだよ? なんとかしないと、ま、まま、まずいだろ?」
いくらこちらの力が絶大であっても、奴の力を軽視するわけにはいかない。
『では、おぬし。なにか意見はあるかな?』
「なんでそうなんだよ!」
『私は居候している身だからな。おぬしになにか意見があれば尊重しなければならん。以前も言ったような気がするが……どうだったかな?』
「そんなもんわざわざ聞くんじゃない! いい加減にしろよ!」
クソ! どいつもこいつも舐めた口を叩いて馬鹿にしやがって。俺のことを誰だと思ってるんだ。
『……そういうのなら自由にやらせてもらおう』
「ま、待て! 自由にやっていいが、なにをするのかちゃんと言えよ! お、俺の意見は尊重するんだろ?」
自由というのは黙って好き勝手にやっていいことではない。そんなことは当たり前だ。
『それもそうだな。パートナーに対して、そういった情報伝達は不可欠だ。で、なにが訊きたいかな? 誠心誠意答えよう』
あまりにも胡散臭い言葉が響いてくる。まあいい。それくらい我慢してやるのが義理というものだ。
「それで、奴のことはどうするつもりなんだ? 分が悪いとか言ってなかったか?」
先ほど身体を貸したときにそのようなことを言っていた。それを増田は思い出す。
『その通りだよ。それも相当な』
「な……」
その言葉を聞いて増田は絶句する。それなのにあんな余裕ぶっていたのか。
『まあ待て。そう結論を急ぐなよ。分が悪いからといって勝算がないことにはならんだろう。わからんかな?』
「お、俺に講釈ぶってんじゃねえよ!」
どうして、いちいち勘に障る言い方をするんだこいつは。
いや、待て。こう苛立っていては駄目だ。こちらの余裕がないのが丸わかりではないか。いくらやつが協力相手だからといって弱みを見せていいわけじゃない。
「ふん。まあいい。で、具体的にはどのあたりが分が悪いんだ?」
『そうだな。奴と直接的な殴り合いになったらまず勝ち目はない』
「な、なんでそんなこと黙ってたんだよ!」
そんなことはじめて聞く話だ。それであんな余裕ぶっていたというのか。
『ま、先ほどやったように表面を取り繕って逃げるくらいはできる。が、正面からぶつかって勝つのは不可能だな。私は身体を借りているに過ぎないし、そもそもこの身体は普通のものだ。その差ばかりはどうしようと埋められん。難儀なものよ』
「力を使ってなんとかするとかできないのか?」
この力を使えば色んなことができるんだから、それくらいできたっていいはずだ。
『できなくはない。が、あまりおすすめできんな。分が悪いうえになにも得るものがなく、残りの寿命が半分になっても構わんというならいいが』
「ぐ……」
それは困る。
そのうえ、なにも得られないまま負ける可能性が高いのなら、わざわざそれをやる理由などない。
「じゃ、じゃあ奴を操るのはどうなんだ? いつもやってるようにさ。そ、それなら直接戦うわけじゃない。隠れてやったって問題ないだろ? ど、どうだ?」
『そうだな。できなくない。が、奴の強度を考えると、いつも通り、一度かければあとは好き放題――というは無理だな。奴の強度は並ではない。強い力を使って操ったとしても、時間が経てばはねのけられてしまうだろう。
『そうなると強力な手段に訴えるのは少しリスクが大きい。破られたときにこちらの体制を立て直すことができなくなるかもしれん。二度三度とは同じように通用せんだろう。最後の手段として残しておくのが望ましいな』
「じゃ、じゃあどうすんだよ?」
これではなにもやりようがないではないか。
『心配するなよ。簡単な手段では効果が得られないとうだけのことだ。たいしたことではない。手間をかければ済むだけの話だ。それに、正面から戦って勝てないのなら、正面から戦わなければいいだけのことではないか。簡単だろう?』
尊大な声が響いてくる。やはり余裕のようだ。その自信はまったく揺らいでいない。
「……からめ手を使うってことか?」
『そうだ。こちらはその手段に関して事欠かないからな。詳しいプランについては追って話そう。そこで、だ。それを行うにあたっておぬしに頼みがある』
そこで奴の声が妙に重苦しいものへと変化する。
それは、どこか禍々しさを感じるものだった。
「な、なんだよ?」
『先ほど逃げたときのようにこれから身体を貸してくれないか? なあに。常にとは言わん。こちらが申し入れたときに数十分ばかり貸してくれればそれいい。どうかね?』
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