第6話

 世間が新年度に変わっても、(ほぼ)無職である刃にとって、新年度が始まろうが始まらなかろうがあまり変わらない。自堕落で適当に毎日を過ごすだけである。


 まあ、先日、『仕事』の依頼を受けたので、これから多少忙しくなるかもしれないが、それにしたって朝早く起きて、人権侵害としか思えないような満員電車に乗って、脳みそがばがばで素っとん狂な上司を相手に終電まで奴隷のような扱いを受けることもないわけだが。


 よくもまあどいつもこいつもそんな正気の沙汰とは思えないことができるもんだ。僕にはいつになってもできそうにない――刃は常々そう思う。


 そういった『普通』の生活をしている人たちから見れば、刃は『楽をしている』と、そう思う人も少なくないはずだ。


 確かに相当楽であることに否定のしようがないし、そもそも否定などする気は微塵もない。


 だが、こう言わせてもらおう。


 しなくてもいい苦労をわざわざ好きこのんでやらなければならないのだ――そもそも、得られる対価が同程度ならば、より『楽』な方を選ぶのが正しい選択なのではないか? 生物としても、社会に生きる知性としてもだ。


 無論、やりたいことがあるから、困難な道を選ぶという選択を否定するつもりはない。それはとても素晴らしいことだと思う。刃の人生ではそのような選択をする余地はなかったし、きっとこれからもそれは生まれることはないだろうからだ。


 しかし、いまの社会に生きる多くの人たちはしなくてもいい『苦労』をわざわざしているとしか思えない。


 リモートワークで事足りるはずの仕事を、時間をかけてオフィスまで来させて行う必要などまったくないではないか。日本は通信インフラが整っている国のはずだ。何故そんなことをしているのか。まったくわけがわからない。


 しかも社外の人間と会うわけでもないのに、三十六度の猛暑日だろうが関係なく機能性もなにもないクソ暑いスーツをどういうわけか着させられて、だ。


 どうかしている。

 この国は本当に経済大国を自称する先進国なのだろうか?


 いい加減、しなくてもいい苦労を努力と言い換えるのはやめたほうがいい――心の底からそう思う。


 それとも、このようなことに対して疑問を抱かないのが『普通』の人間だというのだろうか。


 だとしたらその『普通』の方がおかしい。おかしなことに対して疑問を持つほうが、知性を持つ生物として正しい行動ではないのか――


 そんなことをあてもなく考えていたところに――

 ちゃぶ台の上に置いてあったスマートフォンから着信音が鳴り響いた。


 横になったままスマートフォンに手を伸ばして画面を見ると、どうやらメッセージが届いたらしい。送ってきた相手は竜太だった。


 操作してアプリを開くと、『今日あたり、今回の一件に詳しい人間がきみのところに行くからよろしくね』と極めて軽い感じに書かれている。


 それを見て、「ああ、そういえばそうだったな」とすっかり忘れていたことを思い出した。


 竜太が家を訪ねてきてから、今日まで音沙汰がなかったから、どうしようかと困っていたところである。少し自分で動いてみようかと思ってみたものの、聞き込みのノウハウなど一切持ち合わせていないので結局断念したのだった。


 まあ、やる気がなかっただけだと言われてしまえば否定できないが。

 ところで――


 一体、『邪神の本』の一件に詳しい人間とはどんな人なのだろうか。


 刃はあまり他人と関わるのは得意ではない。そのあたりの事情について竜太は了解しているし、そもそもあの竜太が能力的に問題があるような奴を寄越すとも思えないが。


 とは思うものの、まったく知らない相手と新しく関係を築くのはとてつもなく憂鬱だ。


 色々と余計なことを考えてしまう。

 これから来る相手に、自分がどのように見えるのか、といったようなことを。

 ぐずぐずと。

 ただ、ひたすらに考えてしまう。


 そんなこと考えても仕方がないというのは充分に理解しているはずなのに。

 そしていつも思い出してしまう。


 まだ自分について根拠のない幻想を抱いていたときのことを。


 いまとなっては遠い昔。もう七年――いや、八年だっただろうか。

 まだ刃が高校生という身分だったときのことだ。


 気を失って床に転がっている男子学生。その数は八人。

 そこで立っているのは自分一人だ。

 拳から血を垂らして立つ自分。

 まだ自分にはなにかできると根拠のない確信を持っていた頃の自分だ。

 もう一人はこちらに明らかすぎるほど恐怖の視線を向けている気の弱そうな男子学生――


 ああ――と。

 嫌でも実感してしまう。


 ――これが多くの人間が刃に対して抱く感情なのだと理解してしまったあの日。

 いまの自分を決定してしまったあの日のことを――

 限りなく深いところまで侵食する呪いのように。


 あのとき、自分に向けられた視線を。

 忘れてしまった方が楽なのだとわかっていても。

 決して忘れることができない、強く心に刻まれてしまったあの視線のことを。

 いつも、思い出してしまう。


 高校生の刃にそんな呪いをかけたその彼のことを恨むつもりはない。


 そもそも彼は自分に呪いめいたものをかけるつもりなどまったくなかったに違いなかったはずだ。彼は呪術師でも魔術師でもない。ごく普通の男子高校生に違いなかったはずである。


 ただ、彼は怖かっただけなのだ。

 あのとき彼の目の前にいた指針刃という理外の存在がとても恐ろしかった。

 それだけのことだ。


 彼は悪くない。

 悪いのは、自分のことを果てしない思い違いをしていた刃の方だ。


 他人にはない自分の力を使えば、『正しい』ことができるに違いないと思い込んでいた愚かしい自分のことを恥じる。

 結局のところ、自分は関わるべきでなかったのだろう。


 あのとき、見て見ぬふりをしていたら、そのようなことは起こらなかったに違いないはずなのだから――


 そんな苦い過去を思い出しているとインターフォンが鳴り響いた。

 竜太が寄越してきた人間だろう。


 過去のことでぐじぐじとしてはいられない。これから『仕事』が始まる。気分で動いては駄目だ。損害を被るのは自分だぞ――そう言い聞かせて気持ちを引き締める。

 一度だけ深呼吸して身体を作り変える。いつでも荒事に対応できるような状態へ。

 扉を開ける。

 そこには――


「おはようございます。先日、うちの水谷から、『邪神の本』の一件について詳しい人間を寄越すという話は聞いていると思いますが、本日よりよろしくお願いいたします」


 深々とお辞儀をしているスーツ姿のおねえさんがそこにいた。その横にはどういうわけか大きなスーツケースを携えている。


「…………」


 刃はなにも言葉を発することができず、固まってしまった。

 これは、なんなのだろう。


「ああ、そういえば自己紹介をしていませんでした。私、藤咲加奈子と申します。最近、異動があったため、現在名刺を切らしているのでご了承ください。『邪神の本』の件についてサポートをさせていただきます。指針刃さまでよろしいでしょうか?」

「あ、ええ、はい。そうです」


 刃はまるで木偶のようにそう言葉を発する。


「では、早速話に移りたいのですが――どうかしましたか?」

「いえ、なんというか、その――こういうと失礼かもしれないんですが、女性の方が来るとは思わなかったので」


 かなり特殊であるといっても、水谷総合警備保障は警備会社であり、その職務上荒事を行うことも多いから、警察、自衛隊などと同じく女性の職員は多くない。


 情報セキュリティ部門があるので、そこだけは女性職員が増えているらしいが、刃とは全然関係がない。いままでもこのように別の人間が来ることもあったが、女性は一度も来たことはなかった。


「ああ。そうでしたか。別に構いませんよ。確かに特殊部門は特に女性が少ないようですし。機材などの設置を行いたいので上がらせてもらってもよろしいでしょうか?」

「……は?」


 なに言ってんだこのおねえさんは。


「『邪神の本』の一件の完了するまでにしばらく時間がかかりそうとのことだったので、先方の許可は取ってるからそちらに滞在しても大丈夫と水谷が言っておりましたので」

「あいつ……」


 そんな話はまったく聞いていない。あとで詳しい人間が来ると言ってから、今日、その詳しい奴が来るという以外なにも聞いていない。


「……もしかして、その話は伝わってない?」

「ええ。竜太からは後日詳しい人間に来させる、としか」


 加奈子は少しだけしかめ面をして、


「そうでしたか。図られましたね。申し訳ありませんでした。あの水谷のことを信頼した私が馬鹿でした」


 そう言って深々と頭を下げた。


 加奈子の一瞬だけ見せた表情とその言い分を聞いて、竜太がこのおねえさんからどのように思われているのかなんとなく察しがついた。 


 あいつ、彼女の以外にも悪戯して迷惑かけてるんだろうなあ、と思う。


 しかも、ただ馬鹿なだけでないところが性質が悪い。

 接する人間に対して馬鹿を演じているように見えるが、その経歴からわかるようにとんでもなく頭がきれる。

 これも、あいつのその悪戯の一つなのだろう。


「これは困りましたね。どうしましょうか」

「……というか、僕が男だって話を聞いてたんなら、そこに滞在してよかったんですか?」


 加奈子は女性である。仕事とはいえ、若い女性が見ず知らずの若い男の家に転がり込むというのは問題ではないのだろうか。


「ええ。水谷はば――いえ、少しおちゃめなところがありますが、信頼はしておりますので」

 いまこのおねえさんが上司のことを馬鹿と言いそうになったのは突っ込まないことにする。


「それに、『彼も仕事でこれをやってるんだから、最低限の分別くらいつくし、そもそも転がり込んできた女性をどうこうできる甲斐性があるならまだ童貞なんてやってないよ』とも」

「…………」


「別に安心してください。いくら指針さんがいい歳して童貞だからといって馬鹿にしたりしませんし、仕事相手として信頼できないとは思ったりはしませんから」

「真顔でそう言われるとなんかすごい傷つく……」


 それならストレートに馬鹿にされた方がいい――とは思わないけれど。


「まあいいや。そちらが構わないのであれば奥の部屋が空いてますから使ってください。このあたりは学生街だから、いまの時期だとしばらく拠点にできそうなところはすぐには見つからないだろうし、この部屋は一応、水谷のイントラネットに接続できる安全な回線が通ってるから、最低限のことはできるはずなので」

「ありがとうございます。では、早速あがらせて準備に取りかからせてもらいます。それではお邪魔いたします」


 加奈子はそう言って静かに扉を閉めて大きなスーツケースとともに刃の部屋にあがった。


「ああ。それと、私に敬語など使わなくて構いませんよ。危険なことをするのは指針さんのほうなのですから。実際の立場がどうだったとしても、現場において危険なことをする人間の方が上の立場であるべきだと私は考えておりますから」

「そう言われてもなあ」


 まだよく知らない相手に偉そうな口を利くのは憚れるというのが本音だ。そういうことができないからいい歳こいて童貞なのである。


「無理にとは言いませんから自由にしてください。ですが、私に遠慮をする必要はありません。私はあなたの手助けをするために寄越されたのですから」


 静かで穏やかな口調だが、そこには強い決意と気迫を感じられる物言いだった。なにかあるのだろうか、と感じられたが、それにはまだ触れるべきではないのだろう。根拠はないがそのように思えた。


「じゃあ、なにかするのなら手伝うよ。まあ、雑用くらいしかできないけど」

「ありがとうございます。ではそれが終わり次第、『邪神の本』についての話し合いをしましょうか」

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