第5話

 刃のアパートを訪ねてきた男――水谷竜太との付き合いはもう六年ほどになる。

 それが長いが短いのか、よくわからない。だが、それなりの期間、それなりの付き合いがあり、現在もなおそれが続いているのは紛れもない事実だろう。


 そして、刃がいまの『仕事』を行うきっかけになったのも、この男がそもそもきっかけであった。


 そういえばどんな風にこいつから勧誘されたのだっけ――と思ったが、よく思い出せなかった。そもそも六年も前のことだ。よほど印象深くなければ明瞭に思い出せるものではないし、そもそも人の記憶などあてにするものではない。はっきりと記憶が残っていないということは、それほど重大でもなかったのだろう――たぶん。


 とはいっても、この男が勧誘をしてこなかったら自分はどうなっていただろうか。それはあまり考えたくないことだった。指針刃という人間は一般社会には受け入れがたい存在だ。そして、日本という国はそういった存在を排斥するのが大好きで仕方のない陰湿な国民を抱えた国家である。


 間違いなく、いまのように竜太がときどき持ってくる面倒ごとを処理し、それ以外は自堕落に生活するなど決してできなかっただろう。


 いや、そもそも生きていたかどうかもわからない。社会に嫌気が差して、死を選ぶか、もしくは死人のように生きる――そんな風になっていたはずだ。


 刃――それにいまこのアパートを訪ねてきた竜太が属している組織とは水谷総合警備保障という警備会社である。


 同じ組織に属しているといっても、刃と竜太では圧倒的に立場が違う。刃は組織の末端に属しているに過ぎない。竜太は創業者の孫であり、他の親族を差し置いて次期後継者に内定している存在だ。


 水谷綜合警備保障は民間の警備会社であるが、他の警備会社と一線を画している。


 警察、および自衛隊に提携する第三者組織として、正式に国家からの認証を受けた組織であること。

 限定的なものであるが、警察権を有すること。

 同じく、限定的ではあるが、銃火器の所持を許された組織であること――これらがこの組織の特徴であろう。

 ただの民間企業にそれほどの権力を与えられていることには理由が存在する。


 一九九五年三月二十日に発生した、化学兵器サリンを用いて、複数の地下鉄路線に同時多発テロを画策したオウム真理教の狂気に満ちた企みを唯一察知し、それを水際で防いだことだ。


 刃はそれがどのようにして行われたのかは知らない。だが、それが当時の水谷総合警備保障に属していた人間たちの決死の覚悟と多大な執念と労力を払って行われたということは簡単に想像できる。


 その未遂事件のあと、公安にマークされる以前より独自に行っていた水谷総合警備保障はオウム摘発に関して多大な情報提供を行ったこと、さらには警察の捜査に関連するスキャンダルが上がったことも理由の一つだろう。


 そういった時流もあり、治安維持業務の一部をアウトソージング化するべきではないかという議論がなされ、二〇〇一年九月十一日、世界を激震させたアメリカの同時多発テロが発生したことをきっかけに急速に進められ、翌年の四月一日より、現在に至っている。


 これで自白偏重なうえ、不透明な部分が多かった警察組織の内部はある程度可視化されるように冤罪事件の数は減少したが、一部の左派は未だに水谷綜合警備保障に与えている権利を問題視しているが、欧米式の積極的な情報開示を旨としているため、致命的なスキャンダルは起こしていない。


 それが、刃が所属している水谷総合警備保障という組織であるが、これらの話は刃が行っている『仕事』に関してはほぼ関係なかったりする。


 それは、刃の『仕事』は一般社会とはかけ離れた部分を相手にしているからだ。

 特殊警備部門――それが、刃が所属しているセクションの名前である。


 ここが扱う問題というのは『治安上、および安全保障上において、警察、または自衛隊が動くことが難しい、あるいは望ましくない問題』である。


 警察や自衛隊が関わるべきではない問題というのは様々であるが、刃が関わっている問題というのは、明らかに警察や自衛隊が関わることができない問題だ。


 何故ならそれは――


「で、用件はなんだ? 上がれよ。出せるもんなんてないけど」

「話が早いね」


 そう言って靴を脱いで竜太は部屋の中へと進み、適当なところで腰を下ろした。こうして見ると、世界的にも有名な大企業の次期後継者にはとても見えない。渋谷やらに行けばいくらでもいそうなちゃらい若者である。


 刃は扉を閉めて、竜太の前に腰を下ろした。


「それにしてもきみはあれだね、不真面目な体を装っているけれど、根本的なところは真面目だよね」

「どういうことだ」

「ほら、だってさ、なんだかんだ文句言いながら、頼んだ仕事をちゃんとこなしてくれるじゃない」

「……うるせえ」

「恥ずかしがることないじゃないか。褒めてるんだぜ」

「お前が他人を褒めるときはなにか下心があるときだって決まってる」

「そう言うなよ。下心があろうがなかろうが褒められたときは素直に受け取っておくのが礼儀ってもんだぜ」

「…………」


 下心があるということについては否定も肯定もしないあたりが実にこいつらしい。


 だが、竜太と腹の探り合いで勝てると思うほど刃は自分のことを信頼していないし、そもそも中学を卒業したあとイギリスのオックスフォード大に飛び級で入学し、三年で博士号を取得したような規格外な知性を持つ相手と騙し合いするなど無謀がすぎるというものだ。


「で、今回はなんだ? ウルヴァリンでも出てきたか?」

「違う違う。長い爪が生えた強化骨格のおじさんなんてわかりやすいものじゃない」


 竜太は刃の冗談を軽く流した。


「ウルヴァリンを爪の生えたおじさんっていうのはどうかと思うが……」


 マーベルが聞いたら怒りそうだ、と思いながら竜太の次の言葉を待つ。


「今回は――本だ」

「は?」


 あまりにも予想外だった竜太の言葉に思わずそんな声を発してしまった。


「本ってこういうのか?」


 刃はそう言って手近にあった週刊少年誌を手に取った。


「ちょっと違うかなー。ハードカバーでもっとごついやつだよ。事典みたいなの」


 ここには似たようなのはないなあ――と部屋を見回してから軽く言う。


「いや、だから、そういうことじゃなくてだな――まさかネクロノミコンでも回収しろって話なのか?」

「うん。まあネクロノミコンではないけれど、似たようなものを回収――できれば処分してほしい。これが今回の仕事だ」


 そう言った竜太の顔はいたった真面目だ。どうやら冗談ではないらしい。


「おいおい。なんだよ、それ。そいつを読み解いたら闇の力でも手に入れられるとでもいうのか?」

「ああ。そうだよ。残念ながらそれはあながち外れているわけじゃない。読み解くために特別な知識は必要ないみたいだけど」

「…………」

「あれ。どうしたの? きみなら本だろうが爪おじさんだろうがわかると思ったんだけど。違ったかな? 今まできみはその類を嫌というほど見てきただろう」

「それがそうなんだが――本と言われてもなんだかよくわからなくてな。一体どういうものなんだそれは」

「調べたところによると、色々とできるみたいだよ。誰かを自由自在に操ったり、洗脳して特定の方向に誘導をしたりね。確認はされていないけど、直接的に殺傷する能力もあるだろうね」


 竜太はなにも見ないですらすらとそう言った。間違いなく資料の類はあるだろうが、すべて覚えてきているのだろう。


「だが、本だろ。すごい力を持っていようが足が生えているわけじゃない。まさか空を飛んで一人で動くとでもいうのか?」

「はっはっは。それはなかなか愉快だね。だが安心してくれ。その本が空を飛んで動くなんてことは確認されていない。いまのところは、の注釈がつくけれど」

「それなら誰も来ない場所で鉄の箱にでも詰めておけばいいじゃないか。なにが問題なんだ?」

「長い間そうなっていたんだけど――ちょっとした偶然が重なって人間の手に渡ってしまったんだ。運の悪いことに」


 運の巡りというのはときに残酷だよね、などと言って竜太は笑う。


「ことの発端は北朝鮮からの脱北者だった。とはいっても、彼らにその本を持ち出そうという意思があったわけじゃない。北朝鮮を脱出して、日本の領海ぎりぎりのあたりで時化に遭遇して、嵐を凌ぐために停泊した無人島にそれがあったというだけだ。そして、その本に近づいた一人が精神を乗っ取られてしまったらしい」

「で、北朝鮮から逃げてきた奴がそれを持ち込んできた――ということか?」

「いや、一番初めに精神を乗っ取られたとされる人は、それがあったと思われる日の少しあとに水死体となって発見された。水死体は本を持っていなかった」

「じゃあ別の誰かが持ち込んだのか? 一人で北朝鮮から脱出しようとしたわけじゃないだろう」

「それも違う。確かに、彼を含めて十二名が北朝鮮から逃げようとしていたんだけど――別の誰かが持ち込んだわけじゃない。彼以外の十一名は行方がわからなくなっている」

「行方不明を装っての密入国は?」

「完全には否定しきれないけれど、たぶん違うね。


「まず、その理由として彼らが脱出に使ったとされる漁船から、彼らが着ていた思われる衣服の残骸が多数発見されていることだ。彼以外の死体が一つも発見されていないのにもかかわらずね。いたはずの人間が影も形もなく消滅してしまった。それなのに、重大な証拠となる衣服を処分していないのはおかしい。


「もっと言うならば、着の身着のままで脱出してきただろう者たちが十五人もの人間を痕跡も残さず消すというのは極めて困難だ」


 確かにその通りだ。仮に一人であっても人間の死体の痕跡を処分するのは難しい。それが十一個ともなれば、衣服と脱出に使った漁船以外なにも持たずに逃げてきた脱北者たちには不可能だ。


「ふむ。それじゃあなにが起こったんだ?」

「実はこの脱北者の話は十五年も前の話なんだ。詳しいことは不明だけれど、なんらかの方法を使って一緒に脱出してきた者たちを消したあと、航海の知識を持っていなかったらしい彼は嵐の中で船を出して、日本に辿り着く前に転覆している。そのとき、水死体となって日本海沿岸に漂着した彼と違って、その本は海の底に沈んだとされている」

「十五年も前に海の底に沈んだのなら、どうしてまた日本にそれが現れたんだ? 空を飛ぶわけじゃないんだろ? というか、十五年も海の底に沈んでたら使い物にならないのでは?」

「普通の本ならそうだろうね。でもいま話している本は普通じゃない。なにしろ――――という存在と繋がっているらしいからね」

「……。なんだそりゃ。というかいまお前なんて言ったんだ?」


 なんと言ったらいいのかわからないが、人間の言語とは思えない言葉が聞こえた――ような気がする。


「ほう。きみにも発音できないか。それはそれでちょっと興味深いけれど――まあ、それはあまり関係ないから掘り下げないことにしよう。


「発音できない言葉をこちらだけ言うのもあれだから、便宜上、その本は『邪神の本』ということにしておこうか。『邪神の本』は人間を操ったり、跡形もなく消滅させたりする力を持っている。それが海の底に沈んだくらいでどうにかなると思うかい?」


 そう言われればその通りである。海に沈んで破壊されてしまうようなものだったのなら、刃に頼みはしないだろう。


「でも、自分で動けないなら、仮に壊れないとしても、海の底に沈めたままにしておけばよかったじゃないか。なんでまたそんな物騒なもんを引き揚げたりしたんだ?」

「確かにその通りだ。だけど、誰かが悪意を持って意図的に引き揚げたわけじゃないよ。これも運の悪いことに偶然が重なってしまった」

「どういうことだ」

「我が国は漁業が盛んだ。悪意もなにもない第一次産業に従事する方が引き揚げてしまったんだよ。半年くらい前だったかな」


 なんという偶然か。


 だが、かなりの日本近海にはかなりの数の漁船が漁をしている。あり得ないというほど確率が低いわけではない。十五年という時間があれば、その偶然を引っかけてしまうには充分だろう。


「もしかしなくても、運悪くそいつを引き揚げてしまった漁師は――」

「ああ。全員行方不明だ。今回はうまくやったのか、服も律儀になくなっていたよ」

「……そうか」


 具体的にどういったことが船上で起こったのか刃にはよくわからない。だが、その恐怖を理解する間もなく『邪神の本』によって消滅させられてしまったことは想像に難くない。


「その事件のあと、『邪神の本』の行方を追っていたのだけれど、なかなか足取りが負えなくてね。定期的に足になる人間を変えているようだ。こちらがなんとか居所をつかみかけたときには影も形もなくなっている。


「そしてまた離れた場所に足になる人間を見つけ、適当なところで別の人間に切り替えて移動する――それをこの半年間ずっと繰り返しだ」

「それでまた見つけた場所がこのあたりだった――ってところか?」

「そう。話が早いね。もしかしてこのへんで変な事件でも起こってる?」

「ああ。まだ噂話程度だが、行方不明事件が多発しているらしい。都市伝説の類かと思っていたが、お前の話を聞くとそれも信憑性があるみたいだ。その噂によると、終電帰りのサラリーマンが目の前でいきなり人間が消えたのを目撃したらしい」

「へえ。その話が本当かどうかはともかく、本当だったとするならなかなか大胆なやり方をしているね。いままでこちらに尻尾をつかませないように慎重に動いていたのに。ふむ、これはもしかすると――」

「……なんだ。なにか心当たりがあるのか?」

「いやあ、違う違う。気にしないでくれ。まだなんの確証もないことだからさ」

「……ならいいが。とはいってもこちらはその『邪神の本』とやらの情報はなにも持ってないから探しようがないぞ」


 竜太の意味深な態度に疑問を感じたが、刃はそれを質すことはせず、『邪神の本』を一件を受けるにあたって現実的な問題を告げた。


「それなら大丈夫。近いうち詳しい人間を寄越すからさ。じゃあ、僕はそろそろおいとまさせてもらうよ」


 竜太は立ち上がった。


「なあ、前から訊きたかったんだが」

「なに?」

「どうしてお前、こんな金にならないようなことに首を突っ込んでるんだ? そう遠くない日にトップになるお前が」

「ああ、そんなの決まってるじゃないか――」 


 そこで一度言葉を切って、


「楽しいからだよ」


 さわやかな笑みとともに「バーイ」などと言い残して、竜太は部屋から出ていった。


「楽しい、か」


 一人になった刃はぼそりとそう口にした。


 それなら仕方ない。誰にだって楽しさというものは必要だ。

 あいつのように人間離れしているような奴でも。


 特殊警備部門の仕事とは、つい先ほど話していたようなものを対象としている。常識の外側の存在によって、安全保障が脅かされる可能性があるとき、またその脅威が現在進行形でそれが進んでいる場合、速やかにそれを排除することだ。


 久しぶりの仕事だ。

 せいぜい、今回も死なない程度には頑張ろうじゃないか。

 さっさと終わらせて、さっさと自堕落な生活に戻ろう。

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