第4話

 増田道夫はこの社会のあらゆるものに対して憤慨している。


 何故、誰よりも優れていてはずの自分が評価されないのか。取るに足らないうわべばかり取り繕ったクズどもばかりが評価されるというのはどう考えたっておかしい。徹底的に間違っている。


 そうだ。間違っているのはこの社会だ。

 自分は間違っていない。

 誰よりも正しい。

 そして優れている。

 当然だ。


 どうして、その真理といってもいい事実から誰もが目を背けているのか。

 それはこの社会というものが徹底的に間違っているからなのだ。


 そもそもから間違えているから、間違った人間に対して間違った評価をする。それがいまのこの国の実体だ。そんなことが当たり前にまかり通っているのはどう考えてもおかしい。


 なにもかも滅んでしまえばいいのだ。そうすれば、誰よりも優れているはずの増田道夫という偉大なる存在を評価する正しい世界になる。そうだ、間違いない。


 表面を取り繕うことしかできない無能な弟ばかりが評価されてきた。

 その屈辱を思い出すだけで強い怒りの炎が巻き起こる。


 いままであの自分と同じ顔をしている、無能極まりないクズを何度殺してやろうかと思ったことか。


 外面しか取り繕うことしかできないような奴ばかりが評価をされる――そんなことがあっていいわけがない。深遠で思慮深い、先を見据えて行動する自分のことをいつだってこの社会は見向きもしなかった。


 軽率な愚か者ばかりを評価しているこの国に未来などありはしない。


 自分と同一であるはずの双子の弟――だが、それは見た目だけだ。あの愚か者はすべての部分で自分よりも圧倒的に劣る存在である。当たり前だ。増田道夫は本来ならこのような立場にあるような存在ではないのだ。


 この愚か者ばかりがのさばっているこの国は滅ぼさなければ駄目だ。滅びなければこの国は変わらない。愚かさというものは死ななければ治らない、そういうものなのだ。


 しかし、滅ぼす必要があるからといって、軽率な行動は避けなければならない。ほぼすべての人間が愚か者であるこの国の警察が無能集団だからといって、なにもできないというわけではない。人間という生物は、それなりに数が多ければ愚か者ばかりでもそれなりのことができてしまう。その力を侮るべきではない。そして、それがこの間違いを生み出す究極的な病巣でもある。


 愚かであるからといって、見下し、侮蔑するが、侮ることはしない。当たり前のことだ。だがしかし、それは多くの馬鹿者にはできないし、やろうともしない。いや、そもそもそんな知性など持ち合わせていないのだ。しかし、多くの人間にできないことが増田にはできる。


 何故なら増田道夫はもっとも優れた人間である。

 当たり前だろう。優れた人間に優れた判断ができる――当然の帰結だ。


 この偉大な知性を持つ増田のことを評価しない国に未来などない。滅んで当然だ。そう遠くない未来、この国は無様な醜態を世界中に晒し、荒廃していく。それが、増田が予測する日本の未来である。そうなってしまった方がこの国に暮らす多くの愚か者にとって救いにもなるのだ。


「――――」


 不意に頭の中になにかが流れ込んできた。どこの言語かもわからない言葉だ。少なくともよく耳にする言葉――日本語や英語や中国語、韓国語などではない。


 だが――

 先ほど頭の中に響いてきた『あれ』は自分を呼んでいる。そのように思えた。


「――――」


 また聞こえてくる。相変わらずどこの言語かもこの偉大な知性をもってしても判断できない珍妙な響きを持つ言葉であるが、しっかりと聞こえている。やはり空耳などではない。その他大勢のクズには、このような適切な判断もできないのだ。


 それにこの声は増田のことを呼んでいる。この自分を呼ぶとはなかなか見どころがあるじゃないか。どこの誰だがわからないが、それだけは評価してやる。

 増田は大通りを外れ、裏道へと足を踏み入れる。


 そこには――

 忽然と、道の真ん中に分厚い本が落ちているだけだった。


「は?」


 目の前に広がっていた意外すぎる現実に思わずそう言葉を発してしまった。


 なんだこれは。先ほど聞いたこともない言語で頭の中に語りかけていたのがこの本だというのか? ふざけるな。なんだそれは。馬鹿にするな。それにも限度ってものがあるだろう――


「――――」


 またしても頭の中に聞こえてくる声。やはり気のせいだとは思えない。しかし、本が頭の中に直接語りかけてくることなどもっとあり得ないではないか――


「――――」


 踵を返して歩き出そうとすると、やはり気のせいとは思えないほどはっきりとした明瞭さを持って聞こえてくる謎の声。何度聞いてみても、それがどこの言語なのか想像もつかないほど珍妙である。


 だが――


 お前の望みを叶えてやろう。その代わり、私に力を貸してくれないか? いや、こういうべきかな。お互いのためにお互いを利用し合おうではないか。


 そのようなことを道端に落ちているあの本がこちらに語りかけている、そのように思えた。


 なにを言っている。たかが本ごときがこの俺にそんなことを言うんじゃない。この俺に指図をしていいのはこの俺だけだ。


 なかなか面白いことを言う小僧だ。そういう不遜さはなかなか好ましい。確かにいまの私はお前の言う通りたかが本だ。だが、本であるからといって、お前の望みが叶えられないわけではないだろう? 相手が愚かであるからといって、侮らないのがきみの信条ではなかったのかね?


 頭の中に聞こえてくるその声はあざ笑うかのようにそう語りかけてくる。


 しかし、頭の中に響いてくるその声は異様なほどの粘り気を持ってまとわりつく。

 無視できないほど、強く。


 ふん。まあいいだろう。暇潰しにお前の言い分を聞いてやろうじゃないか。なにが望みだ?


 なに、たいしたことではないよ。見ての通り、私は本だ。自分で動くこともままならないのでね。足が欲しいのだよ。特別なことをする必要はない。私を手に取るだけでいい。簡単だろう?


 それは簡単だ。いいだろう。お前の与太話に付き合ってやる。お前の言うことが本当にただの与太でしかなかったのなら、ガソリンをぶっかけて燃やしてやる。


 構わんよ。私は詐欺師ではないからな。まあ、それもきみが『耐えられれば』の話だがね。


 なんだそれはどういう意味だ――と思いながらも、落ちている本を手に取ると――

 目に見えるすべてが反転するほど強い電流が身体を駆け巡った。

 なにかとてつもなく巨大ななにかが自分の中に侵入してくる――そのような感覚とともに。


 とても長い時間、それが続いたような気がしたけれど、実際は二秒にも満たないほどの短い時間だっただろう。


 そのあとに訪れたのはいままで一度も経験したことがないほど大きい充足感だった。


 増田の持つ、巨大すぎる器を満たすほど大きな『なにか』によって。


『ほう、驚いたな。まさか本当に私と繋がっても自我を保っているとは。やはり人間というのはなかなか侮れない存在だな。どうかね。いまの気分は?』


 先ほどよりもはっきりと頭の中に響いてくる声。性別も年齢も判別できない不可思議な声だった。

 あまり認めたくないが、なかなか悪くない。


『それはよかった。では、これからきみと私は互いに対等な立場として互いに利用し合おうじゃないか。いいかね?』


 ああ、いいだろう。で、お前はなにが目的なんだ?


『人探しだよ。そのために足が必要なのだ』

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