第7話

 東京で始まった新生活はいまのところ無難に行えているはずである――星野わかばはそう感じていた。


 先日、入学式を終え、これから四年間、わかばは大学生としてこの街で過ごしていく――何事も起こらなければ。


 起こらなければ、というのは少し語弊があるかもしれない。新生活を破綻させる『なにか』起こしてしまうのは、自分以外の誰かではなく、『普通』でいることができなくなった自分の方なのだ。


 誰かの悪意などによって、わかばが『普通』に過ごすことができなくなってしまう可能性は低いだろう。


 自分はいつだって『破綻』を引き起こす側なのだ――ということを自分に言い聞かせる。


 悪意を持っているのはいつだって自分の方で――


 いまの自分が望んでいる『普通』の人たちはその悪意にさらされる方なのだということを。


 こちらに来てから自分自身に何度もそう言い聞かせている。


 そして、それはわかばが『普通』であるために――いや、『普通』になるためには決して起こしてはならないことなのだ。


 なんのために慣れ親しんだ地元を離れたのかを忘れてはならない。

 自分を変えるためだ。

 いままでの自分を否定して、新たな自分へと生まれ変わるために。

 それは必要なのだ――絶対に。


 ふと視線を上げると、入学式のときには綺麗に咲き誇っていた桜が散り始め、緑に色づき始めていることに気づいた。いま自分が立っている場所を含め、ところどころに薄汚れたさくら色のカーペットができあがっている。


 散ってしまった桜というのは何故こんなにも汚らしく感じられるのだろう。木に花をつかせているときはあれほど綺麗に感じられるのに。


 このように汚く散ってしまうからこそ、桜というのは綺麗なのだ――とか詩的な人はそんな表現をするのだろうか。


 桜が舞い散る薄汚れたピンク色のカーペットができあがっている大学の構内を歩きながら思索を巡らせる。


 なんだろう。散って汚らしくなってしまうからこそ綺麗であるというのはどことなく残酷に感じられる。それはまるで、いずれ起こる醜く散ってしまう未来に愉悦を感じているかのようだ。


 そんな風に考えてしまうのは、自分の本質というものが醜いからなのだろうか。

 わかばにはよくわからなかった。


 どうであったとしても、自分には自然を詩的に捉えて表現するセンスはないらしい。


「やあ、こんなところでなにしてるんだ? 一人で花見?」


 不意に背後から聞こえてきた声で現実に引き戻される。声が聞こえてきた方向に振り向くと見知った顔の青年が立っていた。


 特段に男前というわけではないが、特別に不細工でもない顔。痩せすぎても太ってもいない体格。自分よりも十数センチ高い、平均的な身長。派手ではないが、無頓着すぎるようには感じられない服装をした同世代の青年である。


 どこを見てもその姿に特別なものは感じられない。だが、それはどことなく自分に安心感のようなものを与えてくれる。


 同じ語学のクラスに所属している増田だ。


「うん。まあ、そんなところ」


 つい先ほどまで広げていた思索を打ち切って言葉を返す。


「ははっ。もうほとんど散っちゃってるじゃない」


 増田は軽く笑ってそう言った。


「桜って、どうして散ったらあんまり綺麗じゃなくなるんだろうって思って」

「なにそれ。哲学?」

「うーん。どうだろ。よくわかんない」

「星野さんって少し変わってるよね。ちょっと浮世離れしてる感じというかなんというか」

「そうかな」

「まあ、別に気にしないでよ。悪い意味で言ってるわけじゃないし」


 それはきっと嘘ではないのだろう。根拠はないがわかばにはそのように感じられた。


 増田から自分はどのように映っているのだろうか。

 地方から東京に進学してきた『普通』の女子大学生に。

 そうであったなら、嬉しいのだけれど。


 あと四年。

 四年も――できるのだろうか。

 自分の中にある、悪しき本質を抑えたまま。

『普通』の女子学生になることが――できるのだろうか。


 そう信じたい。信じたいけれど――わかばには自分のことをそれほど信頼することはできなかった。


 自分を信じるというのは、なんでこんなにも難しいのだろう。こちらに来てから何度も感じた実感を再認識する。


 自分に一切疑いを持たなければ、生きやすかったりするのだろうか。

 自分がどのような存在であっても、絶対的に肯定できるというのは。


 どうだったとしても、少なくともいまのわかばには無理な話だった。

 これほどまでに自分の本質に嫌悪を抱いているのだから。


「ねえ、増田くん」


 わかばは視線を下に向けたままそう言った。視界には散った桜のカーペットが広がっている。やっぱり何度見てもそれを綺麗だったものとは思えない。そんなわかばの気持ちを察してか、増田は「どうしたの?」と少し首を傾げつつも優しげに聞き返してきた。


「なにか、悩みとかあったりする?」

「悩み――まあ、そりゃあるけど。どうしてまたそんなことを?」

「えっと。特に深い意味はないんだけど、ほかの人ってどういうことで悩んだりするのかなって思って」


 なんでそんな質問をしているのか、と少しだけ後悔した。それを聞いたところでいまの自分の問題が解決するはずもないのに。


「いやだったら、その、答えなくても、いいけど」

「女の子にそんな顔されちゃったら、僕が悪いことしてるみたいだ。そんな質問するってことはなにか悩んでることがあるのかな?」

「うん」

「なんだか深刻そうな感じがするから詳しい話は訊かないよ。悩み、悩みか――そう言われると何故かとっさには出てこないな。悩みなんてたくさんあるはずなのに」


 そう言って真剣な表情になって増田は唸った。


「やっぱり、うん、そうだな。家族――兄貴のことかな」


 しばらく考えてから、増田はそう告げた。


「お兄さんがいるんだ」

「実は僕、双子でさ。いま一番悩んでることといえばそれかなあ」

 増田は滔々と言葉を紡ぐ。



「もし、よかったらでいいんだけど、少し話、聞いてくれる?」

「いいよ。その話を増田くんに振ったのは私だし」


 それに、増田の兄というのも少しだけ気になる。


「最近、なんだか兄貴の様子がおかしいんだよね」

「おかしいって?」

「ここ一ヶ月くらい、部屋から全然出てこなくなっちゃったし、それなのに頻繁に誰かと話してるような声が聞こえてきたりするんだよね」

「部屋から出てこないのはともかくとして、誰かと話してるってのは、ゲームでもやりながら通話アプリで友達と話してるとかじゃないの?」

「普通に考えたらそうだと思うんだけど、それにしては妙な違和感があるというかなんというか。部屋に誰かがいて、それと話してるって感じがするんだよね」

「増田くんが知らないときにそのお兄さんが誰か部屋に入れてる、とか?」

「なくはないけど、一ヶ月もそれをやってたら、一度くらい顔を合わせるだろうし――それに兄貴はかなり気難しいところがあるから、そう簡単に自分の部屋に誰かを入れたりなんてしないんだ。僕だってここ何年も入ってないくらいだし」

「……仲悪いの?」


 わかばがそんな質問をすると、増田は少しだけ表情を曇らせた。


「僕はまったくそんな気はないし、仲よくしたいって思ってるんだけど、兄貴の方は違うみたい」


 弱々しくそう言葉を発した増田は心苦しそうだった。彼が兄と仲よくしたいというのは本音なのだろう。


「昔は多少、僕には心を開いてくれてたんだけど、第一志望の高校に落ちたのをきっかけにどんどん卑屈になっていっちゃってさ。僕の方は兄貴が言うようなことはまったく思ってないのに」

「…………」


 増田の兄はきっと、増田が思ってもないような、心にもないことを散々言ったのだろう。それは訊くべきではないだろうとわかばは思った。増田の悲しそうな表情を見るとそれは容易に理解できてしまったから。


 でも――


「だから、なにかやばいことに巻き込まれてるんじゃないかって心配なんだ。もしそんなことにかかわってるのなら、取り返しがつかなくなる前になんとかしたい」


 増田の兄の気持ちもなんとなくではあるが理解できるのもまた事実であった。


 この青年は優しいのだろう。兄のことを心から心配している。それに嘘はないことは間違いない。


 ときに優しさというのは、非難や中傷などよりも心を抉る棘になることをわかばは知っているから。


 それを言った相手に悪意がないとわかっていても。

 自分が過ちを犯してしまったときも――

 自分のことを口汚く罵ってくれれば、よかったのに。


 そうだったのならば、こんな思いをすることはなかったかもしれないと、そんな風にも思う。正しいか、正しくないかは別として。


「……ごめん。なんか暗い話、しちゃったね」

「ううん。大丈夫。でも、なんだか安心した」

「どうして?」

「きっと、みんな色々な悩みがあるんだろうなって思って。一人で悩んでると、なんでもないことを深刻に悩んでるのは世界で自分だけなんじゃないかって思っちゃうし」

「確かに、一人で悩んでるとそうなっちゃうよね。だから、一人で抱え込まない方がいいと思うよ。悩みって人の数だけあるものだから、星野さんと同じようなことで悩んでいる人もどこかにいるかもしれないし」

「ありがと。でもなんかそれ、意識高い系の人が言いそう」

「せっかくいい感じのこと言ったと思ったのに」


 増田は不満そうに顔を膨らませてそう言った。


「ごめんごめん。でも本当にいい言葉だと思うよ。それを聞いてなんか楽になった」


 たぶん、物事は必要以上に深刻に、あるいは悲観的に考えないほうが精神衛生上いいのだ。

 それはとても難しいことではあるけれど。


「そういえば、星野さんはこのあとは?」

「三限が空きで、四限に授業かな」

「そうか。僕は昼で終わりなんだけど、もう少ししたらバイトがあるから先に失礼させてもらうよ」

「バイトしてるんだ」

「うん。お金のかかる私立に通わせてもらってるし、自分のスマホ代くらいは稼がないとね。お金も貯めて車の免許も取りたいし。あ、そうそう。星野さんは今日の集まりには出るの?」

「うん。出るよ。特にやることもないし」


 今日の夜、同じ語学の授業を履修している面々での親睦会がある。


「増田くんは? あ、でもバイトがあるのか」

「いや、大丈夫だよ。今日のシフトは短いから、途中からなら参加できるからさ。そろそろ行かないと遅刻するからまたね」


 そう言って増田は駆け足で遠くに消えていった。その姿が見えなくなってから、わかばは歩き出す。


 昼食を食べようか――と思ったがやめにした。昼休みはどこの学食も混んでいるし、三限が空いているのだから急いで食べる必要もない。


「……図書館にでも行こう」


 そう一人呟いて、わかばは図書館に向かった。

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