面白さの断層論

 いつもお世話になっております。

 今日も人生に疲れたので持論を炸裂します。

 常日頃から思っている人の面白さという認識についてです。

 本題に入る前に、例を一つ出そうと思います。


 私は学生時代、絵を描いてました。

 ある程度の基礎を覚え、バランスの取れた形として完成させられる程度のレベルです。

 ガチの人と比べれば、技術的格差はもちろんかなりあるのです。絵を描く人から見れば、いろいろ突っ込み所や誤魔化しているところが多いなどいろいろと出来ます。

 ですが絵を描かない人から見た時、私のの絵は上手いという評価になりました。

 実はpixiv でも好評価を受けたりしてました。

 その時思ったのが、「絵を描く人」と「絵をかかない人」の評価基準に大きな差があるなと思いました。

 

[絵をかかない人]

[絵が取り敢えずかける人]

[絵が上手い人]


 アバウトに、こんな認識格差があるように感じられました。

 自分がどの立場にいるのかによって、絵に求める追求が変わるんだなと感じました。

 そして面白い法則性もあり、上下の壁を2つ飛び越えてはほぼ交流人同士の交流がほぼないという特徴を持っています。

 絵が書けない人と技術的な神絵師は、交流がほぼなく、やはりファンといる壁を作って別世界の物として扱われる。

 絵が取り敢えずかける人にも、「絵がかける」という境界線があり、敬う傾向にある。特に意識が絵が書けない人の思想に近いこともあり、交流が生まれやすい。

 絵が取り敢えずかける人は、神絵師に弟子入りしたり指導受けたりと直接的な面識を持ちやすくなる。


 このように、隣接した断層の人達が近づきやすい傾向にあると感じておりました。

 まとめると、絵が上手くても下手でも、かかない人にとっては神。

 特に絵をかかない人達は、自分達の感性に近い神を選ぶ。

 という傾向があると感じておりました。



 さて、私達の小説や物語に関しての話にします。

 もう絵の話を物語に置き換えて考えましょう。


[物語を作らない人]

[物語が取り敢えずかける人]

[物語が上手い人]


 認識格差も同じ、ただ今回はプロ読者のスコッパーは除外します。というか、プロ読者の水準はたぶん[物語が上手い人]と同じ感性を持った生態系だと私は思っておりますので、ここでは同じ扱いにします。

 この図式は、人が物語を読んでと感じる境界線を示しています。

 そして、この格差は絵の話より露骨です。

 なろう系は最近話題に上げすぎて可哀想なので、今はローカルになった「ケータイ小説」に視点を絞ります。

 まず、ケータイ小説で話題になった作品はそこそこありますが、一時期有名になって、物議を醸した作品がありました。

 作品名は言いませんが、読んだ私も正直擁護出来ない程、[物語]としては破綻した作品でした。

 単純に何もかもが支離滅裂という奴です。そしてギャル文字過ぎて解読が困難。

 まあ、ケータイ小説が分からない人はググると面白いですよ。

 しかし、その作品にも多くのファンがおり、凄くワクワクして面白いという感想が沢山ありました。

 某掲示板では、物凄く叩かれまくっており、私も正直掲示板側の意見が正しいと思っておりました。


 ここで作者の技量がとか、読者のレベルがとか、そんな話をしても意味はないので、逆に何故その支離滅裂な作品を面白いと感じる人がいるのかを真面目に考えていたことがあります。

 感性の違いという言葉で方がつきそうですね。

 でも、それで終われば脳死してしまうのでもっと深く考えておりました。


 やはり、その作品の肝はギャル文字主体で、投稿サイトの読者層は10~20代の若い女性層の為メールで使うその文字媒体に親近感や親しみ易さを感じるのだと思います。

 それと作品の魅力として、場面毎のシーンは非常に絵になる所です。

 そのシーンに辿り着くまでの繋ぎが無理矢理だったり、現実世界が舞台なのに法律や常識や社会モラルが欠場しているという些細な点に目を向けなければ、そのワンシーンを切り取れば間違いなく絵になります。


 なので、この「読みやすさ」と「盛り上がる」シーンの二つの要素さえ抑えれば「物語を作らない人」達にとっては十分楽しめる要素だという極論が出せるのです。


 逆にこの要素以上を盛り込むと、その人達からは分かりづらいとい意識を持たせる可能性が増えていくのです。

 つまり、物語を精密化させると着いてこれない人が増えていくという悪循環が発生してくるのが現状だと思っています。


 今のWeb小説投稿サイトの現象も、おおざっぱに見えてくるのはこのジレンマが原因だと思います。

 クオリティが高い物より、粗くても簡単化された物の方が、分かりやすくそして面白い。

 と、感じる方が圧倒的に多いと思っています。

 別にそれが悪いことだと思っていませんし、自然の流れだと思っています。



 しかし、本題はここからです。


 これは過程の話、思考実験です。

 今言った面白いを感じる要素が少ない人が、もしあらゆるプロ達を唸らせる神作品を見て、果たしてその作品を面白いと思えるのか?

 理屈的には要素が多い以上、面白くないと判断すると思います。

 しかし、神作品なので文章も分かりやすく、テンポ良い、全ての要素面白いと判断になる作品なので、読まないという選択肢は取りづらい。

 それでも読まないと選択するなら、それはやはり要素が多すぎる為、難しく面白くないと判断するしかないのである。


 もし面白いさという要素が、本当にこのような壁毎に分かれているなら、世の中は住み分けが重要になっている。

 視野は広い方が良いかもしれないが、「簡略化」した作品と「精密化」した作品を一緒の場所に置いたら、混じり合うはずがない。

 多数決で多い方が勝つ残酷な世界が待っているのである。

 住み分けして閉鎖的になることは、決して悪いことではない。

 その閉鎖した空間で成熟すれば良い。

 人は、同じことをし続けるられる人もいればそうじゃない人もいる。

 閉鎖した空間を極めた物が、その道を極める為に違う世界観を渡り歩いていける世界になる。

 面白さという概念も一緒だと思ってる。

 人は成長するし、意見が変わったりもする。

 多くの面白さにどんどん気づいていける人もいれば、その面白さを極め高見を目指す人出来る。

 その時に、いろんな世界が多い方が楽しく生きられる。

 いろいろな個性が生きられる創作業界になる。

 だから、需要がないから「精密化」作品がいらないかと言われれば、それは違う。

 「簡略化」作品が幼稚で劣っており、業界を落とし混んでいるかと言われればそれは違う。

 一番の悪は、お互いを理解しようとしない心でしかない。

 今の小説業界も、その需要という根底を理解出来なかった先任者と、未だ短期的利益で自分の金や名声を食いつなごうとする今の人達と、自分達には関係ないと目を背けている多くの人達が産み出した物だと思っています。



 本当は全部が必要であり、面白さという概念をもっと考えるべきではないか?

 

 と、私は考えております。

 まあ、こんなことを考えても世界が変わる訳ではない。

 自分にとって好きなものを書くのが、一番なんだなと心から思う。

 評価は二の次。

 まずはそこからだ!


 評価が欲しい人は、頑張るしかない。

 でも本質的な、自分と他人の価値観の差を見極め、何が良くて何が悪いのかを迫るしかない。

 頑張れ小説家になりたい人。



 ああ……もう疲れたよ。

 人の価値観とかと対面するのは疲れた。

 しんどい。

 仕事も疲れたよ……

 一生遊んで小説書きながら平和に暮らしたい……

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