並木酒屋のお転婆

泉谷

並木酒屋のお転婆

商店の並ぶ通りを少しゆき、坂に差し掛かる辺りになると麹の臭いが鼻を突く。麹の臭いを頼りに歩を進めると並木酒屋と達筆なのかただ下手くそなのか分からぬ黒で書かれた木板の看板が軒先に雨風に晒されることなどお構いなしと言った風で立てかけられている。酒屋と称すのだからもちろん酒を売る店であることに違いはないのだが、軒先とは言え、商売をするにはひどく不向きであろう庶民の民家と変わらぬ薄く狭い木戸の引き戸がこの酒屋の店先なのだ。

申し訳程度に飾りとしてか戸の中央より少々上に入れられている組子の磨りガラスの嵌められた木戸を開けるには少々コツがいる。引手と格子になった組子の横子の中央部を軽く持ち上げながら敷居を無理やり滑らせなければいけない。蝋のひとつでも塗ればいいものの開け閉めできるならば問題ないと店主が胸を張っていうのだから仕様がない。木戸を開けるとむわっと酒気を感じ口にしておらぬのに一杯やったくらいの気持ちになるのだから人間とは浅はかな生き物である。私は薄暗く埃っぽい店内の酒瓶たちの前を過ぎ、奥の上がり框に腰を掛けて一息つく。こうしていると木戸の空いた音を聞いて酒屋一家の誰かが奥から出てくることを知っている。とたとたと可愛らしい床板を跳ねる足音に今日は娘さんの出迎えかと半ば安堵する。店主夫人の手厚い出迎えが私には妙に向いていないのだ。

「先生、いらっしゃい」

あどけない少女の出迎えの言葉は弾んでいて、細められたまなこと笑窪の深さから私の来訪を心待ちにしていたことを認める。

「ああ、今日はお母さんいないの?」

框に座ったまま振り返り少女を見上げるようにして夫人の在否を尋ねる。

「いるけどなんだか手が離せないみたいだから私が出てきたの」

そう、とだけ返事をしながら雑にズックから足を抜き隅に寄せる。その間に少女はひらりと奥へ向かっていた。私は少女の姿を追いながら奥の台所から聞こえる物音の主であるだろう酒屋夫人にお邪魔しますとだけ声を投げる。お喋りな夫人から返事が返ってこないということは余程何かに熱中しているのであろう。

少女は台所の手前の障子を開け私を待つ。

「それで昨日の問題なのですけれどね、先生」

六畳の部屋の中央に置かれた卓袱台の前に腰を下ろした私へ向かって得意げに少女は話し始める。

「いろいろ考えたんですけれど、先生の意地悪かなと思うとあっさり解けたんです」

「意地悪なんかじゃないよ、私なりに趣向を凝らしたんだよ」

知人のそのまた知人の遠縁だかの酒屋主人の娘に学識を教えてやってくれと頼まれたのは半年ほど前であった。いい加減な学生の身分で人に物を教えるなどと、と最初は断ったのだが酒屋主人としては学識云々より扱いに困るお転婆娘の子守を押し付けるのにいい加減な学生は都合が良かったのだ。実際、そのお転婆娘と初めて面会した際に遊んでくれる人と認識をされてしまったのだからやはり断るべきだったかと頭を抱えた。

女どころか子供の扱いも、ましてや少女の扱い方など知らぬ私としてはどうしていいかわからずに、ひとまず用意した算数の話を一方的になおざりに口にしたことを覚えている。お転婆娘はつまらないと言って御役御免だろうと思っていると、お転婆娘は何が気に入ったのかもっともっととせがんだ。私は余計に困った。子供は勉学を嫌うものだと思っていたし、私の語りと言ったら、聞き手のことを一切考えぬ一方的な語りであったのだから、あまりの予想外の反応にむしろ私は当惑する他にはない。

それから週に何度も酒屋を訪れ、お転婆娘の好奇心のお気に召した話をした。お転婆娘の好奇心は尽きることもなくあれは、これは、それはといろいろと尋ねられる度に一つづつ答える。挙句、私の知らぬことすら訊いてくるものだから、おかげで年長者の矜持として知らぬとは言えずにあれやこれやと詭弁で誤魔化し躱す技術が身についた。お転婆娘の好奇心に私の詭弁が太刀打ちできぬことはやはり私の矜持に関わる問題なので、私は私として不本意にも書物を漁り勉学に性を出す羽目となったのは卒業のほんの1年ほど前の話である。それから私はお転婆娘の好奇心に助けられて無事に学問を修め、職に就く過程で街を離れてからは酒屋へ通うことはなくなった。

それから数年が経ち、私は件の好奇心の塊のお転婆娘が好奇心の赴くまま何処かへ行ったと帰省した際に立ち寄った酒屋で夫人に聞いた。夫人も淑女らしからぬ奔放さからか旅立つお転婆娘の好奇心の背中を押した形なのだろう。時折遠い土地から届くお転婆娘の手紙には相も変わらぬどころか数年で予想以上に膨れ上がった好奇心が彼女の気に向くままの筆で認められていた。それが、この娘は将来果たしてどういう人生を送っていくのだろうという私の好奇心が芽生えたときであった。

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