第七話 佐々木楓と反撃の一撃
今思えば、私はきっと幸せだったのでしょう。ただ少しだけ、運が悪かったのだと思います。
会社勤めの父に料理上手の母、時々わがままを言うけれど可愛い弟。友達にも恵まれていて、勉強は割りと好きだけど運動はちょっと苦手で、この国のどこにでも転がっているような普遍的な日常をどこか満ち足りないようにかんじていたけれど、きっと本当はその普通に満足していました。
そしてそんな日常がどれほど尊く、輝かしく、そして脆いものであるのかも私は知らなかったのです。
それはある日突然訪れました。さながら嵐のように、されど確かな悪意を持って、それは私の全てを奪っていったのです。
彼は言いました。誰でも良かった。金さえ手に入ればどこでも良かったのだと。そのために私の家族は殺され、私もまた彼に殺されようとしていました。
酷く現実感に欠けた光景でした。数時間前まで夜ご飯を食べながら談笑をしていたはずの私の家族が、皆血を流しながら動かなくなっていたからです。
どうすればいいか分かりませんでした。怒りや悲しみを覚えるよりも前に、頭が真っ白になって考えるという行為すら奪われてしまっていたからです。
けれど頭は働いていなくても、私の身体は無意識の内に動き始めていました。勝てる要素なんて一つもなかったけれど、私は彼に立ち向かっていたのです。全部終わってしまった。ならば自分ももう終わってしまえばいい。そんな虚無感に囚われ、自暴自棄になっていたのでしょう。そしてせめて一矢報いたいだなんて無謀なことを心のどこかで考えていたのかもしれません。
けれど現実は非情です。胸に突き立てられたナイフは冷たく、そして溢れ出る血はどうしようもなく熱くて、私は死ぬんだなと他人事のように思えて――――その時、それは現れました。
さながら嵐のように、されど確かな悪意を持って、それは全てを奪われた私に笑いかけたのです。
彼女は言いました。誰でも良かった。面白そうなやつであれば、何処の誰だろうと。その為に彼女は私が殺されようとしているのを、ただ漫然と眺めていたのです。
その日、私は初めて人を殺しました。その日まで、きっと私は幸せだったのでしょう。ただ少しだけ、運が悪かったのだと思います。
私はこの運命を、受け入れることにしました。
本来魔法というのは、極少数の稀な才能を持って生まれた人間だけに使うことが許される。そしてその才を持つ人間は滅多に現れるものではなく、今までの人類史の中でもその数は数百を越えていないらしい。
彼女は、そんな選ばれた人間の一人だった。牡羊座の魔法使い、名をハマルと彼女は言った。気紛れで少女を救った魔法使いは、少女に対したった一言だけ宣言した。
「今日から私の代わりに働いてもらうわ」
従うほか選択肢はなかったし、そもそも反抗するつもりもなかった。どのような形であれ、彼女は命の恩人だったからだ。
だが魔法を使うには適正が必要で、平凡な生活を送っていた少女にそのような才能があるわけもなく――――。
「その為に、その身体ァせっせと弄ってやったのよ。細胞単位で一からね。所詮は模造品だから格は落ちるけれど、魔法少女とかいう粗悪品に比べりゃ何百倍もマシって奴よ」
魔法使いに必要な適性を持って生まれてくる人間は滅多に現れない。だから魔法の質そのものを大幅に落とす――――その上で必要なマテリアルを外側から用意することで、そこらの人間でも使えるように調整した魔法を扱う者達を、魔法少女と呼称するのだという。
だが少女に施された改造は存在そのものを造り替えるに等しい所業で、本来ならば常人では精神崩壊さえ生温い程の苦痛を伴う。少女は魔法の適正こそ持ち合わせていなかったものの、その苦痛に耐えうるだけの異常な強度の精神を持ち合わせていた。代償として記憶が混濁し、昔のことはよく思い出せなかったけれど、むしろあの凄惨な光景を思い出さなくていいと思えばそれも良かったのかもしれない。
「アレに耐えられただけでも、アンタ十分イカれてるわ」
牡羊座の魔法使いは笑った。これでもう自分が働く必要もなくなると――――彼女はとにかく面倒くさがり屋だった。
そうして少女は魔法の世界に足を踏み入れ、魔法使いとの生活が始まったのである。
それからはひたすらに魔法と体術の修行、そして魔法使いの世話に追われる事となった。命を救われたのだから、これぐらいの事は喜んでやった。牡羊座の魔法使いは度を越えた面倒くさがり屋で、入浴は勿論食事すらも一人だと面倒だと取ろうとしない。日に日に強化されていく戦闘技術とお世話スキル、忙しい日々であったがお陰で余計なことは考えずに済んだ。
それからしばらくして修行が一段落すると、魔法使いは思い出したかのように口を開いた。
「それなりにやれるようになってきたし、ぼちぼち魔法少女狩りと行こうかしら」
魔法少女を襲い、使い魔を破壊すること。それが魔法使いの命令だった。
使い魔を倒せば魔法少女は力を失い、深界に潜行し変身することも出来なくなる。そして使い魔に内蔵された魔力炉を収集することができれば、牡羊座の魔法使いの持つ魔力炉を増強しより強い力を手にすることが出来るのだという。
幸いにして牡羊座の魔法使いが活動拠点としていた領域には、多くの魔法少女がいた。とにかく倒して力を集めてこいと言われ、少女は少しだけ嫌な気持ちになった。
どのような事情であれ、正義の味方を倒してこいと言われているのである。まだ幼い彼女にとっては酷な命令だった。
そんな少女を見て、牡羊座の魔法使いは嗤った。邪悪に、そして全てを見下すかのような傲岸不遜な態度をもって。
「これでも私、悪の魔法使いなのよ。アンタはその弟子――――悪人なら、こういう時は笑いなさい」
優れた者が君臨し統治する。それが当然の摂理であれば、魔法使いが人類の上に立つのもまた必然と言えるだろう。魔法使いこそが人類を管理すべき存在であり、そうして人類をより優れた方向へ導く事が魔法使いに課せられた使命なのだそうだ。
そしてその目的を達成するためには、全ての魔法少女を駆逐し深界から現実へ浮上する必要がある。あの日の夜は無理矢理少女の家ごと深界に引き摺り込んだらしいが、ああいった荒業は使うのに恐ろしく面倒な手間と膨大な魔力を必要とするのだという。
「ハマル様は面倒くさがりなのに、そんなに人類を支配したいのですか?」
思わず聞いてしまった。お風呂でさえ一人で入るのが面倒だと少女に手伝わせる彼女が、わざわざ人類を支配しより良い方向に導きたいだなんて本気で考えているのだろうか。
そんな少女の質問に、魔法使いは呆れたように溜息をついた。仮にも命を救ってやった恩人に、そんな失礼なことを聞くなよと。
「こう見えても働きモンなのよ、私は。いいからさっさと魔法少女の一人や二人ブチ殺して来なさい」
「…………はい、分かりました」
「負けたら廃棄よ――――それじゃ、後は任せたわ」
魔法使いは悪で、魔法少女は善だ。ならば魔法使いの弟子である自分もまた悪で、魔法少女を倒すこともまた悪――――それでも彼女は従った。この生命の所有権は既に彼女にはなく、己の全ては牡羊座の魔法使いのものである。
幸いにして、魔法少女との戦闘はさして難しいものではなかった。言われていた通りこの街には多くの魔法少女がおり、そしてその多くが徒党を組んで活動していた。だが戦力的に少女に勝る力を持つ者はおらず、まともに少女と戦えたのはとある勢力のリーダー格らしき少女と、それから徒党を組まずに一人ふらついている変人ぐらいだった。その二人だけはやりづらくて敵わなかった為、他の魔法少女を倒して回ることにした。
そしていつの間にか、変人以外の魔法少女がいなくなっていた。それぞれ組織を作っていた魔法少女達は対立し、そしてとうとう魔法少女同士で戦争を始めたのが原因だった。その隙に少女も幾らか魔法少女を狩ったが、大部分は変人が奇襲によって片付けてしまった――――そしてとうとう魔法少女は、変人一人だけになってしまったのである。
彼女達に失望しなかったと言えば、嘘になるだろう。だがそれが現実なのだと、彼女は納得した。
魔法少女は正義の味方だと思っていた。けれどそんな事はなかったのだ。自分達で勝手に争い、勝手に消えていった彼女達にそんな物はない――――正義の味方なんて、そんなものは所詮物語に出てくるだけの造り物でしかなかった。
残る一人を倒そうと躍起になるも決着はつかず、暫くは低級眷属に任せていいという魔法使いの言葉に従い、それから少し経って――――彼女は、現れた。
実際に戦場に行ったことはないけれど、恐らくは目の前に広がる光景と似たような世界が広がっているのだろう。
飛び交う閃光。甲高く響く金属の激突する音。爆撃を受けたかのように弾け飛ぶ地面。
魔法使いの眷属による進軍を止めていたのは、二人の魔法少女――――佐々木楓と、サラ・クレシェンドである。
楓が守護眷属である少女と戦い、その間に他の眷属をサラが仕留める。役割分担に従い、今日も闘争が繰り広げられていた。
戦闘終了後に修行を始めてから早一週間、良い結果は得られていなかったものの、気分は悪くなかった。目的のために行動を起こしているという事実が、鎮静剤となっているのだろう。勿論悔しいという気持ちが消えたわけではなく、むしろより色濃くなりつつあったが、勝利以外にこの感情を消す方法がないと理解してからは余計なことも考えなくなった。
「…………」
余裕はないが、冷静さは保っていた。焦れば狩られる。逸れば終わる。躱せる攻撃は確実に躱し、そうでない攻撃は最小ダメージに抑えるように立ち回り、とにかく機を待つ――――楓の性には一切合っていなかったが、この戦力差ではそうする以外に逆転を狙う方法はない。
無理を通せるだけの強さが足りていないのだ。そもその程度で返せる相手ではないことも理解している。その上で勝つ方法を模索しているのだから、訪れるかも分からない隙を待ち後手に回るほかないだろう。
それでも前なら躱せなかった攻撃も回避出来るようになっていることを考えれば、着実にこの戦場に適応しつつあるのは間違いない。それでも危うい場面は多々あり、少女との実力の差が埋まったわけではないのだが。
(やっぱキツい…………ッ)
全部躱すのは到底不可能だ。少女の攻撃は主に弾幕と砲撃によって構成されており、とりわけ前者は強化された動体視力を全力で活用してようやく見切る事が出来る。そして見切れたところで躱せるという訳でもない。身体を挟み込む隙間もない量の光弾を前に楓が取れる行動は防御のみ、せめて自分で防御魔法を展開できれば話は違ったのだろうが、ないものねだりをしたところで何も始まらないのは分かりきっている。
故に弾幕はもう躱さずに最低限のダメージで抑えられるよう立ち回るしかない。危険なのはその合間、不意を突く様に放たれる狙撃用の高威力の光弾と砲撃だ。砲撃は当たれば一撃で沈む威力なのは今更だが、楓が立ち回れるようになってきたところで少女が使うようになってきた狙撃弾は非情に厄介だった。
大きさは弾幕に用いられる光弾と大差なく、その上砲撃のように目立つこともない。砲撃は放つ際の光量や明らかに桁違いの魔力が放出される為、嫌でも気付く事が出来る。だが狙撃弾は見た目は勿論、魔力反応も弾幕に紛れられる程度しかないせいで神経を研ぎ澄ました状態でなければまず反応すら出来ない。
威力も他の光弾とは比べ物にならず、直撃すればまずその部分は機能しなくなると言っていいだろう。
「あっちのほうが、よっぽど魔法少女やん……っ」
楓の主力攻撃は拳撃だ。威力に関して言えば間違いなく一級品だろうが、魔法に比べて非常に大きな欠点を一つだけ抱えていた。身体を負傷した場合、著しく威力が下がるという点である。
拳撃は拳だけで撃つものではない。足腰は勿論肩から指先まで、全身を使って撃つからこそ高い威力を発揮することが出来る。逆に言えば負傷によって体の機能が衰える度に、必然的に威力は落ちていってしまう。
例えば少女の砲撃であれば、魔力さえあれば威力が落ちることもない。そういった意味でも楓はハンデを抱えていた。
逆に言えば砲撃は魔力がなければ撃てず、魔力切れを狙うという考え方もあるだろう。正直に言えば楓も真っ先にそれを思いついた。だがサラ曰く少女の魔力量は馬鹿みたいな量だといい、完全に待ちに徹しても攻撃が衰える気配は一向に訪れなかった。
つまり少女にとって魔力がなければ攻撃できないというのは、大した問題ではないのだ。
ならば自分にあり、そして相手にない最大の武器とはなにか。
(攻撃のパターンは体感でなんとなく理解してきた。動けるだけの最低限のダメージ量に抑えることも成功した。攻撃速度に目も追っついてきた)
この数日間、ひたすらに逃げ回って焼き付けた光弾の雨。その身で受けて痛みすらも積み重ね、攻撃の意図とそこから想定される最善の攻撃を理解し、その上で己の持つ最大の武器を活用する。
ばら撒かれている弾幕に関しては、ほぼほぼ無視でいい。ダメージはあるが決して大きくはなく、量が多すぎる為全て躱そうとすればそれだけで神経が疲労してしまう。
警戒すべきは狙撃弾と砲撃だ。前者には大きな隙もなく光弾に紛れる見た目と小さな魔力反応によって察知し辛い。代わりに必殺の威力を持たないが、当たればその部分を機能停止に追い込むだけの力はある。
対して砲撃は直撃すれば蒸発する危険性すらある過剰火力を持つ代わりに、大きすぎる魔力反応と見た目も大きく光量も多い。そして光弾や狙撃弾に比べ発射に時間がかかるというデメリットがある。
楓が狙うべき隙は、間違いなくこの砲撃の中にある。そして楓は、少女が確実に砲撃を狙ってくるタイミングを掴んでいた。
多少のリスクを伴うが、それは承知の上だ。実力差がありすぎる以上、それを埋めるにはどこかで無理をしなければならない。問題があるとすれば使えるのはたった一度、失敗すればそれ以降は警戒されてその隙すらも狙えなくなるであろうこと。
その可能性を考えた楓は、わざわざ数日間待ちに待った。絶対はないが、だからこそ正確を期す為に下準備まで整えた。
後は実行のタイミングだけだったが、楓が行った下準備は期間を空けすぎると無駄になる可能性がある。であればこれ以上待つのも悪く作用するだけだ。
光弾を対処しながら、神経を研ぎ澄ます。少しの負傷はあれど、ある程度万全に動ける状態。即ち今が最も楓の考えた作戦に適した状態であり――――楓の待っていた機が、訪れた。
「――――ッ!?」
少女が狙撃弾を放ち、楓の左肩に直撃する。走る激痛に歯を食いしばった。同時、眼前に特大の光の塊が迫る。
少女は狙撃弾が当たった時、楓が怯んだその瞬間を狙って確実に砲撃を狙う。今までその砲撃を楓は躱せた事がなく、そして来ることが分かってもあえて掠り続けた。
狙撃弾が直撃したのははじめてで予想以上に痛かったが、我慢できる範疇だ。痛みを前にしても頭は正常に機能していて、頭に叩き込んだ次の行動へと無理矢理以降する。
「マジで痛いわ……ッ!!」
少女から楓の姿を捉えることは出来なかった。何故か――――砲撃と地面の隙間に身体を捩じ込み、その間を全力疾走していたからである。
狙撃弾が初めて直撃し、そしてその動揺によって砲撃まで当たってしまった。そういった状況を装う為に、楓は今まであえて砲撃を躱せないと思わせ、そして狙撃弾が直撃しないように全力を出してきた。
狙うべき隙は砲撃を撃つ前の魔力を溜めている間でも、かといって砲撃を撃ち終えた後の確実に砲撃が使えない間でもなく、砲撃を使用しているこの瞬間だった。
地面と砲撃の隙間はお世辞にも十分な空間があるとは言えない。前傾姿勢になりながら走れてはいるが、後ろ髪は光に巻き込まれ消し飛び、戦闘衣装は背中部分が完全に焼き消え露出した肌を焦がしていた。
今までに感じたことのない痛苦に叫びを上げたかったが、それすら堪えて一気に距離を詰めんと駆け抜けていく。こんな痛みは大したことない。楓にあって少女にない武器は、ダメージのフィードバックなのだから。
楓は幾らダメージを受けようが死にはしない。流石に砲撃が直撃すれば使い魔ごとやられて二度と変身出来なくなるだろうが、そうでなければ幾らダメージを受けようが問題はないのだ。
後は自分が耐えられるかどうかだった。そしてここまで来た以上、もう耐えるしかなかった。
砲撃が途切れたその瞬間、楓は思い切り地面を蹴った。相手を倒したという確信と油断が少女に驚愕をもたらし、そしてそれは楓が切望していた明確な隙となる。
それでも少女は射撃魔法を展開し、迎撃の姿勢を取った。予想外の出来事を前にしても動くことが出来るのは、少女の戦闘経験が並ではない証拠だろう。それでも今回だけは、この状況を作り上げるために身を捨てた楓が上回った。
迫りくる弾丸を跳躍で躱し、一気に少女との距離を詰め。
「おらァッ!!」
拳を少女へと叩き付けた。空中にいる以上踏み込むことは出来ないが、腰をいつもよりきつく回転させることで強引に威力を引き出す――――それでも全力とは言い難いが。
普段が過剰火力であることを考えれば、多少威力が落ちたところで問題はないだろう。少女が防御魔法を展開するが、それごと後ろに吹き飛ばすと言わんばかりに殴り抜ける。
少女は耐え切れずに、防御魔法を展開したまま真っ直ぐ後ろに弾け飛んでいった。少女の防御魔法の硬さを知っていた楓は、それごとふっ飛ばして叩きつけることによりダメージを与えようとしたのである。
そして少女は軽々と飛んでいき、廃ビルにそのまま突っ込んでいった。初めてダメージを与えられたという確信に、痛みすら忘れて拳を握り締める――――この時楓は、まだ少女のことを理解していなかった。
魔法。魔力。技術。経験。己の全てを凌駕する敵の最大の武器が、執念であることを。
壁に叩きつけられた少女は一度崩れ落ちたものの、その直後震える足を叱咤するように手で叩きながら無理矢理立ち上がった。細い肢体にそれほどの力が未だ眠っているとは想像もしていなかった楓は、喜びの余韻も消し飛び小さく後ずさりしてしまう。
場に満ちていた少女の魔力が、咽返りそうな程濃厚に変わり始めた。歓喜は一転して、恐怖へ染まり始める――――全力を出させること。それを望んでいたはずなのに。
そして激しい感情の落差に身体を硬直させる楓などお構いなしに、少女は地を蹴り疾走する。
「――――ッ!?」
――――速い。サラのように見えない程ではないにせよ、楓と比べれば圧倒的と言っていい。
一発叩き込むこと。楓の作戦は終始そこに焦点を当てていた。一発でも当てられればいい、そう思っていたからだ。しかし一発でも当てられれば勝てる、そんな傲慢なことを心の奥底で思っていたのもまた事実だ。
だからこそ捨て身の攻撃にも躊躇いがなかった。当てれば勝てるのだから、どれだけ負傷していようが問題などないだろう。
ならばその前提が崩れたならば。一撃で倒すことが敵わず、得意の肉弾戦ですら相手が自分より上だった場合。
「いっ――――」
どう動くべきか。思考するよりも早く距離は零に、そして少女の拳が顔面目掛けて抉りこむ様に撃ち込まれる。
速い上に重い。威力は楓と比べれば落ちるが、十分なほどに重く、なにより速い。一撃で倒すことを前提とした楓のそれとは違い、少女のそれは抗う余地の残されていない連撃だ。
楓に比べて威力が低くとも問題などない。少女の拳は直撃すれば動けなくなる威力があり、そして楓より隙も短く速度も上だ。直撃すれば最後、抵抗する暇さえなく倒れるまで連撃を受け止め続けるしかない。
顔面に拳が直撃した後、次いでもう片方の拳が楓の腹部を捉える。威力のあまり浮き上がる身体を横から飛んできた蹴りによって弾き飛ばされ、壁にぶつかるよりも早く追ってきた少女の踵落としが背中に叩き込まれる。
痛みを認識する暇すらなかった。気がついた時には地面に倒れ込んでいて、少女の手によって仰向けにされる。倒れる楓を跨ぐように立ち尽くす少女の目は、強い光を伴って見開かれていた。
(ああ――――)
少女が拳を振り上げる。この時、楓はようやく理解した。死なないのは、アドバンテージでもなんでもなかったのだと。
命が懸かっているから必死になれる。所詮楓は幾ら痛みを感じようがそこに命はなく、ゲームかなにかを攻略するかのような気軽さしかなかった。
少女はきっと楓が取るに足らない相手だと思っていたのだろう。いや、敵とは認識していたが、毎日笑顔で話しかけてくる相手が、本気で自分を殺しに来るだなんて思っていなかったのかもしれない。
間違いないのは、驚かせてしまったこと。実力もないのに、分不相応な行動によって予想外の状況へ持ち込んだ結果、少女は危うく死にかけた。
(――――うち、なんて馬鹿なんやろ)
指すら一ミリ足りとも動かせない。完全な敗北を前に、楓は抵抗することさえ許されなかった。
拳が振り下ろされるまでの時間は永遠のように感じられ――――否、時間が経過してもなお少女の拳が放たれる事はなかった。
少女の腕に巻き付いた鎖――――二足型眷属の死体の山に腰掛けた、不敵な笑みを浮かべるのは。
「ざんねーん、もう一人いるの忘れてたー?」
片手で鎖を用いて少女の動きを封じ、もう片方の手に握られた銃は既に敵へと狙いを定めていた。
少女は強引に鎖を引き千切るとそのまま飛び退き、楓を睨みつけるとそのまま廃墟の向こう側へと消えていく。ほぼほぼ無傷のサラを見て、一度撤退したほうがいいと判断したのだろうか。
いずれにせよ分かるのは、自分が助けられたということだけ。それでも痛みと疲れで立ち上がれず、首を動かす気力もなく宙へと視線を送る。
「今のはちょっと危なかったねー?」
「…………うん。ごめん。助かった」
「……とりあえず今日はもう帰ろっか?」
呆然とする楓に、何かを察したらしいサラはさっさと現実に戻るよう提案する。
帰れば、この虚しさも消えるのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。楓は小さく首を横に振って。
「先、帰ってええよ。うちもちょっと休んだら帰るから」
「そっか。……何度も言うけど、センパイはよくやってると思うよ? だから変に無理して、危ないことしなくていいんだからね?」
サラの慰めに返す言葉もなく、天を覆う灰色のように重く滞留する感情を吐き出すかのように溜息をついた。それでも気持ちが晴れることはなく、冷たい現実が容赦なく伸し掛かる。
殺そうとしていた。一方的に命のやり取りを強いているという実感が、今まで皆無だった。むしろそれを利点とすら考えていた。そしてそれがどれだけ恐ろしいことかを、少女の怯えた表情を見て初めて理解したのだ。
なんて馬鹿なのだろう。なんて情けないのだろう。自分で自分を殺したくなった。
なにより嫌だったのは、それでもまだ負けたくないと考えている自分がいたことだった。
少女を殺したいわけじゃあない。けれど勝ちたい。負けたくない。脳裏に焼き付いた敗北の瞬間が頭から離れず、胸中を押し寄せる虚無感の中に支配されそうになる。
『楓、大丈夫か……? …………っ』
アルドの呼びかけにも答えず、自らがどうすべきかを自問自答し、答えも見つからずに自己嫌悪で吐き気を覚えた。
だからだろうか、気づかなかった。いつの間にか、自分を覗き込む女がそこにいた。
「――――お困りのようだね?」
不意に声をかけられ、身体を硬直させる。低級の眷属は全部倒した。この街にいたはずの魔法少女達は、その殆どがサラによって倒されてしまったはず。
であればこの声の正体は――――楓を見下ろす、嗤う影。
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