最終章 ✲✲✲ 2 ✲✲✲

 初めて『満腹カフェ』に行ってから、今日で二カ月ほどが経った。もう何度も、公園内の立入禁止区域の境に設置された、壊れたフェンスをくぐった。

 その先に広がる、夕方以降になれば闇が濃くなっていくだけの森の中も、もう進みなれた。

 最初に見える切り株を斜め左へ曲がり、そこから真っ直ぐに進み、道を誤ったのではないかと不安になる頃。

 そのカフェは、ふっ、、、と。灯りが燈された時のように姿を現すのだ。


 小屋の脇に置かれた看板は、特別な時だけ『特別』が書き足される。

 普段は内容が変わる事は、あまりない。

 小屋に似合う焦げ茶の扉が、上からのオレンジ色の灯りを受けて、明るく、可愛らしく、訪れた客を歓迎するかのように、そう感じて。

 扉を開けて店内に入れば、初めて来たときと変わらず、飴玉を転がすような声が出迎える。

 相変わらずオレンジの光に包まれて、飾られた装飾がキラキラと輝く幻想的な店内で見る彼女は、正しくこのカフェの主で、まるで異世界に暮らす可愛らしい魔女のようで。


「いらっしゃいませ」


 二週間ぶりに聞く彼女の声は全く変わらないように思えて、実は少し違った。

「こんばんは」

 そう言う和哉を、身長の差で下から見上げるようになる彼女の眼は、少し和哉を責めるような色をしていて。

「空いてるお好きなお席へどうぞ」

 それでもいつも通りに席へ座るように促して、彼女はカウンターの向こう、奥へと戻っていく。

 促された和哉は、いつものカウンター席に座った。

「…………」

「……メニュー、そちらにありますよ」

 席に座ったままメニューも見ない和哉を、不審に思った店長が言った。

「…………」

 和哉はメニュー表を手に取り、ぼんやりと眺めた。

 そのまま適当にメニューを眺めて、ぱっと目に入ったオムライスを注文した。

「…………ふぅ」

 厨房に消えた店長を目で追い、中からカチャン、カチャンと、作業の音が聞こえてきてから、ひとつ、息をついた。

 今までと変わらぬようで、全く違う空気が流れていた。それはすぐに分かった。

 彼女は、沈んでいた。

 和哉に分からないように、二週間前と同じトーンで話をしているようだが、和哉には分かった。

「…………」

 食事が終わったら、まずは何て言おうか。考えてみるが、あまりまとまらない。

 その時に考えればいいか、と、あっさりと考えるのを止めた。


 そういえば。

 ここのオムライスは絶品だと、香織が言っていたのを、ふと、思い出した。




「……ごちそうさまでした」

「……はい、お粗末様でした」

 食事が終わり、店長が食器を下げ、温かい茶を出す。二週間前と変わらず、美味しい。

 しばらく茶を飲み、働きっぱなしだった口と食道を休める。

 その間、店長もカウンターの奥の方で茶を飲んでいた。

「…………」

 互いに無言で、店長はこちらを見ようとしない。和哉から話しかけない限り、向こうからくることはなさそうだった。

 和哉はもう一口茶を飲んで、店長に声をかけるべく勇気を出そうと、小さく「よし…」と呟いた。

「あの……店長」

 思い切ってしっかり声を出したつもりだったが、自分の口から出た声は思いの外小さかった。どうやら自分で思っているよりも緊張しているらしかった。

 だが、その小さな声は彼女の耳に届いたようだ。ゆっくりとした動きで、和哉の方を見た。そのままこちらには来てくれないかと思ったが、どうやらそうでもないようだ。ニコニコしながら、とはいかないが、いつもの笑顔作りながら傍まで来てくれた。

「何か御用ですか?」

「えっと……」

 なんとも言えない距離を感じる。

 彼女の言葉はごく普通のそれなのに、完全な「客」と「店員」の空気を作り出し、これ以上近づけないかのような錯覚に陥る。

 彼女は怒っているのか、それとも悲しんでいるのか。いや、そんな感情など全くなくて、何も思っていないのか、、、、、、、、、、。ある意味、それが一番怖い気がする。何でもいいから、何か感じていてほしい。

 店長の見えない壁を感じるがここで引くわけにはいかない。

 和哉は先ほどよりも、もっと多くの勇気を振り絞るつもりで言葉をつづけた。

「……えと、久しぶり…です、ね…」

「…………そうですね、お久しぶりです」

「…………」

 店長の目が、怖い、気がする。

「…最近ちょっと、忙しくて、なかなか来れなかったんです」

「ああ、そうでしたか」

「…はい」

 話が続かない。彼女の返答に、会話を続ける気を感じられない。これまでの彼女からは想像出来ないほど冷ややかだ。

 このまま回りくどく話し続けるより、単刀直入に話を切り出すべきかもしれない。

 和哉は覚悟を決めた。


「……店長!」 


 思ったよりも大きな声が出てしまった。

 店長は和哉の声に驚き、ビクッと体を跳ねさせた。

「は、ハイ」

「あ! すいません、声大きすぎた…。あ、あのですね。単刀直入に言いますよ!」

「あ、は…はい」

「あの…怒ってますか⁉」

「怒ってません!」

「はいッ! …えっ⁉ あ、あ…そうですか……」

 一気に駆け抜けてしまったせいで、よくわからない返事をしてしまった。

 絶対に怒っていると思っていた。こっちから話を聞いておきながら、勝手に気まずさを感じて、勝手にカフェを避けていたから。和哉を除く、ほかの四人…三人かもしれないが、彼らは頻繁に来る客ではない。『特別な食材』が入荷した時だけカフェに来て、目的のものを食べたらすぐに帰る。言ってしまえば、他の客たちと変わらない。

 だが、自分はどうだろう。

 週に二回か三回訪れて、食事をした後に雑談をしてから帰る。特別に「予約」まで許してもらっているくらいだ、他の客と比べれば、彼女に近いところにいた…と、思いたい。そんな自分が、明らかにキッカケとなるような話を聞いた後、全くカフェに来なくなるなど、避けていると思われても仕方がないのだ。

 

 ―だからてっきり怒ってるかと、思ったんだけど…。


 彼女は怒っていないと言った。ならば彼女は今、何を考えているのだろう。

「怒ってないなら…あの……」

「……………………」

 店長の表情が、どんどんと不機嫌なものになっていった。眉を引き寄せ合い、目をキュッと細めて、口は「へ」の字に曲がっていく。

「…………」

 なんと言葉を続ければいいのか分からない。下手に適当なことを言って、怒っていないのを怒らせるのも怖い。

 おろおろと慌てふためく和哉をじろり、、、と見つめたまま、店長はしばらく何も言わなかった。

 やがて―


「そっちから話を聞いておいて…」


 聞こえるか聞こえないかというほどの、小さい声で、店長が言った。

「………え」

 和哉が硬直しているのをちらりと見た彼女は、静かにカウンター裏から出てきて和哉の座っている椅子の傍まで来た。

 ぼそりと呟いてからそれきり何も言わず、変わらぬ不機嫌な顔で和哉を睨む。

 店長は、何故和哉がカフェに来なかったのか、分かっているのだ。

 彼女の友人の話を聞いてしまったこと、その話を自分にさせたことに、勝手に罪悪感を抱いて、勝手に気まずさを感じて、カフェを避けるようにしていたこと。

 全部、彼女は分かっているのだ。

 和哉はじっ、、とこちらを睨んでいる店長から目を逸らした。怖いわけではないが、店長の視線が無数の針のように、ぐさぐさ、、、、と突き刺さってくる気がした。

 だが、和哉が目を逸らしたのを、彼女はお気に召さなかったようだ。普段の優しげな表情など微塵も感じさせない顔を更に険しくして、和哉に迫った。

「私に言うこと、あります?」

「…えっと…………」

「あります?」

「…はい、あります」

「では、どうぞ」

「…………すいませんでした、その…いろいろと…」


 普段なかなか怒らない人ほど、いざ怒ると怖い。

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