第三章 ✲✲✲ 4 ✲✲✲

「いらっしゃいませ、和哉さん」

「こんばんは」


 翌日、和哉はいつも通り遅めの時間にカフェを訪れた。

 狙った通り、店内に客はほとんどおらず、テーブル席に既に食事をしている男性客が一人いるだけだった。おそらく長居せずに帰るだろう。料理も半分以上食べ終えている。

 和哉はカウンター席に座り、メニュー表を広げた。

 一通りメニューを眺めて、店長を呼ぶ。

 昨日は、その日の前日までの余ったものを食べきるつもりだったのだが、思っていたほど残っていなかった。だからといってどうも材料を調達する気にもなれず、結局自宅付近のコンビニで弁当を買い、夕食を済ませた。そのコンビニで買った弁当には魚が入っていたのだが、どうにも味が良くなくて、美味しい魚が食べたい、という気持ちだけが残る羽目になってしまった。

 と言うわけで、今日は魚料理を注文することにした。

 魚料理はこれまでにも何度か食べたことがあるが、どれも絶品だった。

 日によって魚の仕入れ状況はかなり異なる。その日上がった魚の中でも、イイものだけを仕入れているそうだ。

「そこらの寿司屋みたいだよなぁ…」

 特別魚にこだわっている、と言うわけではない。

 彼女の食へのこだわりだ。

「腹減った…」

 料理を待っている間の暇つぶしに、今日受けた講義の教材を鞄から取出し、パラパラと流し読みをした。本気で内容を読む気はない。こんなもの一人でじっくり読んだって、眠くなるだけだ。

 今日の講義で担当教授がさらりと読んだだけの文章。一章分にも満たない程の少ないページ数を講義の最初に読んだだけで、その後は教材を開くこともなかった。

「……………」

 目当てのページを開いて、ぼんやりと文字を眺める。教授が音読していた時のことを思い出しながら、左から右へと、文字を追う。

 小難しい単語が並ぶ、中学や高校で見慣れたようなよくある教科書の文章が、読み進めるにしたがって、頭の中にもや、、を広げていくように、自分でも気が付かないうちに、ぼんやりとして―。


「お勉強ですか?」


「―ッ!」

 急に前から聞こえた声に、和哉ははっ、、とした。

 教材から目を離して声のしたほうを見ると、店長が料理を持って、カウンター越しに立っていた。

「偉いですね、空いた間にお勉強なんて」

 店長は和哉が教材を片付けるのを待って、料理を置いた。こんがりと皮が焼けた青魚をお盆の真ん中に、その周りには味噌汁、漬物、米がそれぞれ丁度いい大きさの器に入って置かれていた。

「勉強ってほど、ちゃんと読んでないんですけどね」

 箸を取り上げて、「いただきます」と言ってから食べ始めた。

 まず箸をつけた青魚の身が、ほろほろと柔らかい。

「…やっぱ美味ぇ」

 魚の味を損なわない絶妙な塩加減、昨日のコンビニ弁当とは大違いだ。

 店内に和哉以外の客がいることを考慮して、今はまだ店長に話しかけるのは避けて、目の前の食事を存分に楽しんだ。


 やがてテーブル席で食事をしていた男性客が帰り、店内には二人だけとなった。

 男性客を見送った店長は、一旦厨房に入り、少しして、茶の入ったマグカップを持って出てきた。そのまま置いてあって椅子を引き寄せ、カウンターを挟んで和哉の前斜め左に座った。

「今日も忙しかったですか」

 和哉は問う。

「ええ、今日もたくさんのお客様にいらしていただきました」

 店長が答える。

「『特別な食材』が切れてもお客様がいらしてくださるのは嬉しいですね。あれじゃなくても、食べに来てくれるんだ、って」

「店長の料理はどれも絶品ですよ。その辺の飲食店なんかとは比べ物になんないですって」

 お世辞ではなく、本心で言った。

 それを聞いた店長は、嬉しそうに、恥ずかしそうに笑う。

「亜弥たち…あぁっと、俺の友達も言ってますよ。ここの飯は本当に美味いって。この間は『食材』が入った時だったけど。普段の料理知ってる奴もいますから」

「前の『食材』が入った時と言うと、和哉さんが美味しいところを食べちゃった時のことですね」

「……俺がフライングして良いトコ持ってった、みたいに言わないでくださいよ」

「ふふ、すいません」

 和哉が渋い顔をしても、店長は笑って流すだけだった。だが実際、フライングしたようなものだから、和哉もあまり強くは言えない。

 反論できないことを誤魔化して、味噌汁を啜った。

「あ、そうだ。言おうと思ってたんですけど」

 味噌汁の器を置いて、米を口に入れた。

 店長が返事をする間に、もぐもぐと咀嚼して飲み込む。

「? 何でしょう?」

 魚を半身食べ終わって、背骨を箸でつまんでゆっくりと身から剥がしながら、

「その亜弥って俺の友達の、そのまた友達が、その時注文した料理の写真を、撮ったみたい、なんで…す…………よ………」


 言いながら、背骨を身から剥がし終え、ちらと彼女を見た時、その一瞬。

 見間違いかもしれない、ほんの一瞬だけ。



 彼女の目が、ぎょろり、、、、と。

 零れ落ちるのではないか、、、、、、、、、、、と思うほどに、、、、、、大きく見開かれていたような、、、、、、、、、、、、、



「…………ッ⁉」



 そんな気が、したのだが。



「あらぁ、それはダメですね」

 店長は「ぷんぷん」という音が似合いそうな様子で、眉をきゅっと寄せた。



「…………………………」



 気のせい、だったのだろうか。

 

 あまりにも一瞬で、且つ今の彼女の様子とどうしても一致しない、先ほどの異常な光景が、実際に見たものだったのかどうか、確証が持てない。

 魚の骨を取りながら、何となく見ただけだったのだ。

 きっと見間違い、気のせいなのだろう、と思いたい。そう、思うしかなかった。

 どう考えても、人間が開くことのできる瞼の可動域を超えていた。

 そんなの、あるわけがない、、、、、、、


 気のせいだ、絶対、そう。


 和哉はそこで思考を止めるために、一瞬見えた異常に引き攣っていた喉から、無理矢理声を出した。


「あ………でも、亜弥から、絶対ネットに載せるなって言っとくよう伝えてあるし、昨日調べた限りでは出てきませんでしたから。大丈夫ですよ」

 それを聞いた店長は、納得いかない、心配そうな顔をした。

「うーん、そうですか? うーん………でも…うーん……」

 「大丈夫」という言葉の信頼性を悩んでいるらしい。それなら、写真データを削除するよう、亜弥から裕子に伝えてもらうしかない。

「じゃあ、データ消すように頼んでみますよ。それならどうですか?」

「………………」

 店長は少し考えて、渋々、といった様子で、

「……わかりました、では、そうお伝えください」

 と言った。

「りょーかいです」

 相変わらずの徹底ぶりだ。正直、厳しすぎると思わないこともない。

 だが、彼女がそうしたいなら、和哉もそうしてあげたいと思う。

 明日、亜弥に会ったら、裕子という友人にデータを消すよう伝えてもらおう。

 直接言っても良かったが、その裕子連絡先も顔さえも知らない。亜弥に頼む以外、他にない。


 未だ少しむくれている彼女をなだめながら、和哉は残りの食事を食べ進めた。

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