第三章 ✲✲✲ 2 ✲✲✲

「え、心理学のノート、しばらく借りたい?」


 翌日の朝、和哉は以前から約束していた心理学のノートを淳平に渡そうと、彼を探して大学内をうろついていた。

 曜日ごとに受ける講義は違うし、淳平はあまり午前の講義を先行していないのだが、今日は珍しく淳平が午前中に講義を受ける日だ。

 丁度いいから今日ノート渡してしまおうと淳平が行きそうなところを回っていたのだが、反対に和哉が淳平に見つかったような形で遭遇することになった。

 どうやら淳平も和哉を探していたようだ。

 自分を探すなんて何事かと身構えたが、どうやら大したことではないらしい。

 和哉にとっては。

 

「そうなんだよぉ! 昨日、心理学の教授に会ってさ、あいつ俺が課題の提出率悪いの把握してたんだよ! そんで、「単位欲しかったら未提出の課題遡って出せ」とか言ってよぉ! どこまで遡るのか聞いたら「お前の誠意に任せる」とか言ってぇ!」

「はぁ…」

「だからお前のノートにメモってある今回の課題と、前に出された分の課題の詳細、見してくれ! 頼む!」

 淳平が土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。

「ええー…、しょうがねぇなぁ…」

 和哉は鞄から黒いノートを取り出し、淳平に渡した。

「お前がノート返すまではルーズリーフでやっとくから、なるべくちゃっちゃとやって早く返せよ…」

「ああああ! ほんっと悪りぃ! マジでサンキュー!」

 もともとノートは貸すつもりでいたのだ。その期間が延びるくらいなら、まぁ良しとしよう。

 淳平がノートを受け取り、表紙を見た。

「…ちょっと気になってたんだけどさ、お前なんで心理学のノートだけ黒いの? 表紙の『心理学』の文字は白ペンだし」

「え、なんか雰囲気それっぽくない?」

「ええー…」

 淳平は黒いノートを見ながら微妙な顔をした。

「お前のこだわりって、たまに変じゃね?」

「えー、そうかなあ。……文句があるなら持ってかなくていーぞ?」

「えッ⁉ あ、いや、全然問題ないっす‼ マジありがとう‼ 感謝してもしきれない‼ ありがたくお借りします‼」

「はいはい」

 淳平はノートに手を伸ばしてくる和哉から逃げるように、ひらひらとノートを振りながら去って行った。


 それを見送った和哉も自分の講義室に向かおうと大学内を移動する。

 本日一発目の講義は、亜弥と一緒だ。

 以前に誘いを断ってカフェに一緒に行かなかった日のことは今日まで一度も話には上がっていなかったが、その話が今日急に出てこないとは限らない。もしその話になったら適当に話を合わせなければならない。とは言っても、その日口実に使った『用事』のことは何も話していないから、適当に言うにはどうとでもなるのだが。

 話にならなければ、それに越したことはない。小さいことでも友人を騙すようなことを言うのは気が引ける。


「………おっと…」

 考えながら歩いていたら、いつの間にか講義室に到着したようだ。

 和哉は講義室の後ろの方の空いている席に座った。

 講義までまだ少し時間があるからか、生徒の集まりはまばらだった。

 しばらくぼんやり待っていると、講義室に亜弥が入ってきた。

「お、いたいた」

 亜弥は講義室の入口から和哉を見つけると、真っ直ぐに向かってきて和哉の前の席に座った。

「おっはよー。早いね」

「おー、今日は淳平にノート渡そうと思ってさ」

「ノート?」

「心理学の。課題見してくれ、ってさ」

「はぁー、相変わらずですねー」

 亜弥は和哉の前の席に座ると、デスクに教材を出し始める。

 これから受ける講義の教材は種類こそ少ないが一冊ずつの重さがある。

 それなりに重い教材を自宅から毎週運んでくるのは骨が折れるので、ほとんどの学生が大学に置きっぱなしにしている。所属しているサークルの部室だったり、研究室だったり、それぞれ自分だけのスペースがあるところで保管していた。

 和哉も亜弥も、多くの学生と同じように多くの教材を大学に置いていて、自宅に持ち帰るのは課題が出た時くらいだ。

 デスクに教材を出し終えた亜弥が、不意にくるりと上半身を後ろに回してきた。

「お…お前、急にこっち向くなよ……」

「あ、ごめーん」

 全く心が込もっていない。嫌そうな顔をする和哉を無視して亜弥は続けた。


「この間言い忘れてたんだけどさ」

「……うん」

 和哉が大人しく話を聞こうとするのに満足したのか、にまっと笑って、亜弥は言った。




「あのカフェのことが書いてあるネット記事、見つけたの」




「―――――――――えっ?」



 ネット記事を、見つけた?



 一瞬、亜弥が何を言っているのか理解できなかった。

 

 ネットの記事だって?

 そんなはずはない。

 カフェのことは、決してネット上には出回らないはずだ。


「え……ネット、って。それ、いつ……?」


 カフェの情報がSNSで流れる事が何より嫌いだという、店長のチェックを潜り抜けた記事が存在しているなんて、にわかには信じられなかった。一度載せた記事をわざわざ消すくらいなのに。

「えーっとぉ…カフェに行く日の前の日…いや、もう一日前かな。うん、そうだわ。和哉抜きでカフェに行った日の一昨日に見た。カフェの場所とか、メニューとか、そんなことが書いてあったと思う」

「………………本当か?」

「ほんとほんと! たまたま見つけてあんまりビックリしたもんだからさ、ブックマークしといたのよ。今その記事出すからちょっと待って」

 亜弥は鞄を漁り、スマートフォンを取り出す。

「ちょっと待ってよぉ………あ、うん? あれ? ページが、ない? ええ! なんで⁉」

「なんだ、どうした」

「ブックマークしてたページが消えちゃったの。『このページは存在しません』って出てきた。えー、なんでぇ⁉」

 どうやら既に削除されていたらしい。

 絶対に存在しないはずのものが存在していたと聞いて、これ以上にないほど期待値が上がっていたことに、改めて気が付いた。

「…………見てみたかった…」

 亜弥が、今度は心を込めて「ごめーん‼」と顔の前で合わせているのを見ながら、和哉はため息をついた。

 別に亜弥が悪いわけではない。仕方のないことだ。

 恐らく店長に見つかったのだろう。それで早々に削除されたのだ。あの店長、見かけによらずやることが早い。

 まだ少し落ち込んでいる亜弥を見かねて、和哉は話を振った。

 避けたい話題だったが仕方ない。他にこれと言った話題が見つからなかった。

「まぁ、また見つかるかもしんないし、あんま落ち込むなよ。それよりさ、この間はちゃんと食えたのか?」

「……あ! うん! 食べた食べた! 美味しかったー!」

 亜弥がぱっと表情を変えた。どうやら気持ちを切り替えることができたらしい。

「あ、そういえばあの日はね、カフェに行く途中に裕子に会ったのよ」

「裕子…って、お前の友達の?」

「そうそう! たまたま会ってね、そのまま一緒にご飯食べたの」

「ふーん」

 裕子と言えば、最初に亜弥に『特別な食材』の仕入れ情報を教えた友人だ。

 その情報の速さから、カフェの常連であることはすぐに分かった。

「じゃあ人数はいつもと変わらず、五人だったわけだ」

「そーゆーことー。でもねー、ちょっと心配なことがあってね」

「? なに?」

「裕子がね、店内が映った状態の料理の写真撮っちゃったのさ」

「……えっ、それは…」

 まずいんじゃないだろうか。

 あのカフェの店長はSNSを嫌っている。文字による情報も禁止だし、もちろん写真などもっての外だ。その裕子が撮ったという写真が完全に個人利用の範囲に収まるなら、もしかしたら見逃してもらえるかもしれないが、個人利用になる可能性の方が低いだろう。最近では、スマートフォンなどで撮られた風景や食べ物の写真は、まずSNS上に流れると言っていい。そういうアプリもあるのだ。

 裕子がその写真を友人に見せて自慢する、くらいに留めてくれるといいのだが。

「その、裕子、って友達に、ちゃんと言っといたのか? ダメだって」

「一応ねー。常連みたいだからさ、その辺は分かってると思うんだけど…。でもどうかなぁ、あの子メールとかはあんまり見ないけど、よく写真は載せてるからなぁ」

「常連ならルールの一つくらい守れ、って言っとけ。カフェ出禁になってもしらねーぞ、ってさ」

「え、出禁になんの?」

「や、知らねーけど」

 少なくとも、裕子が写真を流していたことがバレたら、それなりに怒られるだろう。

「んー、とりあえず、なんかヤバそうだったら、もうちょっとちゃんと言っとくわ」

 亜弥は心配そうな顔で頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る