第二章 ✲✲✲ 3 ✲✲✲

「あ、いらっしゃいませ!」

「―――――っ⁉」


 翌週の水曜日の、夜。

 いつもより遅い時間にカフェを訪れた和哉が、ドアを開けて店内に入ると、いつも通りの笑顔と挨拶で店長が出迎えた。


 真っ赤に染まった、エプロン姿で。


「え……えッ…⁉」

「? どうかなさいましたか?」

 店長は驚きのあまり固まっている和哉に、「何か変なものでもあるのか?」という顔をして周りをきょろきょろと見まわした。

 そしてしばしの間を置いた後、和哉の様子の原因に思い至ったらしく、「あっ」と、身に着けている真っ赤なエプロンを指でつまんだ。

「すみません、これ…ですよね。失礼いたしまいた。すぐに着替えてきますね」

 そう言って店長はカウンターの奥の更に奥、厨房に消えて行った。

「…………ッ!」

 一方、和哉は先ほどの驚愕から戻って来られないでいた。

 ドキドキと早鐘を打つ心臓を、なんとか鎮めようと深呼吸を繰り返す。

 カフェに入った瞬間、目に入ってきた、赤。

 正しく、スカーレットと言うに相応しい、鮮血の色。

 店に入った瞬間にこれを見て驚かない者は、恐らくいない。

「…………?」

 ふと、気が付いた。

 深呼吸で大きく息を吸い込んだ時、あまり馴染みのない匂いがした。

 金属を焼いたような、焦げたような臭いと、花のような、甘さの中に少し癖のある香り。

 花に詳しくない和哉には、それが何の花なのか全く見当がつかない。



 ―なんだ、この匂い…?



「あのぉ……」

「―――――っ⁉」

 和哉がその匂いに気を取られている間に、いつの間にか着替えを終えた店長が戻ってきていた。

 再び飛び上がる和哉に、店長は「あらあら…」と呟く。

「先ほどは失礼いたしました、驚かせてしまいましたね」

 着替える前と変わらぬ笑顔で戻ってきた店長は、和哉を空いているカウンター席へ座るよう促した。

 カフェに入った時の衝撃と今しがたの驚きからますます戻って来られない和哉は、恐る恐る店長に問う。

「あ、あの…さっきのは……?」

「実はですね、今日、『特別な食材』が入荷したんです。それで、新鮮なうちに、さばいておこうと思って…。それで作業していたんですが、ちょっと切るところを間違えてしまって、結構派手に飛び散っちゃって」

 少し恥ずかしそうに「失敗しちゃいました」と店長は笑って言った。

「そうなんですか、なんかすげぇびっくりした…。てか、あれ…『特別な食材』入ったんですか? 前に聞いたときは、まだ先になりそう、って言ってたけど…」

「そうなんですよ。あの時はまだ、入荷しそうな感じはなかったんですけどね。急遽、仕入れることができたんです!」

「へぇ、そんなこともあるんだ…。てか、すごいですね。さばけるなんて」

 料理好きの友人なら魚を丸々一尾さばける奴もいる。主婦や料理人も、そう苦労せずに出来るだろう。

 だが『肉』となると、話は変わってくる。

 豚や鳥をさばける者ももちろんいるだろうが、一般的にはそう多くはないだろう。

 業者でも、機械でさばくことがあるのだ。

 それを、女性が、どう見ても力の弱そうな細腕の女性が、ひとりで。

 正直、実際にやっている姿が全く想像できない。

 もしかしたら『特別な食材』は、思っていたよりも小さいのかもしれない。

「結構練習したんですよ! でも、はじめの頃はなかなか上手くいかなくて、切断面がガリガリになってしまったり…。とてもお客様にお出しできる状態では無くて」

「誰かに教わったんですか?」

「そうですよ。このカフェをオープンする前に、私の師匠に」

「師匠? 師匠がいるんですか? その師匠も飲食店を?」

「ええ! ものすごい腕の良い料理人なんですよ! 私の作るご飯なんて、足元にも及ばないくらい美味しいんですから!」

 自分の師の話をする店長はとても楽しそうだった。これまでで一番声が弾んでいる。きっと本当に尊敬していて大好きなのだろう。

 そんな師弟の関係が、和哉にはなんだか羨ましく思えた。

 自分の師が如何に凄腕の料理人なのか、あれこれと話していた店長が、急にピタリと話すのを止めた。

「あ、すみません。メニューもお出しせずに、私、話してばっかりで」

 急に話を止めて一体どうしたのかと思ったが、どうやらメニューや水など何も出していなかったことに、気が付いたらしい。

 店長は慌ててメニュー表を差し出してきた。

「や、大丈夫ですよ。それより、今日入った『特別な食材』は…」

 和哉がメニュー表受け取りつつ、店長に問うと―


「もちろん、ご注文いただけますよ!」


 満面の笑みで、答えた。




「おまたせいたしました! 『特別な食材』のステーキです!」

 和哉の前に、分厚くカットされたステーキが置かれた。

 以前に亜弥たちが食べたステーキと同じものだ。

「今日は入荷したばっかりですから、特別に! 柔らかくて美味しい部位にしましたよ!」

「あ、ありがとうございます」

 いつもとは違う、やけにテンションの高い店長に軽く驚きつつ、和哉は目に置かれた肉を見る。

 正直、前に見たステーキとあまり見分けがつかないのだが、店長が美味しいというのだから、きっとそうなのだろう。

 どちらにせよ美味しいことに変わりはないなら、何も言うことはない。

「いただきます」

 ナイフとフォークで肉を一口サイズにカットして、口に運ぶ。

「! 柔らか…!」

 店長の言葉通り、肉はとても柔らかかった。

 ナイフで切った時に肉が柔らかいことはすぐに分かったが、口に入れるとその柔らかさが更に感じられた。

 塩と胡椒だけで味付けされた肉のうま味が、口の中一杯に広がる。

 臭みもなく、食べやすい。が、やはり食べたことのない味だった。

「うまっ…」

 本当に、なんの肉を使っているのだろうか。

 きっと店長は何度聞いても「秘密です!」と言って教えてくれないだろう。

 このカフェに通うようになってから、店長にそれとなく『特別な食材』について聞いてみても、いつも教えてもらえなかった。

 しかし、教えてくれないことばかりではない。

 『特別な食材』はこの『満腹カフェ』と、彼女の師匠が営む飲食店以外には、限られた店でしか取り扱いがないらしい。

 もしかしたら『特別な食材』は、かなり希少価値の高いものなのかもしれない。

 そうだとすれば、そう簡単に誰かに教えたくないのも分からなくもない。

 『特別な食材』の正体が広まって、更に入荷が減るかもしれないのだ。

 そう簡単に、口外したくはないだろう。

 入荷日未定の、看板商品のようなものなのだ。

 

 ―そのうち、教えてくれるといいなぁ…。


「…………ッ」

 自分が考えたことに、愕然とした。

 なにが「そのうち」だ。

 まるで、これから先も彼女と一緒にいるつもりかのような、そんなことを。

「…………」

 急に恥ずかしさを感じて、それ以上考えることを止めた。

 既に鉄板の上は、ほんの少しの付け合わせだけになっていた。

 それも全て食べきって、和哉は水を飲む。

「………」

 水を飲むとき、こっそりと店長の方を見た。

 店長はカウンター越しの和哉に近い位置に座って、レシピ本を見ていた。

 本来なら店内に客がいるときに本など読むことはないが、店長と話をするようになってしばらく、和哉以外に客がいないときはこうしてのんびりしていることが多くなった。

 所謂、友人、というやつになったのかもしれない。

 そんなことにさえ、和哉はささやかな優越感と幸福感を感じている。

 他の客の前では見せない、彼女の姿。

 それを自分だけが見られるという事に、微かな喜びを確かに感じていた。

「……ごちそうさまでした」

「はーい、お粗末様でした」

 最近ではこうして、返事をしてくれたりもする。

 店長は見ていたレシピ本を置き、和哉の前の鉄板を下げ、代わりに温かい茶を出した。

 ここからは、今や恒例となった雑談タイムだ。

「いやぁ、でもほんと、びっくりしたなぁ。店に入った途端目に入ったのが、まさかの赤! …なんて」

「すみませんでした、まさかあのタイミングで来店されるなんて」

「や、店長が悪いわけじゃないですから」

「ふふ、でも本当、すごいタイミングでしたね。和哉さんが来店されるほんの少し前に入荷したんですよ」

「お陰で、一番良いトコのステーキ食わしてもらいました」

 和哉は笑って「ラッキーでした」と言った。

「明日には『特別な食材』の看板を出します。一番美味しいトコは、和哉さんがもう食べちゃいましたけどね」

 明日には看板で宣伝が出る。

 そうなれば、また人から人へと伝わり、カフェには『特別な食材』を求めて多くの客が訪れるだろう。

 もしかしたら、また友人から亜弥にも伝わるかもしれない。

 もしまた亜弥に誘われたら、適当な理由をつけて断ろう。和哉はそう思っていた。

 一緒に来たくないわけではないが、既にこうして一足先に『特別な食材』にありついて、店長とも色々話すことが出来て、その翌日か翌々日に再び店長に会う、というのが何だか恥ずかしかったのだ。

 亜弥たちには悪いが、今回行くなら自分抜きで行ってもらおう。

 和哉がこれから数日に起きるであろうことの対策を考えていると、「でも…」と小さい声が聞こえた。

 店長だ。

「お客様が沢山いらして下さるのは嬉しいですけど、忙しくなっちゃいますね」

 店長は小さい声で、少し俯きながら言う。

「……え? ああ、そうですね」

 忙しくなるのは良くないのだろうか。

 繁盛すれば、売上も上がると思うのだが…。

 和哉の反応がお気に召さなかったのか、店長は少し拗ねたような声で言った。

「お喋り…出来ませんね」

「――――あ…」

 

 まさか。

 まさか店長がそんなことを考えていてくれていたなんて、思ってもみなかった。

 無性に、嬉しかった。彼女も自分としゃべりたいと思ってくれていたのだ。


「あ、あの…また落ち着いた頃に、来ますよ」


 店長は和哉の言葉に、パッと顔を上げて。


「お待ちしてますね!」


 嬉しそうに、そう言った。

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