第二章 ✲✲✲ 1 ✲✲✲

 一週間ほど経った水曜日の、午後七時過ぎ。

 和哉は『満腹カフェ』に導いてくれる木の下にいた。

 本当に不思議な木だと、改めて思った。

 他の木にはそんな様子はないのに、この木だけはカフェの方向に傾いている。

 まるで『満腹カフェ』から漂う匂いと灯りに、引き寄せられているようだ。

「わかりやすくていいけど、ちょっと不思議というか、不気味な感じもするよな…」

 この木を見つけることができればその先、カフェまでの道で迷うことはない。

 しかしまっすぐ伸びる木々の中で、この木は少し異様だった。

 そんな気味の悪さを感じつつも、カフェに向かうのをやめるつもりはない。


 ―たかが、木だ。何もない。


 和哉は木が傾く方へ歩き出した。

 相変わらず、森は薄暗い。何も見えないし、何かが見えてくる気配もない。

 前に亜弥達と来た時も、何も見えていなかった。

 それでもひたすら真っ直ぐに進む。

 進んで、進んで、ほんの少し香ばしい匂いがしてきた気がして。

 その次には灯りだけが現れて。

 そうしてまた、ふと―


「あった」


『満腹カフェ』にたどり着いた。

 小屋を包み込むように、そしてその周りの木にも巻き込むように広がる、オレンジの灯り。

 近くで見ると、こんなに暖かく感じられるのに、森の奥にはその温かさは届かない。

 オレンジ色の灯りは、森の中では見えにくいのだろうか? だからカフェの近くぎりぎりまで来ないと見えないのかも…。

 ぼんやりそう考えながら、小屋に近寄る。

 そばにある看板にはカフェの名前が書かれているだけで、前に見た『特別な食材』のことは書いてなかった。

 やはり先日の入荷分は既に売り切れているようだ。

 和哉はカフェのドアを開けた。


「あ、いらっしゃいませ」

 店内に入ってすぐ、店長の声が聞こえた。カウンターの奥で茶を入れていたらしい。

 店内には和哉以外に客がいて、それぞれ既に食事をしていた。

 テーブル席に若い男女が一組とカウンターに男が一人。

 店長が先ほど入れていた茶をカウンター席の男性客に出すと、入り口にいる和哉のもとに来て言った。

「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」

 店長はにこりと笑い、カウンターの奥へと戻っていった。

 和哉は、既に座っている男性客の隣を避けて、空いているカウンター席に座った。

 キラキラした店内が、相変わらず可愛らしい。

 少し店内を見回してから、目の前にあるメニュー表を取った。

 何にしようか少し悩んで、店長を呼ぶ。

「お決まりですか?」

 店長はカウンター越しに、注文を聞く。

「あの…今日のおすすめとかって、ありますか?」

「おすすめ、ですか?」

 店長は顎に人差し指を当てて「うーん」と唸る。やがて思いついたように、あごに添えていた人差し指をパッと離し、言った。

「そうですね、今日は良いお野菜が入ってますから、ポトフはいかがでしょう。お野菜、お好きですか?」

「あ、はい好きです。じゃあ、それでお願いします」

 店長は嬉しそうににっこりと笑った。

「少々お待ちくださいね」

 店長が厨房に入るのを見送り、和哉は注文時に出されていた水を飲む。

『特別な食材』以外にも、おすすめとなる料理はあるようだ。

 その日によって仕入れ状況が違うのだろう。いつも同じ業者から食材を調達しているわけではないのかもしれない。

 注文を終えてしばし暇になった和哉は、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動した。

 このカフェが森のどの辺りにあるのか、ずっと気になっていた。

 他にも行き方があるかもしれない。あんな目印に頼って行かなくても、もっとわかりやすい道が。

 森の中では電波を受信しなかったが、カフェの中なら繋がるかもしれない、と、そう思ったのだが。

「…っと、やっぱダメか」

 電波は受信できなかった。

 このカフェが森のどの辺りにあるのかは、またしても分からなかった。

「隠れた名店、ってやつか…」

 和哉はスマートフォンをしまった。


「お待たせいたしました」

 することもなく、ぼんやり待っていた和哉のもとに、料理が運ばれてきた。

 目の前に置かれたポトフから湯気ととも、に優しい匂いが立ち上る。

「ごゆっくりどうぞ」

 店長は頭を下げてからカウンターの奥に戻った。

「うわぁ…美味そう……」

 丸く深い器の中には、しっかりと煮込まれた野菜がスープと共にたっぷり盛られている。

 しんなりとスープが染み込んだキャベツ、ホクホクになったジャガイモ、柔らかそうな人参にタマネギ。サイコロ状になった肉も入っていた。

「いただきます」

 ポトフと一緒に置かれたスプーンで、キャベツを一口大にカットして口に運ぶ。

 優しいスープとキャベツの甘さが、身に沁みていく気がした。

「ああ……美味ぇ………」

 前に食べたハンバーグはガッツリとした食べ応えとしっかりとした味だったが、このポトフはとても柔らかい味をしていた。

 サイコロ上にカットされた肉も食べてみた。見た目で何となく想像はついていたが、やはり馴染みのある肉の味がした。

「これは豚肉、か…」

『特別な食材』ではない。が、十分に美味しかった。

「……………」

 どの野菜も肉も美味しかったが、一番はスープだった。コンソメがベースになっているのだろうが、それとは何か別の味がする。魚介でもない。食べたことのない味。

 何を食べてもハズレが無い。そう思い、黙々と食べ進めた。


 ポトフを八割ほど食べきった頃。

 和哉が何となしに店内を見渡した時、店内には和哉以外の客がいなくなっていた。

 そんなに無心になる程夢中で食べていたのだろうか。

 和哉はほんの少し恥ずかしさを覚えつつ、あまりきょろきょろしない様に、目だけで店長を探した。

 話しかけるなら誰もいない時がいいとは思っていたのだが、思いの外そのタイミングが早くに訪れてしまった。

 店長はカウンターの奥で座って茶を飲んでいた。

 客が和哉だけとなり、しばし休憩していたらしい。

 和哉は一瞬躊躇ったが、せっかくのチャンスを不意にしまいと、思い切って声をかけた。

「あの…すいません」

 和哉の声に反応して、店長がパッと顔を上げた。

「はい、何でしょう?」

 店長がカウンター越しに和哉の前まで来る。

「あの、ちょっと聞きたいんですけど…。このカフェいつからやってるんですか?」

「えっ…、このカフェですか。えっとー…」

 言って店長は、自分のもといたところまで戻った。どうしたのかと思ったが、どうやら飲んでいた茶を取りにったらしい。マグカップを持ってすぐに和也の前に戻ってきた。

「そうですねぇ…、二年くらい前からでしょうか」

「え、もうそんなに?」

「あ、もっと最近だと思ってましたか? 実はこっそりやってたんですよ」

 驚いた。

 ここしばらくの内にオープンしたものとばかり思っていた。というのも、ついこの間亜弥からこのカフェのことを聞くまで、一度も話を聞いたことが無かったからだ。

 二年前、と言うと、和哉が大学に入学した頃だが、亜弥たちは以前から知っていたのだろうか。

「あの…全然知らなかったです。情報とか何も…。何でだろ」

 インターネットが普及している今の時代、こんなに美味しい料理を出すカフェなら、ネット上にいくらでも情報が転がっていそうなのに。メディアでも見たり聞いたりしたことがない。

「それはですね、私がお客様にお願いしていたんです。えすえぬえす…って言うんですか? ネットにカフェの情報は流さないで、って。そうゆうの、あまり好きではないんです。伝わるなら、人から人へ、直接っていうのが、なんかいいなぁって」

 店長のSNS嫌いが原因だったようだ。それなら、今まで情報が全く入ってこなかったのも、分からなくもない。

「あ、じゃあ…何で今になって、大学内でよく聞くんだろ…」

「ああ、それは……」

 店長は少し苦い顔をして言った。

「多分、お客様が大学で個々のことをお知りになる少し前くらいに、カフェのことをネット上に書いちゃったお客様がいたんです。えすえぬえす、というやつに」

「えっ、それまずいんじゃ…」

「ええ、すぐに消しました。でも消すまでの少しの時間で、見てしまった方はいたようで」

「ここ最近、新しいお客様が少し多いんですよね」と、店長は喜ぶべきか、ルールを破られたことを怒るべきか、微妙な顔で笑った。

 おそらく亜弥の情報は友人から得たものだ。ネット上の情報なら、そのページを和哉たちに見せるなり話すなりしただろう。その友人が以前からこのカフェの存在を知っていたのか、それとも短時間だけ存在したネット上のページを見て知ったのかはわからないが。

「ネットに情報を載せちゃった人、どんな人だったんですか?」

「たぶん学生さんだと思います。女性だったんですけど、年齢的に二十歳を超えていそうでしたし、平日なのに私服でしたから」

「そうですか。大学生なら、うちの大学かな」

「あ、やっぱりお客様も大学生なんですね」

「あ、はい」

 店長は一口、茶を飲んだ。

「前にお友達といらしてましたよね。食べっぷりからして、きっと学生さんかなって思ってたんです」

「……憶えてるんですか、客の顔」

 正直この可愛らしい見た目からはあまり想像できないが、相当記憶力がいいのかもしれない。

 和哉の驚いた顔を見て、店長が慌てて言った。

「………あっ! そんな全員は憶えていませんよ! でもこのカフェに来るお客様って、ほとんど固定ですから。始めていらしたお客様は印象に残るんです」


 ―そう言われてみれば、そうか。


 直接人から人へしか、その存在が伝わらないカフェ。自然と客は固定になるのかもしれない。そんな中に新しい顔があれば嫌でも気になるというものだ。

 一瞬、自分を憶えててくれたのかと、そう思ったのだが。


 ―少しでも浮ついてしまった自分が恥ずかしい…。


 和哉はその恥ずかしさがバレない様に、残っていたポトフを腹の中にかっ込んだ。




「………では、こちらお釣りです。ありがとうございました」

 もう少し店長との会話を続けたい気持ちもあったが、ポトフを食べ終えてしまったので今日のところは帰ることにした。

 話しかけるまでは緊張しかなかったが、話し始めてしまえば思いのほか会話が続いた。それでも、今日初めて会話らしい会話をしたのだ。最初からあれこれ話しすぎるのも、迷惑になりかねない。

 それに、二度とこのカフェに来ない、というわけでもない。

 また今度ゆっくり話せばいいと思って、後ろ髪を引かれつつも話を切り上げた。

「もう暗いですから、気を付けてお帰りくださいね」

 初めて来たときと同じように、店長が店先まで見送る。

「じゃあ、ごちそうさまでした」

「はい、またいらしてください」

 店長はにこりと笑うと、深く頭を下げた。

「あの…、もう一つだけ聞いてもいいですか」

 和哉が言うと、店長は下げていた頭を上げて和哉を見た。

 本当は、もっと早く聞きたかった事。

 いつ聞こうかと迷いに迷っていたら、結局店内にいる間に聞けなかった。

 次に来た時でもいいかと思ったが、やはり聞いておきたい。

「はい、なんでしょう」

「あの、『特別な食材』のことなんですけど」

「…はい」

「あれって、なんの肉なんですか?」

「ああ、あれは……」

 店長は少し、間をおいて―


 今日一番の、とびきりの笑顔で、言った。


「企業秘密、ですよ」

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