第一章 ✲✲✲ 5 ✲✲✲

「一限から講義ってのは、やっぱだりぃ…」

 翌週の月曜日の朝、和哉は大あくびをしながら、大学へ向かう通勤ラッシュの電車の中で、ぼそりと呟いた。

 和哉の自宅の最寄り駅から大学の最寄り駅までは、乗り換えを含めても四十分ほど。近くはないが、特別遠すぎることもない。一時間以上かけて通っている学生に比べれば楽なものだ。

 しかく、それとこれとは別。朝の通勤通学ラッシュの辛さは、異常だ。

 仕事へ向かうサラリーマンやOL、高校生に大学生、中には小学生らしき小さな子供までもが、電車内にぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

 乗客のほとんどは自分の鞄を胸に抱いてじっとしているが、中にはこの混雑の中でスマートフォンを弄ったり、座席で新聞を広げる中年のサラリーマンがいたり、女子高生の集団などは朝からキャンキャンと高い声でしゃべり続けている。

「元気なこった…」

 和哉はこのラッシュの車内の中、鞄を抱いてじっとしているうちの一人だ。

 変に動けば女性に痴漢に間違われるし、周辺の人間から迷惑そうな視線を受けるのも嫌だった。

「やっぱ一限に講義とるべきじゃなかったなぁ」

 ぎゅうぎゅう詰めの中、大学の最寄り駅までの「何もできない時間」は、ほとんど考え事に費やすのが主だ。

 その日受ける講義のこと、昨日友人と話したこと、その日によって考えることは違うが、いたって平凡で日常的なことばかりだった。

 今日考えているのは、昨日、友人たちと行ったカフェのことだ。

 まるで別世界に入り込んだかのような、キラキラとして可愛らしくも居心地のいい店内。

 小さいカフェといえども、ある程度揃ったメニュー、雑用から調理まですべてを一人でこなしていた、あの店長。

 忙しそうにしていたのに、ずっと笑顔で働いていたのを思い出した。

「すごいよなぁ、若そうなのに」

 年齢はいくつくらいなのだろうか。

 自分と近いのか、それとも実はかなり年上なのだろうか。もしかしたら年下かもしれない。

 店内の装飾は店長の趣味なのだろうか。

「……」

 もう一度料理を食べたい、という理由だけでカフェのことが気になっているのだとばかり思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。

「ちょくちょく…行ってみようかな」

 和哉や今、一人暮らしだ。どうせ家に帰っても、温かい食事は出てこない。

 それならば、味のいい食事処として頭の隅に置いて通うくらいはいいだろう。

「…バイト代、貯めとこ」

 前から欲しかった新しいカメラを一つ我慢するくらい、どうってことはない。



「はよっす」

 和哉が一限目の講義室に入った時、既に亜弥と智晴が席に着いていた。

 二人とは被っている選択科目が多いから、こうして朝から会う日もあった。

「おはよー」

「おす」

 和哉が来るまでのあいだ、どうやら二人も昨日のカフェのことを話していたようだった。

 食に関する感動は、人間の記憶や感触として長く残るものらしい。

「和哉、俺はあの店のメニューを制覇することに決めた」

「トモ、昨日のハンバーグかなり気に入ったみたいでさー」

 食べることが好きな智晴はまず間違いなくあの店に通うだろうと思っていたから、そのことを聞いても、和哉にとっては大した驚きではなかった。

 それよりも―


「あそこの料理、ほんと美味かったもんな。頑張って制覇して来い。んで、何が美味かったか教えてくれ」


 自分もあの店に通おうとしている事、それがバレない事の方が重要だった。

 あの店に再び足を運ぶことを、友人に知られたくないと、何故だかそう思った。

 和哉はほんの少しの後ろめたさを感じながら、講義の担当教授が来るまで、二人とカフェの話で盛り上がった。



 午前の受講講義が全て終わり、和哉は一人、学生で混み合う昼休みの食堂へ向かった。亜弥と智晴とは、一限の講義が終わった時点で別れていた。

 学食内を見回してみるが、どうやらいつものメンバーはまだ来ていないらしい。

 先に券売機で食券を買い、受取列に並んだ。

 特に考えることもなく、ぼんやりと順番を待っていると、ふと―


「ねぇ、森のカフェのやつ、聞いた?」


 名前も知らない女子学生がその後ろに並ぶ友人と話している声が聞こえた。

「森のカフェって、あの公園の奥の? なになに?」

「食材が入荷したんだって。あの、『特別』の」

「ええ! そうなの? それいつ?」

「んー、私が聞いたのは昨日だけど…。聞いた感じ、もう既に入荷してから何日か経ってるっぽい」

「え、マジ? それじゃあもう無いかもねー」

「ええーマジで? ショックぅ、食べたかったのに」

「あれ、無くなんの早いんだよね。いつもあっという間に売り切れちゃってさ」

 残念そうに肩を落とす女子学生たち。

 二人の会話をこっそり聞くような形になってしまったが、和哉はつい顔がにやけそうになった。


 ―悪いな、それ食べたの、俺たちなんだ。


 なんとも言えないこの優越感。亜弥には本当に感謝しなければならないかもしれない。

 この大学でもそこそこ有名らしいカフェの仕入状況を、いち早く得た者だけが食べられる『特別』料理。それが食べられたのは、本当に幸運なのだろう。

 和哉は心の中で、「次はもっと頑張れ」などと、何を頑張るのかよくわからないながらも声援を送っておいた。

「でもさ、『特別な食材』って結局なんなの?」

「よく食べる、牛とか豚、鳥じゃないのは確かじゃん。つったら他に何がある?」

「ワニの肉食べるとこもあるらしいよ。あと、カエルとか?」

「うええ! カエルは嫌かも…」


 そうだ、肉のこと…。


 カフェで食べたあの肉、今まで食べたどの肉とも違っていた。

 後ろに並んでいる女子学生が言うように、カエルの肉やワニの肉、和也の二十数年間の人生の中で、食べたことのないものは色々ある。しかしあのカフェで食べた肉が、世間に知られている肉のどれとも違うような気がしていた。

 誰も想像できないような、未知の食材。

 その『想像できないような食材』のことなど、平凡な頭しかない自分には分かるはずもないのだが。

 正体の知らないものを口にすることへの抵抗がないわけではなかったが、あの味を知ってしまった今、そんなものは些細なこと。

 次はいつ食べられるのか、何の料理で食べようか、そんなことしか考えられない。

 人生最大級の美味を知ってしまった。

 もうなかったことにはできない。





 なかったことには、できないのだ。

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