第一章 ✲✲✲ 3 ✲✲✲
「よしよし、全員来たな」
五限の講義が終わり、全員が校門に集合した。
あたりは薄暗く、バスで下校する生徒たちが校門前のバス停に列を作っている。並んでいる学生のほとんどが、寒そうに手をコートのポケットに突っ込んだり、両手を合わせて擦っていた。
「じゃあ、早速行こうねー。あたし、お腹空いたよ」
亜弥と香織を先頭に、五人はカフェへと歩き出した。
「その森のカフェってどこにあんの?」
歩きながら淳平が聞く。歩いて向かおうとしているくらいだから、それほど遠くはないはずだ。二十分…長くて三十分くらいだとありがたいのだが。
「大学の近くに、ちょっと大きめな森があるでしょ。公園にくっついてるやつ。あの森の中にあるの。大学から迷わず歩けば三十分はかからないよ」
―おおよそ思った通りの時間か。
和哉はホッとした。正直なところ、あまり遠いのは面倒くさい。
迷わずまっすぐ行って三十分かからないなら、亜弥と香織がいれば大丈夫だろう。
大学近くの公園に入り、遊具を無視して、森のある方へ向かう。公園と森との間にはフェンスが設置されているが、横一列に並べられたフェンスに壊れている個所が一部あった。どうやら、ここが森への入口らしい。
「これ、入っていいやつ?」
「大丈夫だよ、みんな入ってるから」
―どこからどう見ても、立入禁止区域だ。
普通フェンスがあるその先には入ってはいけない。そもそも入ってはいけないからフェンスがあるのだ。たとえ『立入禁止』の看板がなかったとしても。
「いいから、いいから。みんなついてきて」
亜弥と香織は慣れたようにフェンスの中に入った。
「で、ここからが重要ね。香織、このまま真っ直ぐ行った切り株で左に曲がるのよね」
「え、左だっけ。右じゃなかった?」
「え?」
「え?」
「…………おい」
―三十分じゃたどり着けないかもしれない。
「……ちゃんとたどり着けるんだろうな?」
フェンスの中に入って既に二十分を超えた。いまだ目的地が見えてくる様子もない。
「道は間違ってないはずなんだけど」
「うーん…」
「一度戻った方がいいんじゃないか?」
結局最初の切り株では右に進んだ。一番最近カフェに行ったという香織の記憶を採用したのだ。そこからは進路を変更せずに真っ直ぐに進んできた。戻ろうと思えば戻れないこともない。
「電波も圏外になってるし、調べることも出来ねぇな」
和哉はスマートフォンを取り出した。フェンスを越えて少し行ったあたりから、なぜか圏外になってしまった。これではカフェの場所も調べることができない。
「先に調べておくべきだったなぁ…」
そう後悔しても後の祭り。こうなったら、とても不本意だが、亜弥と香織の記憶を信じるしかない。
「あ、亜弥ちゃん。あの木…」
「んん…? あっ、あれだ! 最後のポイント!」
亜弥と香織が急に走り出した。和哉たちも追い掛け、亜弥と香織がじっと見上げている一本の木を同じように見上げた。この木が目印のようだが、何で見分けているのか分からない。
「この木がポイントって…。目印は何だ?」
淳平が問う。
「ちょっとわかりにくいんだけど、この木だけほかの木に比べて斜めってると思わない?」
和哉はその木から少し離れて全体を見てみた。
なるほど、確かにほかの木に比べて左に傾いているように見える。
「で、この木をどっちに行くんだ?」
「この木の傾いている方に行くの。つまりは左ね」
二つしかないうちの最後のポイントは随分と親切なようだ。
目印の木を左に曲がり、そのまま真っ直ぐに進んだ。
森の中には灯りなど当然無いから、足元も真っ暗だ。ついさっき、そういえばと思い出して点灯したスマートフォンのライトが無ければ、かなり慎重になって進まなければならなかっただろう。
そうやって、全員で足元を照らしながら歩く。
―――ふと。
どこからか香ばしい匂いがした。
「お、近づいてきた…かも?」
その匂いにつられるように、全員の足が少し早くなる。
目的地はすぐそばかもしれない。
「あ、灯り…」
ずっと同じ方向を見ていたはずなのに、灯りが
その灯りは、近づいていくにつれてだんだん大きく、広くなっていく。
そしてその灯りが大きくなっていった最後、現れたのは小さな小屋だった。
ログハウスのような作りで、屋根は暖かい朱色。扉は焦げ茶色で、森の中によく馴染む、落ち着いた色調だった。
その小屋のそばには、イーゼルに立て掛けられた看板があった。
【満腹カフェ~あなたの空腹を満たします】
看板には、その小屋がカフェであること、そしてある一言が書かれていた。
【特別な食材 入荷しております】
亜弥が言っていた通り『特別な食材』が入荷しているようだった。その『特別な食材』についての詳細は、何も書かれていないが。
「やったぁ! ついに『特別な食材』の料理が食べられる!」
「やったね亜弥ちゃん!」
なんだかよくわからない男子を他所に、女子は興奮しているようだ。
男二人の友人が、今何を考えているかは分からないが、和哉は一人驚いていた。
このカフェが急に、本当に
そんなはずはないと否定する頭と、今実際に目で見た状況が、どうしても噛み合わない。
自分の勘違いだったのだろうか? 二人はどう感じただろう?
和哉が一人悩んでいると、亜弥が小屋の扉に手を掛けながら言った。
「早く早く!『特別な食材』の料理は数量限定なんだから!」
目で見た異常と、頭に植え付けられている常識が、互いに喧嘩しあって混乱していたが、亜弥と香織の騒ぐ声で思考を止めた。
とにかくカフェには着いたのだ。さっきからいい香りがしてくるせいで、いつもよりも腹が空いている気がする。あれこれ考えるよりも、まずは食事だ。
既に扉を開けて中に入っていく友人に続いて、和哉もカフェに入った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
和哉たちが中に入ると、店の奥から女性の声がした。高すぎず低すぎない、透き通った声は、まるで色とりどりの飴玉がコロコロと転がるような、そんな明るく心地よい声だった。
「テーブル席でいいよね」
亜弥が店内で一番大きいテーブル席に座った。
外からの見た目通り、店内はそれほど広くない。テーブル席が二つにカウンター席が五つ並んだだけのこぢんまりとした店内だった。
部屋の中を照らすオレンジ色の電球が、壁を這うように通された紐から吊るされたガラス瓶や動物の形を模した飾りに反射して、キラキラと輝いていた。
天井からは色とりどりの小さな石が吊るされ、それもまた輝き、まるで別世界の、魔法使いが住んでいるような空間に、知れず心が躍った。
「こんばんは。このような森の中まで、ようこそいらっしゃいました」
店内に入った時と同じ、軽やかな声が近くで聞こえた。
和哉が顔を上げると、人数分の水をお盆に乗せた女性がいた。
「お冷です。どうぞ」
女性はにっこりと笑いながら水の入ったグラスをテーブルに置いた。
「ご注文はこちらのメニューからお選びくださいね」
女性はメニュー表を和哉に渡し、店内の奥へ戻っていった。
「和哉! メニュー広げて」
和哉は渡されたメニューをテーブルの中央に置いた。
「お、すげぇな。結構色々ある」
「でしょお。バリエーション豊かなんだからぁ」
「なんでお前が威張んの」
智晴が呆れたような視線を香織に向けた。
「そんなことよりさ、『特別な食材』を使ってるのはどれ?」
メニュー表には『特別な食材』のことは書かれていない。肉なのか、魚なのか、はたまた野菜なのか。それさえもわからない。
「聞いてみるしかないな、すいませーん」
和哉は店の奥に声をかけた。
「はーい、ただいまお伺いいたします」
「あれ、またさっきの人…」
再び、あの女性の声が聞こえた。
少しして来たのは、やはり先ほど水を持ってきた女性と同じだった。
「お決まりですか?」
女性は手に注文票とペンを持っていた。
「あの…ここって店員さん、一人だけですか?」
女性は一瞬きょとんとして、少し申し訳なさそうに笑った。
「ええ、ここは私一人でやっております。ですので、何かとお待たせしてしまうかもしれませんが…申し訳ございません」
「あっ、いや、それは全然…。あの、外の看板にあった『特別な食材』って、どの料理で使われてますか?」
「『特別な食材』はお肉料理に使います。食材そのものはお肉です。お肉料理をご注文の際に『特別な食材』を使うようお申し付けください」
「あ、はい。ありがとうございます」
女性は「それでは」と言って、また戻っていった。
「私はお肉。絶対お肉。シンプルにステーキにしよっかなー」
「あたしもお肉―。亜弥と同じステーキがいい」
「俺はシチューにしようかな。なんか温まるもん食べたい」
「俺、ハンバーグ」
「みんな見事に肉ばっかりじゃん」
「だって『特別な食材』食べたいもん! そのために来たんだから!」
言われてみれば確かにそうだ。
『特別な食材』が入ったという情報を得たからこそ、このカフェに来たのだ。ここで『特別な食材』を食べないなど勿体ないにも程がある。
「俺もハンバーグにする」
「よし、みんな決まった! すいませーん! 店長さーん!」
亜弥が女性――店長を呼んだ。
店長は注文票を持ってきた。
「お待たせいたしました。ご注文をどうぞ」
「ステーキ二つと、シチュー一つと、ハンバーグ二つ。全部『特別な食材』で!」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
店長はにこりと笑って厨房に入っていった。
小さいカフェとはいえ、一人で切り盛りするのは大変そうだ。
注文、調理、片付け、会計と全て一人でこなさなければならないのだ。
「そう言えば、俺たちのほかに客はいないのな」
亜弥の話では『特別な食材』が入荷すると、あっという間になくなってしまうらしいのだが、今の店内を見る限りそんな様子はない。今だって五人全員が『特別な食材』を注文できた。
「今日は平日だからじゃない? 今まではどっちかっていうと休日の入荷が多かったから」
「ふうん、平日と休日でそんなに違うもんなんだな」
きっと休日には、この狭い店内に空きはなくなるのだろう。そう思うと、自分たちはラッキーだったのかもしれない。
しばらく五人で話していると、厨房からふわりといい香りが漂ってきた。
肉に塩胡椒して、豪快に焼いているときの香ばしさ。それとともに、ミルクの柔らかい香りもする。
「…やっばい、これ拷問だわ」
「めっちゃ腹減った」
「ううー早く来いー」
否応なしに食欲を刺激してくる。
しばしの香り攻めに全員が悶えた後、店長が料理を持って厨房から出てきた。
「お待たせいたしました。まずはステーキ、お二つですね」
「お、おお…おおおおー!」
「美味しそうー!」
熱い鉄板の上で分厚く切られた肉がジュウと音を立てた。くっきりと網焼きの跡が残った肉からは黒胡椒のスパイシーな香りが立ち昇る。
「お次に、ハンバーグと…」
「うわぁ、これまたすごい!」
「美味しそうー!」
「こちらがシチューですね」
「トロトロに煮込まれてるぅ!」
「美味しそうー!」
「香織さっきから、美味しそう、しか言ってなくね」
「……ボキャブラリーの消失」
「いやぁ、気持ちは分からなくもねぇよ。マジで美味そうじゃん」
運ばれてきた料理は、どれも食欲を刺激するものばかりだった。
料理を待つ間にしていた話は途中だったが、そんなものすっかり頭から消えるほど、今は目の前の料理しか目に入らない。
「なあ、食おうぜ」
とにかく食べたくてしょうがない。
和哉の言葉を合図に、全員が目の前の料理に飛びついた。
「うわっ! 肉柔らか!」
「臭みも全然ない! すっごい美味しい! 塩だけで食べられる!」
「シチューもイケるぞ。この温かさが身に染みるわー」
「……」
「智晴がもう喋んねぇ…」
最初に料理の感想を述べた後は全員喋らず、ひたすら食べ続けることになった。人間は本当に美味しいものを食べると無言になるものなのかもしれない。
和哉の食べているハンバーグも、今までに食べたことがないほどの絶品だった。
肉の塊に少しフォークを刺しただけで、そこから肉汁があふれ出てくる。ナイフで切り分けてみると、中までしっかりと火が通されているようだった。それなのに肉は柔らかい。野菜が溶けるまで煮込んだというソースとよく合っていて、甘い脂身を感じるのに、しつこくなく、いくらでも食べられそうだった。
牛とも豚とも違う、『特別な食材』。それは何にも似つかない、初めての味だった。
ややくせのある、例えるなら羊の肉にあるもののような、独特の香り。しかしやはり羊とも違う。
「何の肉使ってんだろうなぁ」
好奇心が刺激される。
店長に聞いてみよう。
そう思って、和哉はハンバーグを食べ進めた。
五人はあっという間に料理をたいらげた。
ほとんど無言で食べ続けていたし、何より料理の美味しさに手が止まらなかった。
「噂は本当だったんだね。ほんと美味しかった」
「これは食べなきゃ損だわー」
それなりにボリュームのあったステーキをぺろりと完食した亜弥と香織は満足そうに言った。
「今度は別の料理も食べてみたいな。他もきっと美味いよ、この店」
「俺、メニュー制覇しようかな…」
智晴はこのカフェの常連になりそうな気がする。
和哉も満足感を得ながら、そう思った。
「よし、料理も食べ終わったことだし、帰るか」
「ごちそうさまでした!」と言って全員席を立つ。
五人がレジ前に来ると、店の奥から店長が小走りで出てきた。
「ありがとうございました。またいらしてくださいね」
会計を済ませた五人を、店長は店先まで見送った。
「ごちそうさまでしたー」
「また来まーす」
にっこりと笑って深く頭を下げた店長に、満腹になってご満悦の五人は挨拶をしてカフェを出た。
帰りの道中の話は先ほど食べた料理のことばかりだった。
誰もが食べても絶品だと言うだろう、とか、あれを食べずにいるなんて人生損してる、とか、食べたときの幸福感が未だに残っている五人のお喋りは、大学の最寄り駅に着くまで続いた。
「あ…店長さんに食材のこと聞くの忘れたな」
最寄り駅で改札を通ってから、思い出した。
うっかりしていた。店を出る前までは憶えていたはずなのに。
まぁ、また行くだろうから、その時にでも聞こう。
和哉もみんなと一緒に自宅方面へ向かう電車に乗り込んだ。
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