第7話

 それから二週間、何事もなく過ぎた。何事もなさ過ぎて、つい気が緩んだ。あのC店に行ってしまったのである。

 普通に朝、設定四狙いで行っていたなら、まだ良かったのかも知れない。宵越しを消さないという情報がチラついて、欲が出た。夜、各台の最終ゲーム数をメモしている時のことだった。

「後藤さん」

 背後から声がした。聞き覚えがあり、しかも、怒気を含む声。

「うちに入んねぇのに、うちのネタで稼ごうってのは調子良すぎじゃないですか?」

 上原だ。そういう名前だった。思い出した。

「ねぇ後藤さん、どう思います?」

「すいませんでした」

 そう言って、俺は逃げ出した。

 甘かった。もう俺のことなんて覚えていないだろうと、たかをくくっていた。

 しっかり覚えられていた。そして、見られていた。

 これを機に、奴らは本格的に俺を締め出しにかかるかも知れない。稼げる台の数は限られているのだ。チームに与しない人間なら、いない方がいい。

 俺は本気で引っ越しを考えた。

 しかし、喉元過ぎれば何とやらで、恐怖は徐々に薄れていった。というより、引っ越しにかかるであろう費用や手間が、恐怖心を薄めた。あのあと一度でも脅されたらいよいよ引っ越しを選んだはずだが、どうやらC店に近づかない限りは大丈夫らしい。

 ただ、C店を失ったダメージは小さくない。使える店が減ることはそのまま減収を意味する。

 俺は行動範囲を広げることにした。狙い台が取れなかった日は、今まで行ったことのない店に行って、情報を集めた。二駅か三駅分なら、交通費の節約と運動不足の解消とを兼ねて、自転車を使った。

 父から電話があったのは、そんな矢先のことだった。


 故郷の駅は、三年前と何も変わっていなかった。ホームに並ぶ看板も同じ。三年前どころか、ずっと昔から変わっていない気がする。きっとあのうちのいくつかの店は、既に閉店しているだろう。

 駅前のロータリーで病院の送迎バスを待っていると、懐かしい声がした。

「後藤! 後藤だよな?」

「灰田さん!」

「何だよ、久しぶりだな」

「灰田さんもお元気そうで」

「そう言えばお前地元こっちって言ってたっけ。どっかで聞いたことある地名だとは思ったんだよな」

「お仕事ですか」

「ああ」

 灰田さんはちらりと停留所の表示板に目をやった。

「……お前、どっか悪いのか」

「いえ、俺じゃなくて、母がちょっと」

「そうか。まぁ、息子がこの歳になりゃ、色々あるよな」

 その時、バスがロータリーに入ってきた。

「お前まだアレやってんの?」

「……はい。たまに」

 全然「たまに」ではないが。

「俺、しばらくこっちにいるんだ。おふくろさん良くなったら、久しぶりに遊びに行こうぜ」

「……はい」

 じゃあな、と言って灰田さんは去り、バスの乗車口が開いた。

 海沿いの国道を運ばれていく間、俺は呆けたように鈍色の空を眺めていた。


 母は、乳癌の二期であった。

 俺が到着した時、手術はちょうど終わったところだった。医者は俺と父に、摘出した病巣を見せ、無事成功したので安心するようにと言った。

 廊下を歩きながら、父が言った。

「痩せたな」

 俺は、そっちこそと思いながら、

「そうかな」

 と言った。

 父の髪には大分白いものが混じっている。皺も増え、高校の時に亡くなった祖父と瓜二つの顔になっていた。

「飯はちゃんと食ってるのか」

「うん。まぁ、普通に」

 会話はそれだけだった。あとはただ歩いた。

 廊下でも、入り口が開け放たれた病室でも、目にする患者はほとんど高齢者だ。彼らは今、生きている。それぞれの病を抱えて、生きるために、呼吸をしている。

 この中の幾人かは、ここへ来る前の数ヶ月間か、あるいは数年、パチンコ通いをしていたかも知れない。

 パチンコやスロットの中毒症らしき高齢者を見るたびに、絶対にああはなりたくないと、いつも思っていた。十分すぎるほどの予備軍、いや、ほぼ同類であるにも関わらず。

 この中に何人かは、きっといる。ギャンブルに魅了された哀れな老人が。

 だが、いるとしたら、何だ? その魂は他より濁っているのか?

 他人にそんな採点をする権利はない。

 自分が決めるのだ。もしその老人が、最後の数年間は無為に過ごしてしまったと自分で思うなら、それを否定する権利は、家族にもない。

 残念なことに、俺はもう覚悟ができてしまっている。

「何も生み出せない」

 そのフレーズを、何度頭の中で繰り返しただろう。慣れた匂いはやがて鼻が知覚しなくなるように、嘆きもまた、心の一角に棲みついてしまえば、どうとも感じなくなる。

 俺の人生は、既に虚無で満たされている。最後の数年どころではない。これからずっとだ。

 多くの尊い命が大地を走る車輪だとすれば、俺の命はまさにスロットのリールだ。同じところでひたすらぐるぐると回り続ける。どこへも行けない。どこかへ行くという機能をはじめから備えていない。

 隣を歩く、かつて大嫌いだった父は、立派な漁師だ。船の操舵も、網の手入れも、魚のさばき方も、海のことなら何でも知っている。少しパチンコに熱中したからと言って、漁師としての人生が否定されてしまうわけではない。

 潮風と日光を浴び続け、節くれ立った父の手の甲と、自分の青白いそれとを見比べ、俺は唇を固く結んだ。


 母の病室は、六階の個室だった。窓の外に海が見える。誰かの船が漁をしている。

 眠っている母は、随分小さく見えた。

 母が麻酔から目覚めるまでの間、父はひっきりなしに煙草を吸いに行ったり、トイレに立ったりしていた。俺は、携帯で「乳癌」を検索した。

 それによると、二期の患者の五年後の生存率は、九十一パーセント。

 高い。楽観できる確率。普通の人ならそう思うだろう。けれど、俺には恐ろしい数字に見えた。

 九パーセントの確率で、母は五年以内に死ぬ。

 ――次ゲーム、スイカを引く確率は〇・八パーセント、特殊リプレイが〇・四パーセント、単独ボーナスが〇・〇二五パーセント。紙のように薄い確率だが、スイカも特殊リプレイも単独ボーナスも、引くことは、ある。

 九パーセントという確率の「高さ」を、俺は知りすぎるほど知ってしまっている。

 そうだ。あの日――隣の老人に目押しを頼まれた日、確か弱チェリーからARTに入った。あれも九パーセントだった。至極あっさりと、その現象は起こる。

 あの母が、無敵だった母が、今はこんなに小さくなってベッドに横たわっている。何故この人が苦しまなければならないんだろう? 何の役にも立たない、欠陥品の俺が、のうのうと生きているというのに。

 長いような短いような時間が過ぎて、母が目を覚ました。目が覚めても、しばらくの間意識ははっきりしないだろうと、医者から言われていた。

「痩せたね」

 と、弱々しく口を動かして、母が言った。

「ちゃんとごはん食べてるかい」

「……それ、親父にも言われた」

 え? という目を母がした。聞こえなかったようだ。

 俺は少し大きな声で言い直した。

「親父にも言われた」

「……そう。お父さんは?」

「煙草吸いに行ってる」

 白い掛け布団が、母の呼吸と共に、大きく、ゆっくりと上下している。

「苦しいでしょ。寝てなよ」

「うん……」

 母は一度瞼を閉じかけたが、再び開いて、俺を見て、言った。

「……今どうしてるの?」

「コンビニでバイトしてる」

 本当のことは、それだけだった。あとの言葉は、口をついて出た。

「俺、俳優になりたいんだ」

 その時、父が戻ってきた。俺は構わずに続けた。

「コンビニは早朝で、昼間は配達のバイトして、夜は劇団のレッスンに通ってる。劇団っていっても大したところじゃなくて、アマチュアなんだけど、上手い先輩がいて、色々教えてもらってる。レッスンのあとにみんなで飲みに行くこともよくあるし、とにかく充実してるよ、毎日」

 母はじっと俺の話を聞いている。

「公演は年に三回ぐらい。百人も入らないような小さい劇場でやるんだけど、やっぱり本番は楽しいよ。お客さんの前でやるのが一番勉強になる。厳しい感想言われることもあるけど、ありがたいなって思ってるし」

 母の表情は変わらない。嘘と悟られているのだろうか。

 父が言った。

「それで、食っていけるのか」

「食えてないからバイトしてるんだけどね、今んとこ」

「だから、将来プロになって、その稼ぎで食っていきたいんだろう。そうなれる見込みはあるのか」

「わからない」

「正直、どのぐらいだ。プロになれる確率は」

「……本当に正直なことを言えば、一パーセントもないと思う」

 病室の中はひどく静かだ。窓の向こうで、漁船が海原をゆっくりと進んでいく。

「でも、勝算のある戦いしかしないなんて、つまんないから」

「……まるでギャンブルだな」

「ギャンブルではないよ」

「何が違うんだ」

「何かを生み出してる」

 本当の俺は、違う。一週間のうち五日間をスロットに費やしている。勝算だけにすがりついて、細々と生きている。

 理論上は勝てる。トータルでは勝てる。そう自分に言い聞かせ、現にその通りになっていた。けれど、もっと高い視点から見れば、完全に敗北している。そして、そんな自分を受け入れてしまっている。

 ごめん、嘘だ。実は俺、何もしてない。

 そう俺が言いかけた時、

「がんばりなさい」

 と言って、母は目を閉じた。

 膝の上で、拳を握りしめた。この先、俺は何ができるだろう。何かを生み出せるだろうか。そうなる確率は? ……期待できない。九パーセントより、一パーセントより低い。そうとしか思えない。

 父の後を継いで漁師に? 立派な選択かも知れない。だが、今さら? さっき父の手の甲を立派だと思ったけれど、憧れたのとは違う。この期に及んで、俺は俺の正直さを捨てられないし、捨てるべきとも感じない。

 しかし、自分を騙したくない以上に、もう二度と、母にこんな嘘はつきたくない。いつか、胸を張って、笑顔で話したい。未来の話を。与えられた命の使い方を。

 沈黙の中、母の寝息が規則正しく時間の経過を告げている。父は黙って窓の外を眺めている。

 宙で虚しく空回りするリールを、地面に下ろそう。目的地はない。けれど、動き出さなければ、始まらない。


          (了)

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リールの回転 森山智仁 @moriyama-tomohito

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