第5話
この台のボーナス確率は、設定五・六共に約百三十分の一。五と六の差は子役の出現率のみ。俺はいつものように朝から地道にベルを数えている。今のところ数値はどちらに近いとも言えない。
五か六であることはほぼ間違いない。それに、五でも六でも期待値はプラスだ。捨てる理由はない。夜十時四十五分の閉店まで打ち切る。ベルを数えるのは念のためだ。万が一低設定なら、ベルでわかる。
それにしても、幸運の波は未だに来ない。最後のボーナスから既に四百ゲームが経過した。百三十分の一の確率で当たるはずの台で、四百ゲーム。当たらないゲームが長く続くことを「ハマる」という。この台は今「確率の三倍ハマり」だ。
とは言え、三倍や四倍程度のハマりは全然珍しいことではない。理論上、三倍ハマりは五パーセント、つまり二十回に一回の確率で訪れる。一日中打っていれば複数回起こる現象だ。決して驚くようなことではない。
(いいんだけど、そろそろ起きてくれないかな。もう昼の二時だぜ、妖精さん)
無論、台の中に妖精などいない。何か考えていないと眠くなってしまうのだ。眠いのにスロットを打つなんて、まともに生きている人間には到底理解できないだろう。
「んもう!」
と、隣の女性客が台を叩いた。派手な服装の、年配のご婦人であった。
台叩きはマナー違反だが、さほど強くもなかったから、店員が飛んでくることはなかった。それにしても、「んもう!」なんてセリフ、声に出す人間が実在するとは思わなかった。
彼女の台のデータ表示機を見ると、前回のボーナスから五百ゲーム。設定六とするなら四倍近くハマっている。だが、四倍ハマりでも二パーセント。あり得ない数字ではない。そもそもボーナスに当選する確率が一パーセント未満なのだ。二パーセントの現象を否定していたらスロットなど打てない。
「ヒライさん、ヒライさん!」
と、通路から中年女性の声がした。
「あらやだ、ミナガワさんじゃないの!」
四倍ハマり中のヒライさんは、ミナガワさんと世間話を始めた。ヒライさんの孫は今年小学校に入学するらしい。ミナガワさんのご近所のキグチさんは、息子の嫁と折り合いが悪いらしい。
かつてはパチンコにご執心だった高齢者や主婦たちが、近頃はスロットにも流れてきている。特に俺やヒライさんが今打っている機種は「当たったら光る」という単純明快さで人気を博している。
どこの店にも必ずと言っていいほど、車内放置をやめるよう呼びかけるポスターが貼られている。駐車場に放置されて子供が死ぬ事件はあとを絶たない。パチンコやスロットで我が子を亡くした人は、その後の人生をどんな気持ちで過ごすのだろう。俺なんかに心配されたくはないだろうが……。
ミナガワさんが言った。
「ヒライさん、その台、だめよ」
「やっぱりそう思う?」
「そうよ。だってもう五百回も当たってないんでしょう?」
「そうよねえ」
その考え方は正しくない。
ヒライさんの台は現在までの二千ゲームで、ボーナスに十六回当選している。確率百二十五分の一。設定五・六より良い数値だ。肝心のベル出現率がわからないし、二千ゲーム程度では十分な試行回数とは言えないが、ともかくヒライさんの台は「良い台」の見込みがある。
「ふつう二百回に一回ぐらいは当たるじゃない。五百回も当たらないなんて絶対おかしいわよ」
「そうねえ」
設定一のボーナス確率は約百九十分の一。確かに二百回に一回ぐらいは当たる確率だ。しかし、百九十分の一という確率は、百九十回以内に当たるという意味ではない。平均で百九十回に一度当たるという意味だ。
ヒライさんは手持ちのコインをかき回しながら言った。
「さっきまでは調子よかったんだけど」
「流れが悪くなったのよ」
流れもクソもない。状況を支配しているのは確率だけだ。
開店から閉店まで、スロット台の設定は変わらない。もし店側が特殊な機械を仕込んで営業中に設定を操作し、それが明るみに出たら、一発で営業停止である。
ヒライさんもミナガワさんも何もわかっていない。データを見ろ。ほら、二千ゲームで十六回も当たっているじゃないか。ビッグとレギュラーの比率もいい。何が「流れ」だ。目の前の出来事に惑わされるな。真実を見ろ。確率論を理解しろ。頭を使わないから金を失うんだぞ。
(いやいや……違うだろ、俺)
憤慨することはない。むしろ感謝すべきだ。こういう人たちのおかげで店が潤い、俺たちの「取り分」が生まれるのだ。もし全てのプレイヤーが仕組みを完全に理解してしまったら、スロプロという人種は絶滅する。
ミナガワさんの真剣な声。
「移動した方がいいわよ」
「そうね。そうするわ」
どうぞ存分に見当違いの試行錯誤をしてください。今後ともその調子でお願いします。
「ねぇ、ちょっと、お兄さん」
と、ミナガワさんに肩を叩かれた。
(え?)
「お兄さんも移動した方がいいんじゃない?」
(……えーっと)
こんなお節介は初めてだ。
「だってほら、こんなにハマってるじゃない。意地にならない方がいいわよ」
「いや……その」
(黙れ素人)
なんて、言えるわけがない
「あの、合算で百五十分の一以上ありますし……。子役も結構いいんで……」
と、格の違いをさりげなくアピールするも、
「いい台がこんなにハマるわけないでしょ?」
(駄目だ。通じてない)
さらに、ここでヒライさんの援護射撃である。
「ねぇお兄さん、言う通りにした方がいいわよ。ミナガワさんはすごいんだから」
「やだ、やめてよヒライさん」
「ミナガワさんはこの台のことは何でも知ってるの。この前なんて、上手にあちこち移動して三万円も勝ったのよ」
この手の人たちの「勝った」ほど信用ならないものはない。いくら投資したかきちんと覚えていないから、まとまった金を受け取るとそれだけで勝ったような気になってしまうのだ。
「ほら、立って立って! こういうのは思い切りが大事なの」
と、ミナガワさんが急かす。
(まいったな……)
さて、どう切り抜ける? ある意味、この前のヤクザより厄介だ。
そう言えばあいつ、名前なんて言ったっけ。上島? 上坂? ……しばらく見ないうちに忘れてしまった。どうも他人の名前を覚えるのは苦手だ。根本的に他人に興味がないから仕方ない。
「どうしたのよ。どうせ遊びだって言っても、勝った方がいいに決まってるでしょ?」
こちとら遊びじゃないし、勝つためにあんたらの忠告を聞きたくないんだが……。
しかし、見方を変えれば、彼女たちの方が人として正しいと言えるかも知れない。理論が間違っているとは言え、困っている他人を救おうとしているのだ。相手が助かっても、彼女たちは何の得もしない。慈愛に満ちた行いだ。それに比べれば、俺が今まで当たり前にしてきた行為は、冷酷極まりない。漫然と打てばどれだけ負けるか、勝つにはどうすべきか、正しい答えを知りながら、誰にもそれを教えなかった。数多の他人を見殺しにすることで生き長らえている。そう考えていくと、スロプロとは非生産的のみならず、実に無慈悲な稼業だ。
直接奪ってはいない。けれど、間接的に奪っている。隣人の敗北に支えられた生活。
何だかコンビニのバイトが随分尊いものに思えてきた。立派な小売業なのだ。人の役に立つことで、賃金を受け取っている。弁当が一つ売れれば、客は飯にありつくことができ、俺は儲かる。誰も傷つかない。
(いいですか? スロットには一から六の設定というものがあって、一を打ち続ける限り、トータルでは絶対に勝てません。そして店に置いてあるほとんどの台は一です。あなたたちが勝ったとおっしゃるのはただの偶然です。月間でいくら負けているか、正確に把握していますか? さて、この機種の設定を見抜くには……と、その前に、波だとか流れだとか、そういう概念は今のうちにきれいさっぱり捨ててくださいね。相手は機械なんです。こっちも機械みたいな考え方をするのが一番いいんですよ)
等々、正しい情報を親切丁寧にレクチャーしてあげれば、彼女たちは喜んで聞き入れるだろうか?
いや、それはない。絶対にない。歳を重ねて、新しいことを学ぶ余白のある人間なら、こんな場所にいるわけがない。ここにいるのは、ギャンブルに魅入られた狂信者たちだ。そして俺は、お布施をかすめとるけちな泥棒だ。
――泥棒でいい。他の生き方は知らない。
「どこに移動すればいいんですか?」
俺が訊くと、ミナガワさんは嬉しそうに辺りを見回し始めた。
「そうねぇ……」
ヒライさんは期待に満ちた眼差しでミナガワさんを見つめている。やがて、ミナガワさんは、一つの台を指差し、確信に満ちた声で言った。
「これね」
前回ボーナスから九百ゲーム。途方もない数字だ。どうせ設定一だろうが、ここまでハマる確率は一パーセント以下。流石にこれは珍しい。
だが、ちょっと待て。今の台がハマったから動こうというのに、それ以上のハマり台に目をつけるというのはどういうことなんだ。
「千ゲームもハマる台なんて見たことがないもの。だからあと百ゲーム以内に必ず当たるわ」
必ず当たるわけがない。千ハマることもある。実際俺は過去に二回見たことがある。
「それに、あんな長いことハマったんだから、かなり当たりを溜め込んでるはずよ。きっとその次も二、三回はすぐに当たると思う」
ミナガワさんは完全に勘違いをしている。どんなにハズレが続こうと、当たりの確率が濃縮されていくわけではない。
「ハマり台を狙うのも有効な手よ。ちなみにこれを『ハイエナ』っていうの」
「さすがミナガワさん、色々よく知ってるわねえ」
と、ヒライさんがため息をつく。
違う。それハイエナじゃない。この機種に天井は搭載されていない。
「お兄さん、あの台はお兄さんに譲るわ。遠慮なく打って」
「……せっかくですけど、いいです」
「え?」
信じられない、という目で老婆たちは俺を見る。
「もうちょっとここで粘ってみます」
「……そう。じゃあ、ヒライさんどうぞ」
「いいの?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そして、二人は去っていった。
それから一分もしないうちに、カン高い告知音と、ヒライさんの声がした。
「わっ、ホントに当たった!」
きっと今ごろ勝ち誇ったような二つの視線が、こちらを見ていることだろう。だが俺は自分の台から目を離さなかった。
構うことはない。本当の勝者は俺……いや、それも違う。俺もあんたらも負け組だ。この世界に、勝者などいない。
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