第3話

 水曜の朝七時、俺はC店の入り口の前に立っていた。

 開店何分か前に入場順抽選を行い、整理券番号順に入場させる店の方が多い。並び順で入れる店は珍しい。

 大手のA店とB店は、どちらもきちんと見せ台を置いてくれるが、入場方法が抽選式で、ライバルが多い。狙いの台を取れる確率が低い。

 その点、このC店は、早く来さえすれば、一番に入れる。そして今日はノーマル機の設定四が置いてあるはずだ。期待収支は一日で二万円程度だが、座れるかわからない、そのうえ収支が荒れやすいART機の設定六より、確実に座れて、安定感のあるノーマル機の設定四を、俺は選ぶ。

 ちなみにD店は一切見せ台を置かない。一年中全台設定一なので、こういう店を俗に「ベタピン」と呼ぶ。

 他にも何店か、傾向を把握している店があり、状況に合わせてあちこちを巡っている。狩り場を飛び回るハンター……と、一年前は思っていた。馬鹿言っちゃいけない。ただのギャンブラーだ。

 開店まで二時間弱、携帯をいじったり、本を読んだりして過ごす。何かをしていないと、世間の目が気になって仕方ない。平日の朝、世の中は眩しいほどきちんとしている。ネクタイを締めて駅へ急ぐサラリーマン、店の前を丁寧に掃き清めるパン屋、バットケースを肩にかけて自転車をこぐ学生。彼らをまともに見ていたらきっと目が潰れてしまう。朝から並ぶようになって随分になるが、未だに慣れない。

 この店で俺以外に人が並び始めるのは大抵八時頃。だからせいぜい七時五十分ぐらいに来れば一番は取れるのだろうが、誰がいつ気まぐれに早く来るかわからない。油断は禁物だ。と思っていたら、まさに今日がその日であった。七時十五分、二番手が現れた。

 この界隈でよく見かける男だった。いつも紺色のキャップを目深にかぶっている。恐らくプロか、それに近い。お互いに面識はないが、向こうも俺のことは何度も見ているだろう。

 数少ない「勝てる台」を奪い合うという意味において、他の客は基本的にライバルだが、信頼できる仲間がいれば、メリットは色々とある。不運を慰め合ったり、交換率が等価でない店で出玉を共有したり。何よりも大きいのは情報交換だ。機種のデータはいくらでも雑誌に載っている。だが店の傾向は自分でつかむしかなく、しかも確証は得られない。他人と突き合わせればぐっと精度が増す。

 ……などと思っていても、結局声をかけることはない。そんな勇気があったら、きっと今頃もう少し違う人生を歩んでいる……。

 八時から少しずつ人が増え始めて、開店間際で並びは八人。この店はいつもそんな感じだ。

 九時、入場開始。焦らずに歩いて狙いの台に向かう。大手の大きなイベントの入場時は、店員がたえず「走らないでください」と声を張り上げているが、この店ではそんな必要はない。マナーのいい常連客ばかりだからだ。

 ところが、今日は違った。目的の区画まで来た時、キャップの男が小走りで俺を追い抜き、俺の狙い台のコイン皿に素早く煙草の箱を投げ入れたのである。

 一瞬の出来事だった。

(……まぁ、こういうこともあるよな)

 並び順はただ入場する順番であって、台を確保する優先順位が与えられていたわけではない。入ってしまえば早い者勝ち。それに、ぶつかられたり押しのけられたりしたわけでもない。文句を言える立場にはない……。

 と、揉め事を避けたいがための言い訳を素早く頭の中で組み立て、俺は狙い台に背を向けた。

 その直後、男の声がした。

「すいません、冗談です」

 振り返ると、男が煙草の箱を振りながら微笑していた。

「やっぱりこの台狙ってたんですね。どうぞ。そちらが先に並んでたんですから」

「いや、でも……」

「いいから座ってください。横取りなんかしませんよ」

 促されて、俺は席につき、男に言った。

「すいません。ありがとうございます」

「いやいや、ホントすいません、驚かせちゃって」

 風貌からして、俺より少し年上だろう。

 冗談と言ったが、そうではあるまい。恐らく、狙い台が同じであることを確認したかったのだ。他人とかぶれば、自分の読みが正しかったことの裏付けになる。

 それにしても、大胆な真似をする奴だ。相手の出方次第では喧嘩になってもおかしくない。

 煙草に火をつけながら、男が言った。

「隣、いいですか?」

「ええ、別に」

 どこで打とうが彼の勝手だ。

 しかし、おかしい。そちらの台は十中八九、設定一だ。この台を狙っていた男がそれを知らないわけがない。俺の台の挙動を観察するためか? 無駄金を使ってまで?

 サンドボックスに万券を差し込みながら、男が言った。

「よくこのへんで打ってますよね」

「ええ。そちらも」

「やっぱりお互い顔覚えちゃいますよね」

「そうですね」

「いつも何時から並んでるんですか?」

「大体七時ぐらいです」

「マジすか。すげー。俺起きらんねぇなー」

(あ)

 しまった。正直に答えるべきではなかった。これで彼は「何時に来れば先頭が取れるか」知ったことになる。

 いや、だが、嘘をついてそれがバレたら、何を言われるかわからない。厄介事はごめんだ。正直に答えて良かったのだ。

 どうしても彼に出し抜かれるのが嫌なら、俺は六時から並べばいい。けれど、それもやめておこう。嘘をついたことになってしまう。さわらぬ神にたたりなし。

 受け身に回っていては次々に情報を奪われかねない。こちらから訊いてみよう。

「そっちの台も狙ってたんですか?」

「見てればわかりますよ」

 ……見ていていい、ということだ。随分と気前がいい。それに、自信があるのだろう。俺の知らない設定配置パターンでもあるのか? だとしたら、何故俺にそれを教える?

 ともかく、見ていいなら見ておきたい。しかし自分の台と彼の台、両方を同時に観察するのは難しい。

 精密な設定推測をするには、子役の出現回数をきちんと数えなければならない。それには専用のカウンターを使う。もちろん俺も持っているが、見ていいと言われたとは言え、他人の台の子役をこれで数えるのは気が引ける……。

 待て。妙だ。彼はカウンターを使っていない。よほど記憶力に自信があるのか?

 その時、彼の台の台枠が激しく光った。前兆なしのARTだ。よほど強い子役を引いたのか? いや、出目はハズレだ。そうか、これは……

「天井です」

 スロットには「何百ゲームも当たらなかった時」の救済機能として「天井」というものがある。言わば残念賞。不運に対するお詫びのようなものだ。

 天井に近い台を打ち、当たったら即ヤメ、という作業を繰り返すだけでも、相当の期待値が得られる。天井のゲーム数やそれに達した時の恩恵を把握しておくことは非常に重要である。

 天井を狙う行為は俗に「ハイエナ」と呼ばれ、決して胸を張れる打ち方ではないが、マナー違反というほどでもない。天井の手前で捨ててしまう方が悪いのだ。

 それにしても……

「この店、宵越しは消すと思ってました」

「最近担当者が変わったんですよ」

 閉店後に店側が操作すれば、その日のゲーム数はクリアされ、ゼロに戻る。が、その手間を怠る店なら、前日の最終ゲーム数を覚えておくことで、翌日は朝から天井が狙える。これが「宵越し」だ。

「昨日の閉店時点で残り七十ゲームでしたからね。お宝台でした」

「なんか、ありがとうございます」

「何がですか?」

「教えてもらっちゃって」

「いやぁ、いいんですよ。別に喋ってなくても、見てたらわかったでしょ」

 いや、それはない。出目まで見ていなければ、普通に当たったのか、天井だったのか、区別できなかった。そして、見ることを事前に許されていなければ、出目は見逃したはずだ。

 彼は……俺と「友達」になろうとしているのだろうか? だとしたら、願ってもない話だ。

「俺、上原っていうんですけど」

「あ、後藤です」

 今までずっと一人で打ってきた。こんなに心強いことはない。

 そうだ、友達になるからには、酒ぐらい飲めるようになった方がいいかも知れない。元々まったく飲めないわけではないのだ……。

「後藤さん、俺らの仲間になりませんか?」

 俺……ら? 仲間?

「後藤さんぐらいわかってる人なら大歓迎ですよ」

(……そういうことか)

 プロ集団の勧誘だったのだ。

 何人かで徒党を組むプロは多い。頭数がいれば、リスクは分散でき、情報は集めやすくなる。メリットは大きい。個人で長く続けているプロの方が少ないと、雑誌の記事で読んだこともある。

 上原個人でなく、チームからのお誘いというわけだ。受諾すれば、「仲間」はできる。恩恵もあるだろう。だが……

「先に言っときますと、本名は出せないんですけどKさんっていう元締めの人がいて、指示は全部Kさんが出してます。で、まぁ当然なんですけど、儲けはKさんがちょっと多めに取ります」

 報酬の分配を巡って言い争いになり、解散になるチームも多いという。

「どうですかね? 楽ですよ。全部Kさんの言う通りにするだけですから」

 先に言っておく、と前置きした割には、曖昧な説明だった。Kという元締めは具体的に何パーセント多く取るのか? 「新入り」にはどのぐらい分け前があるのか? そもそも、全部で何人のチームなのか? 思い切って訊けばいいのかも知れないが……。

 それに、指示に従うだけ、という部分も引っかかった。要はロボットになれということだ。淡々とリールを回すだけのロボット。今だってそれに近いものはあるが、あくまでも命令は自分の脳が出している。腐りかけの脳だが、それでも。

 俺が黙っていると、上原は手を止め、こちらを見て言った。

「ぶっちゃけ、Kさんあっち系の人と繋がってるんで」

 露骨に脅しをかけてきた。

 心臓が高鳴り、嫌な汗が噴き出す。上原のシャツの袖から、ちらりと刺青が見えた。「繋がっている」どころではない。Kという人物だけでなく、どうやら上原自身もその筋の人間らしい。

 どうする? 関わり合いになりたくはないが、穏便に断る方法などあるのか? 思考が定まらない。どうしたらいい?

「ま、今すぐ決めろって言われても困りますよね」

 そうとも。困る。

「入ってくれる気になったら、今夜十一時、D店の裏のSって店に来てください。そこでみんな待ってますから」

 みんなって誰だ? 断ったらやはり報復があるのか?

 俺は結局、一言も発せられなかった。

 上原は、天井のARTを取り終えると、無言で去っていった。


 その日の夜十一時、俺は自室の布団の中で震えていた。

 十五分前にはSという店の前にいた。店の前までは行ったのだ。しかし、それ以上足が進まなかった。

 この先もスロットでしのいでいきたいなら、受けるべきだったのかも知れない。多少の上前をはねられようと、集団に属していた方が収入は安定する。

 それに、上原たちはその筋の連中なのだ。逆らったらどんな目に遭うかわからない。

 狭い町だ。今後、また上原と出くわすこともあるだろう。もしその時何か言ってきたら……逃げよう。引っ越してしまえばいいのだ。この町に未練などない。せっかくつかんだ店ごとの情報がパーになるのは惜しいが、命には代えられない。

 怖かった。連中が怖いというのもあるが、それよりも、芯までスロットに染まってしまうことが怖かった。

 今は俺一人だ。いつでも辞められる。しかし集団に、ましてや暴力団関係のチームに入ってしまったら、簡単には抜けられないだろう。

 引っ越してもスロットで稼ごうと考えているくせに、スロットに染まることは怖れている。矛盾していようとも、本心だから仕方がない。

 その夜は恐怖で一睡もできなかった……などということはなかった。精神がすり減っていたのだろう。いつの間にか眠りに落ちていた。


「この前、ヤクザにからまれてさ」

 次のバイトの日、俺は西野に作り話をした。

 牛丼屋を出たところで突然声をかけられ、人気のない駐車場につれていかれて、高額のアダルトビデオを買わされそうになった。という設定にした。ネットで拾った話だった。

「災難でしたね」

「殺されるかと思ったよ」

 話してしまうと、かなり気が楽になり、何だか本当にそういうことだったような錯覚に陥った。

 その錯覚は、退勤時刻間際、いきなり解けた。紺色のキャップ。上原がコンビニに客としてやって来たのである。

(嘘だろ?)

 目が合い、俺は悲鳴を上げそうになった。殺される! 逃げなければ!

 ところが、上原は何も言わなかった。その表情は、確かに俺を俺と認識したようだが、ただ煙草を買い、去っていった。

 全身から一気に力が抜けた。どうやら奴は俺に用があって来たわけではなかったらしい。

 考えてみれば、当たり前だ。俺は約束を破ったのではなく、勧誘を断ったに過ぎない。因縁をつけられるようなことではないのだ。何をおびえていたのだろう。

 危険は過ぎ去った。しかし、今後何があるかわからない。

 俺は、上原と出会ったC店を、テリトリーから外した。穴場だったが、やむを得ない。この生活を続けるためだ。いつでも辞められる、この生活を。

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