第2話
スロット台には一から六までの設定がある。数値が高いほど、勝てる確率も高い。
設定を変更するには、台の蓋を開けなければならない。従って、設定変更の作業は営業時間外に行われる。翌日訪れる客の命運は、担当店員の一手に握られている。
スロット店は慈善事業ではない。商売である。故に、並んでいる台のほとんどの設定は一だ。設定一の台が丸一日稼働すれば、機種にもよるが、およそ二万円を客から吸い取ることができる。ギャンブルだから、設定一の台で、客が勝つこともある。それでもトータルでは必ず店が勝つ。
とは言え、勝てない台ばかりでは客が打つ気をなくしてしまう。そこで、店は「撒き餌」として勝てる台を少しだけ忍ばせておくわけだ。
そのありかを見抜くことに長ければ、どうにか食いつなぐぐらいは稼げる。ただ、くどいようだが、生産性はない。
撒き餌を撒かなくても客が集まる土日は、自然と設定は厳しくなる。そこで俺は、土日だけバイトを入れている。
どこにでもある、コンビニのバイトだ。この世界に足を踏み入れる前からずっと同じ店舗で働き続けていて、もう五年になる。
メンバーの中では最古参だが、土日しか入らない上、もともと社交性はないので、友人は滅多にできない。特に必要ないとも思っている。それでも、このバイトが、社会と俺を繋ぐ唯一の架け橋だ。
スロット店・パチンコ店は、どこの町にもある。すべての駅前に存在すると言っても過言ではあるまい。しかし、どれほどの都会に建ち、どれだけの客で賑わっていようとも、スロット店・パチンコ店は、社会から切り離された特殊な空間である。キャバクラで二万使えば、愛は買えないかも知れないが、少なくとも酒は体内に入る。スロットでは、漫然と遊べば二万がただ泡と消え、何も残らない。
ゲームセンターの方がよほど健全だ。ゲームは楽しむためだけに作られている。ギャンブルは、儲かるかも知れないという欲望をあおり、客の金を、ひいては魂を吸い上げる。そして、虚無を差し出す。
日曜日の朝、俺は自転車に乗って、大手スロット店の開店を待つ行列を尻目に、バイト先のコンビニへ向かう。
客観的にあの行列を見ると、なんて恥ずかしい人たちだろうと思う。みんな頭の回路が何本か焼き切れているのではないだろうか? 朝っぱらからスロットに並ぶなんて、どうかしている。
いや、平日は俺もあの中にいるのだ。わかっている。俺もどうかしているのだ。もとい、俺の方がどうかしている。自覚しているうちは大丈夫だろう、多分。何が大丈夫なのかはわからない。
レジには、早番の西野伸一が立っていた。三ヶ月前から働いている。
俳優を目指しているという彼のシフトは、いつも朝六時から正午まで。午後は酒屋の配達のバイトをし、夜は劇団のレッスンに行くらしい。以前、一体いつ寝ているのだと訊いたら、彼は笑って「寝てません」と答えた。
誰とでも平等に接する爽やかな青年。俺の数少ない友人。……一応、こちらはそういうつもりでいる。
バックルームに入り、パイプ椅子に座って、廃棄の弁当を食べる。コンビニのバイトはこれがあるのが大きい。出勤日の朝食はいつもこうしている。
米を咀嚼しながら、ホワイトボードにマグネットで貼られた本社からのFAXを眺める。内容に興味があるわけではない。他に読むものがないのだ。ここでスロットの雑誌を広げるわけにはいかない。できれば知られたくない。同じ町のスロット店に通っているのだから、もうバレているかも知れないが……。
空になった弁当箱を捨て、歯を磨き、エプロンを身に着ける。
俺のシフトは朝九時から夕方五時。スロット店の開店時刻も九時。生活の歩調は極めて規則正しい。問題はどこにも向かっていないということだけである。
タイムカードを切り、バックルームを出た。客の姿はまばらだ。朝のピークは既に過ぎている。
「お疲れ様です」
と、西野があくびを噛み殺しながら言った。
「しんどそうだね」
「昨日稽古のあと飲み会で、結構遅くまで飲んじゃって」
「へえ」
「後藤さんって酒飲みます?」
「いや、俺は全然」
酒も煙草もやらない。服にもこだわらない。金を遣うあてがないおかげで、こんな生活が成り立っている。
「下戸なんですか?」
「ってわけでもないんだけどね」
酒を美味いと感じたことがない。
学生時代、何よりも苦痛だったのが飲み会というやつだ。極力避けたが、顔を出さないわけにいかない場合もある。したい話も、飲みたい酒も、暇つぶしに吸える煙草もない。ないない尽くしで、ただ時が過ぎるのを待つばかりだった。
嫌なことを思い出してしまった。当時、ある飲み会の席で、気の強い美女――それもどうやら自分の気の強さを心底愛している――からこんなことを言われた。
「後藤くんってさ、何が楽しくて生きてるの?」
何だろう、と返すのが精一杯だった。
何かが楽しくなければ、生きていてはいけないのだろうか。当時も今も、楽しいことは特にない。稼ぐ手段として定着してから、スロットを楽しいと感じることはなくなった。どんなに勝率を高めても所詮はギャンブル。大きな負けが続くことはある。頼りにしている店が突然潰れることだってあり得る。日々、不安にさいなまれている。
死なない理由は一応ある。親が悲しむから。ただその一点だけ。親を除けば、俺がいなくなって悲しむ人間はいない。もっとも、今死にたいと思っているわけではない。生きたいとも思っていないだけ。できるだけ早くこのろくでもない人生を消費してしまいたい。
レジの対面に、栄養ドリンクの棚。眠気を吹き飛ばすドリンク、二日酔いを防ぐドリンク、ビタミンたっぷりのドリンク……俺には必要のないものばかりだ。
西野が言った。
「今度公演があるんですよ」
「劇団の?」
「はい」
「セリフ喋るの?」
「そりゃ喋りますよ」
西野はきっと、生きていて楽しいだろう。考えることがたくさんあるだろう。夢を叶えるために、体力も時間も毎日フルに使い切っている。
「良かったら観に来てくれませんか」
「俺なんかが観てわかるかな」
「大丈夫ですよ。全然難しい話じゃないですから」
アマチュアの劇団。そういうものがあるということすら、西野と知り合ってから知った。今まで興味がなかった。今もないが。
「ロッカーにチラシぶら下げてありますから、あとで持ってってください」
そう言い残して、西野は休憩に入った。
金曜の夕方、俺は電車に揺られていた。電車に乗るのは久しぶりだった。普段、遠出する用事がない。せいぜい新店のグランドオープンぐらいだ。
チラシを開いて、降りる駅を確かめた。
公演を観てみることにしたのだ。内容に興味はないが、西野には少し興味がある。夢があって、努力家で、社交的。俺とは正反対の人間。エネルギーに満ちていながら、覇気のない俺のような奴も軽蔑しない、澄んだ心。
彼を応援することで、自分の中の欠けた部分、いや、決定的に消滅してしまっている部分を、俺はほんの少しでも埋めようとしているのだろう。
改札を出て、再びチラシを開く。北口から徒歩十分。
何だか「歩く」という行為さえ、久々という感じがする。普段の移動には専ら自転車を使っている。歩くと言えばせいぜい店内(スロットでもバイトでも)をうろつく程度だ。さらに言えば「走る」なんて、最後にやったのがいつだったか思い出せない。体年齢などという言葉があるが、自分のそれは知りたくない。
劇場は住宅街の中にあった。こんな場所で演劇の公演なんかやって、近隣迷惑にならないのだろうか? まぁ、防音が施されているのだろう。最近の防音技術は大したものだ。あれだけやかましいスロット店も、一歩外に出て自動ドアが閉まれば、中の音はほとんど聞こえなくなる。
受付でチケット代を支払う。二千八百円。高い。いつも涼しい顔でサンドボックスに万札を投入している俺だが、金銭感覚は狂っていない。むしろシビアになっている。金を惜しみ、細かな計算をしなければ、スロットは勝てない。
二千八百円あれば牛丼が十杯食える。まだ観てもいないのに失礼だが、普通に考えて、アマチュアの劇団の公演に二千八百円の価値はないだろう。これは対価ではなく、西野へのカンパのようなものだ。売上が西野の手に渡るのかどうかは知らないが。
場内に入る。狭い。ひな壇にパイプ椅子がぎっしり並んでいる。一列十四席で、五列。現在開演十五分前。客席の埋まり具合は半分程度。
最前列に座った。同じ値段なら近い方が得だ。
緞帳はなく、舞台が丸見えになっている。テーブルと椅子がいくつか置かれているだけの簡素なセット。壁も床も真っ黒だ。
もうじき、ここに役者たちが現れて、演技を始める。俺は演劇については何も知らないが、観察することには慣れている。じっくり観てみるとしよう。西野の「設定」は、一体いくつだろう?
二時間後、俺は駅への道を歩いていた。
挨拶に出てきた西野には「良かったよ」と言った。俺は普段から表情がない。真意は悟られていないはずだ。
確かに、西野の言う通り、難しい話ではなかった。ひなびた喫茶店に集まる人々の群像劇。ラストはお涙頂戴的な展開。
わかりやすいというより、チープだった。面白かったかと訊かれれば、面白くはなかった。俺も映画ならたまに観る。ストーリーの良し悪しぐらいは感じられる。
とは言っても、脚本家もアマチュアなのだ。プロの映画と比べるのは酷かも知れない。問題は、西野だ。
上手くはなかった。一生懸命にも見えなかった。暗い役どころだったというのはある。それにしたって、あまりにも「雰囲気」がなかった。
何が悪いか、技術的なことはわからない。ただ、さきほど見た西野が、もっと大きな舞台や、映画のスクリーンで活躍している姿は、どうしても想像できない。
うがった見方をしたつもりはない。むしろ心情的には応援していたのだ。バイトを掛け持ちし、毎日レッスンに通い、俺にないものをたくさん持っている西野を。
彼には夢がある。プロの俳優を目指している。今の公演は未来への通過点に過ぎない。彼はまだ若い。成長し得る。これから化ける可能性はある。だが……
(素質がない)
そう思ってしまった。
スロットの「見せ台」はどこの店にもあるわけではない。営業方針による。置かない店は、置かない。徹底的に置かない。
種がなければ芽も出ない。店も人間も、そういうものではないだろうか?
西野は自分のことをどう見ているだろう? 性格として、自信家ではない。謙虚な方だ。才能に恵まれているつもりはないだろう。足りない分は、努力で補おうとしている。
夢に向かう努力。一見美しい。何の目標もなくギャンブルに明け暮れている俺と、西野とを比べて、どちらに抱かれたいかと女に訊けば、百人中百人が西野と答えるだろう。
何よりも、彼自身が今、人生を楽しんでいる。俺は楽しんでいない。世間からはいい歳して遊んでばかりと思われながら、その実、陰々鬱々としている。
彼は何かを生み出そうとしているのだ。俺はただリールを回している。
しかし、本当に彼の方が上等な人間だろうか?
大切なのは過程ではない。結果だ。睡眠時間を削り、貧乏に耐えることではなく、眩しいスポットライトや割れんばかりの拍手を浴びることが彼の目的だ。それが達せられる確率は何パーセントだろう? 一パーセントもあるのか?
設定一の台を一日回した時の勝率はおよそ三十三パーセント。西野の夢が叶う確率は、どう考えてもそれより低い。三人に一人もデビューしていたらこの世は俳優であふれかえってしまう。
設定六なら勝率は八十パーセントを超える。もちろん毎日設定六をつかめるわけではないが、遊びで打たず、リスクを排除し、着実に期待値を追っていけば、結果は必ずついてくる。
俺は生産していない。しかし、負けてもいない。
西野の夢は立派だ。誰もが評価する。けれど、彼はきっと勝てない。
彼よりも俺の方が優れていると思う人間は、この世界に一人もいないだろうか?
人でなくてもいい。神か悪魔でいい。勝算のない戦いこそ空虚だと、誰かあいつに言ってやってくれないだろうか。
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