第7話

 誰も利用する人がいない、肌寒いこの公園に、僕たちは足を踏み入れる。彼女は右手で僕のコートの裾をぎゅっと掴みながら、いつも座っていた噴水前にあるベンチを視線で追った。ベンチに辿り着くと、僕たちは座り込み、ぼうっと目の前の噴水を眺めながら無言の時間を過ごす。彼女は何かを懺悔するような表情を見せながら、一言も話しかけようとしなかった。そこで、僕はポケットにしまっていた、彼女にとっては馴染み深いはずの、『アレ』を取り出す。それを彼女の視線の先に突きつけると、彼女は雷に打たれたかのように目を大きく見開いた。


「えっ……これって、もしかして」


「昔、『アンが人間だった頃』にキミがよく使っていた、音楽プレーヤーだよ。――杏奈」


 縁の品とともに、僕は現実世界で忘れ去られた名前を、彼女――長野杏奈に告げた。杏奈は、信じられないと言いたげに、首を何回も横に振りながら、口を両手で塞いでいる。


「嘘……だって、あの時結んだ契約で私の事はみんな忘れたはず――かーくんだって、私の事はもう――」


 彼女の懐かしい僕への呼び名が、僕の耳へと流れ込んでくる。僕のことを「かーくん」と呼んだのは、世界でたったひとりだ。僕は一旦そのプレーヤーを自分の膝の上に置いて、頬を染めながら、杏奈に優しく語りかける。


「ごめんね、今まで杏奈のこと忘れてて。でも、やっと全て思い出したよ。今まで何があったのか、そして僕は杏奈を愛していたことも」


 十二年前告げるはずだった想いを、僕は今にも泣き出しそうな彼女に吐露した。死んでしまった後で自分の想いに気づき、僕も後を追いかけて天国で一緒になりたいなんて思った、幼い思い出とともに。


「かーくん……ごめん。本当にごめんね……」


「何で杏奈が謝るの」


「だって……私が死んじゃったから、かーくんはずっとずっと苦しんで……皆が悲しむのを見て、私の代わりになろうと努力し始めたのも私は全部知ってるんだよ……?」


「あれは勝手に僕が判断してやったことだよ」


「それでも、表じゃ絶対に泣き顔見せないで、家に帰って自分の部屋に篭った後で独り泣いてたのを、私はずっと見てた……!」


 杏奈はとうとうダムが決壊したかのように、わーっと泣き始める。


「私がアンに転生した理由だって、一番の理由はかーくんを苦しみから解放してあげたかったから……神様に相談したら、別の生き物に転生することで、『長野杏奈』の存在をこの世から消し去ってあげようって言われて……それで『アン』に転生したの。神様からは一生かーくんに会えずに、記憶からも消えてなくなるけどそれでいいのかって訊かれたけど――存在を消すことで、由紀ちゃんとの関係も進むだろうし、そうすることに決めた。実際それで上手く行ってたこともたくさんあった……けど、中途半端に消したのがよくなかったよね。私と過ごした記憶は、他の誰か――かーくんの場合だと由紀ちゃんにすり替わってしまったせいで、結局関係がこじれちゃったし……やっぱり、私ってバカだよ」


 彼女は涙を流しながら作り笑いをする。そんな彼女の頭を、僕は優しく撫でる。――アンを撫でてきた思い出が、心の中で溢れ出すのを感じながら。


「そんなことない。確かに、十年くらい杏奈の記憶を失ってたのは残念だったし、あの何を失ったかわからない喪失感は今でも覚えてるくらいに、辛かった。それでも、僕のために行動してくれたのは嬉しい。杏奈の行動がなかったら、由紀との関係も進展してなかったかもしれないし――」


「ホントにかーくんは優しいね。私は間違ったことをたくさんしてきたのに……」


「いやいや、杏奈がいなかったら今頃僕は人生台無しにしてたと思うよ」


 杏奈との思い出を振り返りながら、僕は苦笑した。もし、杏奈と出会っていなかったらどうなっていただろうか。無味乾燥な人生を送って、多分ひっそりと一生を終えていたことだろう。短い期間ではあったが、杏奈と出会えて幸せであったのは疑いようがない。


「全くもう……」


 少しずつ、杏奈の顔に笑みが戻り始める。やはり、杏奈の顔には笑顔が一番似合う。杏奈の涙なんて、あの事故の日に流した涙だけでいい。


「僕のことより――今はとにかく、杏奈が一時的にでもここに戻ってくれて本当に嬉しい」


「私も……かーくんが思い出してくれて嬉しい。だけど……なんでわかったの?」


 指で自分の涙を拭き取りながら、杏奈が抱いた疑問を僕にぶつける。僕は少し間を置いて、口を開いた。


「うーん……朝の段階だとさすがにわからなかったけど、映画見てだいたい思い出したかな。あの映画の和也と唯は――昔の僕と杏奈に似てたから」


「やっぱり映画かぁ……私も似てるなって思った。出会った頃の私たちはどっちも仮面を被ってて、本性を曝け出せずにいたよね」


 彼女は納得しながら、昔を懐かしむ。僕たちが初めて言葉を交わしたのは、今ならはっきりと思い出せる――司書さんも、図書委員もいない、放課後の無人の図書室だった。そこで僕はファンタジー小説を黙々と読んでいたのだが、突然杏奈が隣に座ってきたのを見て、あの時はとても驚いていた。あの頃の僕は、同じクラスの彼女となるべく関わりたくなくて、距離を置いていた。彼女は学校でナンバーワンの人気者で、勉強もスポーツも得意だったし、整った顔立ちで男子からの人気は絶大、明るいキャラクターで女子からも好かれていたという、超人みたいな存在だった。故に、彼女とお近付きになりたいと思う人は性別と学年問わずたくさんいて、彼女の周りはドロドロした人間関係だった。――僕も、杏奈のことは可愛いなと子供ながらに思っていたし、気になる存在ではあったが、彼女に接近した結果目をつけられていじめに繋がるのが怖くて、避けてしまっていた。そんな僕の行動を察して、彼女はわざわざ無人の図書室に乗り込んできたのだ。


「初めて話したとき、今じゃ考えられないくらい暗かったよね、かーくん。明らかに私のこと避けてたし」


「あの頃は……杏奈の周りが怖くてさ。本当は仲良くしたいと思ってたんだよ」


「わかってるよ、そんなこと。――私も正直うんざりしてたから、かーくんみたいにいっそ孤独に生きてみたかった。だから、ちょっと興味が沸いちゃったんだけどね」


 未だに公園に足を踏み入れる人はおらず、ただ僕たちの話し声と、時折噴水が吹き上がる音が流れるだけの空間で、杏奈は微笑む。2人だけの世界を作り上げているような――そんな心持ちがした。


「何はともあれ、あの時杏奈が話しかけてくれなかったら、今の僕はなかったし感謝してる。杏奈が洋楽教えてくれたおかげで、これに洋楽が詰まっているわけだしね」


 視線を噴水から膝においている音楽プレーヤーに移し、僕は両手でそれを触りながら、呟く。杏奈はそっと、僕の左手に手を置いた。


「昔はあんなに興味なさそうだったのに……あの『洋楽』プレイリストをリピートするくらいに好きになっちゃって」


「よく考えたら、あのプレイリストを作ったのは杏奈と一緒に聴いてもらうためだったんだよね」


「……それはもう叶ったね。杏奈としては無理だったけど、アンとしてなら二人でよく聴いてたもん」

「それじゃ、今度は杏奈として、一緒に聴いてみようよ」


 そう提案して、僕はぐるぐる巻きにしてあったイヤホンを丁寧に解いていき、電源ボタンを押し、画面が点灯する。タッチパネルを操作して、いつものプレイリストを開いていく。その後、イヤホンの形状を確認し、右耳用の方をそっと彼女の目の前に差し出す。彼女は遠慮がちに手を伸ばしてそれを掴むと、右耳にセットした。


「音量、調整してほしかったらすぐ言ってね」


 初めて『アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ』を聴かせてもらった時の彼女のセリフを少し真似ながら、僕は杏奈の顔を覗き込む。そして、あの曲が流れ始め、杏奈は「大丈夫だよ」と一言だけ告げて目を閉じる。

 僕もベンチに腰掛けてから同じく目を閉じて、思い出の曲を隣に座っている彼女と共有しながら、今までの記憶を呼び起こす。この曲のように関係がこじれてしまった由紀には、やむを得ない事情があったとはいえ、杏奈の姿を重ねて今まで付き合ってきたわけだから、本当に悪いことをしたと思う。きっと、由紀は自分の誕生日を忘れていたことよりも、僕が別の女の子――杏奈を由紀に重ねていたのが積もりに積もって、それをきっかけに爆発してしまったのだろう、と今なら推測できる。こんなことを言うと節操のない男だと思われてしまうかもしれないが、由紀もかけがえのない大切な存在であることは間違いなく、杏奈との約束を果たしたら、由紀との話し合いの場を無理矢理にでも作る必要がある。

 ――しかし、由紀のことを考えている間に、杏奈と別れなければならない時間は、刻一刻と差し迫っている。本当は別れたくない。昔のように、好きな音楽について語り合いたいし、気に入っている本を勧めたり、あのマンガの主人公はイケメンでかっこよかったとか女子みたいなことを2人で言い合ったり、そんな当たり前の日常を、親友として一生涯続けていきたい。だけど――それはもう叶わぬ願いだ。あの事件の後のようにいくら世界を呪ったところで、覆せない事実は死ぬまで僕を少なからず苦しめていくことだろう。

 それでも、僕は彼女のためにも人生をエンジョイしなくてはいけない。杏奈が気を病まないよう、由紀と2人で。――『アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ』の再生が終わると、杏奈は満足そうに頷いた。


「なんとなくいい曲だなと思ったから、かーくんに聴かせた曲だけど……まさか私が死んだ後、あんなに聴いてくれるなんてね」


「元々、あの『洋楽』プレイリストは杏奈のために作ったんだよね……まあ、アンと一緒によく聴いてたし、目的は知らず知らずのうちに果たしていたわけなんだけど」


「私が好きな曲ばっかり入れてくれて、嬉しかった。思わず、知らない女の子がパソコンの前に居座ってて混乱してるかーくんに『ありがとう』なんて言っちゃうくらいに感謝してる。――あの時、思わず『かーくん』って呼びそうになって、噛んじゃったんだよね」


 俯き加減で、杏奈は少し赤面した。名前を呼ぶのが恥ずかしかったのだとあの時は思っていたが、そうではなかったらしい。あそこで『かーくん』と呼びかけられてたら、彼女の正体に気づけていただろうか。多分、気づけそうで気づけないというモヤモヤが僕を支配していたんだろうな、と彼女を眺めて僕は思った。


「今日は神様に私のワガママを聞いてもらって、実現した一日限りのデートだけど……本当は何の制約もない世界だから、私の方からアンじゃなくて杏奈だって名乗っても良かったんだよね」


「何でそうしなかったの?」


「――ごめん、かーくんをちょっと試してた」


 両手を合わせて、一応謝罪するポーズをしておきながら、杏奈は唇を綻ばせる。公園に吹いた冷たいそよ風を感じながら、僕は苦笑する。


「もし気づかなかったら、それはそれでよかったんだ。だって、最後に一日デート満喫できて、生きてる間にできなかったことを叶えられるなんて、幸せなことだよ。アンとして隣を歩くのも、久しぶりの感覚で楽しかった。――ちょっと意地悪したのに、かーくんに気づけてもらえたし、最高の一日になったよ!」


 彼女のアッシュブラウン色のウェーブヘアが一陣の風で大きく揺れ、杏奈は笑いながら、もう未練はないとでも言いたげな主張を始める。――彼女は精巧な仮面を被るのが常だった。その仮面を被った少女は、学校全体を魅了し、本意ではなかったにせよ結果的に皆を支配していた。それによるいざこざに疲れた彼女は、図書室に閉じ籠もっていた僕を頼ってきたわけだが、あれから12年。『アン』として天寿を全うし、仮初の満足感を手にした気でいた彼女は、再び周りとの関係に悩み、自分の世界に閉じ篭もりそうになる僕に接近する。つまり――

 僕たちは、相互扶助の関係にある。僕が彼女に助けを求めたら、彼女が優しく手を差し伸べて僕を救ってくれる。そして、彼女が僕へと暗に助けを求めたら、僕は彼女の真意を見抜いて助け出す。二人とも年齢的には大人になったものの――杏奈はすでに死んでしまっているが――本質的なものは何も変わっていない。すでに前者は彼女のおかげでクリアしたと僕は確信しているので、このまま消えようとしている彼女の、最後の願いを叶えてやるのが僕の役目だ。


「杏奈として生きていた最後にたどり着けなかった、この噴水公園でこうして音楽を聞きながら共に時間を過ごせて、もう思い残すことはないかな。本当に今までありがとう」


 杏奈は耳に流れ込んでいた『U2』の『ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー』を最後まで聴くと、イヤホンをそっと外し、立ち上がった。彼女の瞳から涙が溢れ出しているのを、僕は見逃さない。


「それじゃ――」


「ちょっと待った」


 すっかり辺りは暗くなり始め、公園内の照明が点灯し始めている中、彼女が右手を小さく手を振ろうとした。その時、僕は素早くイヤホンを外すと、勢い良く立ち上がり――彼女を力強く抱きしめた。杏奈はびっくりしたのか少し固まっていて、両手をだらんと下げていた。


「まだ、約束を果たせてないじゃん」


「えっ……?」


「最後に公園で別れた日に杏奈が言ったこと、もう忘れちゃったの?」


 僕は耳元で囁きながら、せせら笑う。普段なら杏奈がムッとするところだが、この状況下でそんな行動を取れないのか、自分が言ったことを思い出そうとするだけだ。公園にしばし静寂が訪れた後、彼女が口を開く。


「……もしかして、これから華崎寺……行ってくれるの?」


 杏奈はそっと背中に手を回して、僕の反応を窺う。僕は「もちろん」と力強く言い放って肯定した後、どこかで拾ってきたような豆知識を披露したいかのような口ぶりで、彼女に語りかける。


「知ってた? 今年のクリスマス・イブは偶然にも土曜日なんだよ。――あの約束が果たせるなんて、運がいいね」


 そう言いながら僕は抱擁を解くと、杏奈の嬉し涙を流す姿が目に入り、女の子って難しいなと思ったが、そんな女の子が好きなんだから僕も大概だなと納得せざるを得なかった。

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