第5話

 ゆっくりとホームに入ってくる電車が停止して、アンが扉の隣りにある緑色のボタンを押す。この路線は、利用客が少ないため、こうして電車に乗るためにはボタンを押して開閉させなければならない。二人が乗り込んだ後、僕が赤いボタンを押して扉を閉め、近くの空いている座席に座る。中は暖房が効いていて、座席も熱で温められていた。


「本当に人いないねー」


「竹崎行きならそこそこ乗ってる人いるけど、家崎方面はあんまり……」


「竹崎駅は新幹線乗れるし、このあたりで一番大きい駅だし、何よりも駅弁おいしいもんね!カルマ弁当とか、竹の釜飯とか」


「釜飯は竹崎でも売ってるだけで竹崎名物ってわけじゃないんだけど……」


「あっ、そういえばそうだった。私、上に乗ってる杏が好きだったなー」


 頬を緩ませながら、アンが言った。何故、竹崎駅の事情を彼女が知っているのか、そして何故釜飯を食べたことがあるのか、それは今の僕にはわからなかったが、追求はせずに頷く。そんな話をしている間にあっという間に家崎駅に到着し、僕とアンは緑色のボタンを押して家崎駅のホームに降り立ち、赤のボタンを押して扉を閉める。ここでも、彼女が先に歩く形で改札を出る。出た先で、アンがこちらに振り向き、話しかけてくる。


「これから行くところはどこですかー?」


「どこだと思う?」


「んー、オートレース場!」


 そう言いながら、彼女はオートレース場のある方角を指差す。僕は面食らって、硬直する。


「やっぱり、そんなわけないよね……多分映画館かなって思ったけど、一回ボケてみようかと」


「はい……映画館が正解です。――じゃ、映画館はこっちだから」


 アンが指差した逆方向の方へと僕は歩き出し、それに彼女が追随する形で移動することになった。家崎駅に一番近い映画館は、徒歩で十分程度のところにある。僕が生まれた後に建てられた映画館で、比較的歴史は浅い。駅の構内から出て、あまり人通りの多くない歩道を歩いていく。そして、映画館近くの交差点で信号待ちしているところで、アンがこちらを向いて話しかけてきた。


「今日は何の映画を観に行くんでしょうかー?」


「えーと……『Dear』っていう映画にしようかなって。知ってる?」


 僕が尋ねると、彼女は力強く頷いた。


「うんうん、映画観に行くならそれ観にいきたいって思ってた! 確か、彼女とドームでの公演を約束して、主人公が四苦八苦しながらバンドメンバーを集めてドーム公演を目指す――って映画だよね?」


「それであってる。他にもいくつか候補はあったけど、アンとならそれがいいかなって思って」


 その映画は、十二月に公開が始まった映画で、口コミで観客動員数を伸ばしているヒット作だ。十月頃から由紀と観に行こうか検討していて、本来ならば由紀とこうして鑑賞するはずだったのだが、その事情は伏せておいた。アンなら気にしなさそうな気もするが、やはり他の女の子の話題はなるべくするべきじゃないと、僕は判断した。


「いやぁー、やっぱ海斗はわかってるね! ――さっ、早く発券しに行こうよ!」


 アンはウインクしながら、青信号になったばかりの交差点で、僕の左手を引っ張って歩き始めた。僕も久々の映画館で、テンションが上がっていくのを感じながら、目的地へ到着する。早速、中に入って発券機に向かったが、土曜ということもあってか観やすい席は全て埋まっていた。アンが「私はどこでもいいよ」と気を遣ってくれたことに感謝しつつ、僕たちはやや前側の、右隅の席に陣取った。そして僕が発券し終わった後、二人で売店に足を運んだ。


「海斗はポップコーン食べるの?」


 アンが売店の上に表示されているメニューを眺めながら、尋ねてきた。僕は少し間を置いて、


「うーん……せっかくだし、キャラメルポップコーンは食べようかな。あと、コーラあたりで」


 ――なんとも無難なチョイスに収束した。いつもキャラメルポップコーンは頼んでいて、飲み物はその都度気分で決めているが、今日は何となくコーラを頼みたい気分だった。


「じゃ、私も同じのにする!」


 アンが先に並んでいたので、先に呼ばれて、キャラメルポップコーンとコーラを店員に告げていく。――そういえば、彼女はお金を持ち合わせているのだろうか、と今更ながら不安に思ったが、彼女は持っていたグレーのバッグから、薄いピンク色の長財布を取り出したので、杞憂に終わった。

 そして間もなく僕も女性の店員さんに呼ばれたため、早歩きでカウンターへと向かう。注文を告げると、数分でポップコーンとドリンクのセットが手渡される。その店員さんは慣れた手つきで、笑顔で応対していた。僕は一言「ありがとうございます」と告げて、踵を返す。


 すでに上映されるスクリーンへの案内は始まっており、場内に入場を促すアナウンスが鳴り響いていた。僕たちは両手でポップコーンとドリンクのセットを持ちながら、ゆっくりとそのスクリーンへと歩を進める。アンは期待感からか足取りが軽く、鼻歌交じりで僕の一歩先を歩いている。そして、通路を通って上映されるスクリーンへ入場すると、暖色の温かい光が僕たちを照らして歓迎してくれた。周りの様子を窺ってみたが、高校生から大学生くらいの若い世代が大半で、年配の方はほぼ皆無という印象で、内容が若者向けであること、そしてこの作品がインターネット上のSNSにおいて口コミで広まったことを証明する客層だった。


「若い子が多いねー、お客さんも結構多い……」


「今上映されてる中だと一番人気があるはずだから。土曜日だし、学校が休みで暇な若い世代が来てるんだろうね」


「学校かぁ……私も中学とか、高校とか、大学とか行きたかったな」


 笑みを浮かべながら、しかし憂いを帯びた顔でアンが言った。確かに、犬は学校に行けないし、学校に行く僕を常に見送ってきたわけだから、羨望の目で見ていたのも無理はないだろう。実際、僕が学校行く時、あるいは休日部活に行く日は毎朝、玄関まで見送りに来ていて、物憂げな目で何かを訴えかけていたのはよく覚えている。だが――


「あー、私ね? 海斗を朝見送ってる時、確かに半日くらい帰ってこないのもあっていつも寂しいと思ってた。でも、海斗がいつも元気に学校行ったりしてるのを見て、安心もしてた。――これで、よかったんだって」


 アンは乾いた笑いをしていた。それは、無理して拵えた仮面のようで――僕の心が、きゅっと締め付けられたような気がした。


「余計なことしゃべってごめん……そろそろ映画始まるみたいだし、今のは忘れて!」


 彼女はそう言うと、ポップコーンを口に運んで、スクリーンのほうに目を向けた。僕は複雑な感情が交差するのを感じていたが、ひとまず心落ち着けようと、コーラを飲み、ポップコーンを咀嚼して、甘い味覚で応急処置することにした。――焼け石に水だったような気もするけれど。

 映画館では恒例の、これから上映される映画の宣伝と、カメラをモチーフにしたキャラクターが派手な動きで映画館での禁止行為を実演し、警察に扮したキャラクターに逮捕されることで、コミカルに観客へ禁止行為を伝える映像が流れた後、いよいよ映画が始まる。僕は映画の内容よりも気になることが1つあったが――それは、ひとまず忘れることにした。



 ◆



 映画の始まりは、主人公のナレーションからだった。切なげな声で、彼は観客に訴えかける。


「俺は彼女からたくさんのモノをもらったけど、俺から彼女にあげられるモノは、一つしかなかった」


 そのナレーションが終わると、薄暗い高層マンションの一室が映し出される。大型テレビの前に配置されている机の上にはダンボールがあり、その中に手紙がたくさん入っていて、テレビの隣には高そうなギターが置かれている。それらが映し出された後、主人公はパソコンが置いてある机まで歩いていく。そこで歩を止めると、木枠のフォトフレームに目を向けた。彼はゆっくりと手に取って、眺める。――目の笑っていない笑顔を作って、彼と共に写っている一人の少女に、何かを伝えたいと強く願っている――そんな表情で。

 ――僕はこの感覚を知っている。しかし、何故だかわからないが思い出せない。この突き上げるような悲しみの感情は一体何なのだろうか。

 主人公の葛藤を表現するワンシーンが流れた後、場面は主人公の高校時代へと進む。彼は教室の片隅で窓から外を眺めている一方、友人たちと明るく話す少女の姿――フォトフレームに収まっていたあの少女だ。彼女は誰よりも明るく、朗らかな性格でクラスの中心にいて、主人公とは対照的だった。しかし、その少女はたまにちらりと主人公の方を見遣る。自分の世界に引きこもる主人公を心配する表情を一瞬見せながらも、友達の方に視線を戻し、再び笑顔を作る。彼らには明らかな隔たりがあり、主人公の男はそれを望んでいるように見えた。

 その後、放課後になって主人公は帰宅するべく、学校の門を出ようとした。すると、後ろから声がかかる。


「あの、待ってください!」


 声の主はあの少女だった。主人公は振り返らず、立ち止まるだけで彼女の言葉を待つ。


「なんで、高校に入学してからそんなに暗くなっちゃったの……中学の時はあれほど人気があって、歌も上手くて、かっこよかったのに。――和也くんに憧れてたから、今の私があるんだよ?」


 彼女は主人公の男――和也に、心の底から湧き上がる感情をぶつけた。彼はそれでも振り向かないまま、渋々といった感じで口を開く。


「もう、人気者の演技するのは疲れた。だから同中の奴がいない高校に出願書類提出する直前で変更したのに、なんで唯はここにいるんだろうね」


 和也は人を小馬鹿にしたかのような薄笑いで、彼女との距離を縮めようとしない。それでも彼女――唯は、無理矢理縮めようと一回深呼吸をして、叫ぶ。


「――私は、あなたのことが好きだから! ずっと前から……合唱コンクールで中心となって動いて最優秀賞を勝ち取ったあの時から、私は大好き。だから……ここにいるの」


「へぇ、じゃあ――あの頃みたいなクラスの中心にいた『俺』が消えて、不満なんだ?」


 彼は相変わらず冷ややかに笑う。彼女の方を振り向かないまま、意地になったかのように。そんな彼の言葉に、唯は力強く頷く。


「そうだよ。不満だよ。私には、今の和也くんのほうが無理しているようにしか見えない。和也くんに何が合ったか、私にはわからないけど……また笑い合いながら、学校生活を過ごしたいって思ってる。あと……和也くんの歌もまた聴きたい。バンド組んだら日本一目指せるよ、きっと」


 胸を張って、彼女は言う。その瞳は真剣そのもので、嘘偽りなんて一切ないと主張しているかのような、自信に満ち溢れたものだった。しかし、それでも和也は振り向かない。


「ふーん、そうですか。――それじゃ、また来週」


「――明日、笛島駅前の猫の銅像前に、午前十時集合。その後、カラオケに行こう? お金は私が払うから。お願い」


 立ち去ろうとした主人公に、唯が目の前に立ち塞がって告げる。和也は目を伏せて、


「気が向いたら行く」


 ただそれだけ言い、その場を去った。そんな態度の主人公だったが、唯は満足そうに後ろ姿を見送る。――今はそれで充分だよ、と言い残して。

 僕は、ここまで観て主人公に対する不信感でいっぱいだった。自然と、ポップコーンをボリボリと食べ進めるスピードも早くなる。しかし、この光景には既視感があったのも事実だ。だって、これは――かつて『彼女』にしていたことと同じなのだから。その彼女とは、この夢の世界にやってくる前は確かに『由紀』のことだと脳が認識していたが、現在はそれが薄れてきていることに今では気づいている。それは、この世界に由紀がいないからなのか、それとも別の可能性か――まだ確証は得られないが。

 そして映画は、翌日のシーンに進む。九時半に駅に到着した彼女は、時間にまだ余裕があるからかゆっくりと待ち合わせ場所へと歩いていく。すると、そこには銅像の前で立ち尽くす和也の姿があった。


「どうして……」


 唯が驚愕しながら呟くと、和也は薄笑いで唇を歪めた。


「唯なら律儀に集合時間の三十分前くらいに来るだろうから、少し驚かせてやろうとね」


 この時ばかりは、性格の悪そうな笑みが気持ちよく感じられる。――僕の隣をちらりと観察すると、アンはポップコーンを食べる手を止め、じっとスクリーンを見つめていた。僕は主人公に対する不信感が未だ拭えないまま、ポップコーンを食べ、コーラを飲みながら二人の関係を見守っていく。

 彼らはこの日、まずファミレスでカラオケ店の開店時間まで時間を潰しつつ朝食なのか昼食なのかわからない食事を摂り、他愛のない会話を繰り広げながら、距離を縮めていく。唯はもちろん嬉しそうで、和也も満更でもない表情で共に時間を過ごしていく。そして、カラオケ店では和也が美声を披露し、一曲終わるごとに唯が絶賛するという光景が微笑ましかった。唯が歌った時は、和也が照れくさそうに褒めたりと、前日まではあんなに距離があった二人なのに、いきなり距離を縮めて急接近していて、やや不自然さはあったものの、元々二人の距離感はこんなものだったのだろうと思うことにした。

 その後、学校で昔の姿を取り戻していく和也に、唯も距離を置くことなく接するようになる。休みの日は和也が流行りの曲をカバーして歌ってみると、唯は「それ、『歌ってみた』で公開してみようよ!」と明るく言い放つなど、いい雰囲気で物語が進んでいく。


「将来、私のためにでっかいステージでライブしてほしいな」


 ある日の放課後、帰路の途中に突然唯が呟く。


「どうして?」


「だって、みんなに自慢できるから! 私の彼氏が一番すごいんだって!」


 唯はニッコリと笑いながら、和也を見つめた。そして、唯は話を続ける。


「あとさ……和也くん、来月に好きなバンドのチケット2枚取れたんだけど……一緒に来てくれない?」


 日が沈みゆく中、和也は頷いた。


「いいよ。俺も行きたいと思ってたから。――てか、俺でいいの? 他の友達のほうがいいんじゃない?」


 そんな無神経な発言に、唯は頬を膨らませる。


「もう……私は和也くんと行きたいの。それに、ライブ当日に渡したいものがあるから」


 赤面しつつ、唯が言う。和也は「渡したいものがある」という言葉から、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながらも、内心はライブを心待ちにしている様子だった。

 ――迎えたライブ当日。和也は指定された集合場所に、余裕を持って到着する。時折スマホで現在の時刻をチェックしつつも、間もなく来るだろうと思いながら待ち続ける。しかし、その日彼女は現れることはなく――彼女からの渡したいものの代わりに届いたのは1本の電話だった。


「もしもし……和也くんであってますか? 私は唯の母なんですけど……実は先程、うちの娘がクルマに轢かれたという連絡が入って――」


 崩れ落ちる和也を観て、僕は2回目の夢の内容を思い出す。

 あの、血に塗れた――赤い記憶を。


 唯は待ち合わせ場所への移動中、猛スピードで走る自動車と衝突し、この世を去った。和也は途方に暮れる。彼女のおかげでやっと自分を取り戻したのに、また逆戻りじゃないか――そんな風に世界を呪いながら。

 数日後、告別式に参列する彼に、引き締まった表情の唯の父親から話しかけられる。


「キミが……和也くんだね? 娘と仲良くしてくれて本当にありがとう。何やら、娘が亡くなった日に渡したいものがあったらしいんだが、実物は読めなくなってしまっていてね……代わりに、彼女のパソコンに入っていたデータを印刷してみたから、これを受け取って欲しい」


 そう言うと、唯が好きだったクマのキャラクターがプリントされている、1つの封筒を手渡された。その日のうちに開封して中身を確かめると、そこには歌詞のようなものが書いてあった。彼は泣き崩れて、それをそっと引き出しの中にしまうと、ある壮大な決意を固める。


「この曲をなるべく多くの人に伝える」


 そこから彼は、バンドに興味がありそうなメンバーを集めていく。和也のボーカルとしての資質に疑いを持っていた人には、実際に歌って聴かせて黙らせる。そこから先、バンド全体がいくつかの問題に立ち向かうシーンが描かれるが、僕は別のことで頭が一杯で、あまり印象に残っていない。

 紆余曲折を経て、彼はメジャーデビューを果たし、ヒット曲を数多く送り出してドームツアーも決定させる。最初のドーム公演で緊張する和也だったが、バンドメンバーに励まされつつ、彼は笑顔を浮かべる。彼は最愛の彼女から託された武器――『Dear』という曲を手に、舞台袖からステージへと歩いていく。観客からの歓声を受けながら、和也はマイクの前に立つと、観客に宣言するかのように言い放つ。

「最初の曲は、志半ばで亡くなった少女から託された、僕にとって命より大事な曲――『Dear』を歌います。聴いてください」


 観客から大歓声を受けると、和也たちは演奏を始める。この『Dear』で彼らは有名となったので、観客も大喜びして歓迎した。その演奏シーンが流れた後、和也は目を輝かせながら、満足そうな表情を浮かべて物語はエンディングを迎え、スタッフロールが流れる。

 ここで現実に戻されるような感覚が、ここの観客全員を襲う。もちろん、隣のアンも例外ではなかった。彼女は最初の方――カラオケデートしていたあたりから泣きはじめていたように思う。彼女に悪いなと思って、あんまり見ないようにしていたが、恐らく唯が亡くなったあたりのシーンは号泣していたはずだ。一方の僕は、いい話だと思ったものの、映画とは直接的には関係ないが、しかし似ている事柄について頭を悩ませていた。



 ◆



「映画、感動したよ……」


 スタッフロールが流れ、食べ終わったポップコーンの容器と飲み干したコーラの容器を運びながら、目を真っ赤にしたアンがそう漏らした。僕は軽く頷きながら、


「主人公が冒頭のシーンで気に入らない奴で心配したけど、結構あっさり改心しててよかったよ」


 そう答えたが、アンは僕の言葉にくすりと笑う。


「和也くんに似ている人、私は一人心当たりがあるなぁー」


「えっ? ……誰?」


「それは秘密」


 彼女は笑顔で容器を指定されたゴミ箱へと捨てていき、それに僕も続いていく。人混みの中、僕が捨て終わるのを確認すると、アンは僕の隣に移動し、繋いだ手をぎゅっと握った。


「なんか……昔を思い出しちゃったな。私もああいう感じに海斗とカラオケ行ったり、唯ちゃんは死んじゃって行けなかったけど、ライブデートしたりとか……したかった」


 悲しげに、それでいて諦めの色を表情に浮かべてアンは呟いた。僕は平静を装いながらも、手に自然と力が入ってしまうのは隠し切れなかった。


 それから僕たちは、近くのイタリアンレストランを謳ったファミレスに移動する。朝から飲み食いし続けていたため、僕はサラダとクラムチャウダー、そしてドリンクバーだけ注文した。一方、彼女はサラダとカルボナーラとドリアとドリンクバーを注文し、思わず「食べ切れるの?」と尋ねてしまったが、彼女は力強くイエスと答えて、親指と人差し指で丸を作り、オッケーのサインを送ってきた。一抹の不安は拭えなかったが、朝食もなかなかの食べっぷりだったし、僕より食べられるのは間違いなさそうだった。


「にしてもさ、あの映画……なんか他人事には思えないような内容だった」


 僕がドリンクバーで烏龍茶を取ってきた後、彼女は言った。僕は少し考える素振りを見せながら、


「ま、確かに……何かをきっかけに自分を変えるっていう主人公と、僕は似てた気もする」


 恐らく、アンが言ってた「和也くんに似ている人」というのは、十中八九僕のことだろう。あの時はとぼけてしまったが、アンと関わりがあった人なんて両手で数え切れる人数しかいないはずだ。――最も、『アン』の記憶に限定しなければ、候補は倍増するだろうけれど。


「うん、和也くんと海斗はよく似てたと思う。最初は気難しそうな感じだったけど、女の子のほうは本質を見抜いてて、なんとか変えていこうとするところがね」


「確かに、『由紀が変えていこうと試みた記憶』はあるよ、僕も」


「……でしょう? だから、由紀ちゃんは唯ちゃんみたいな存在なんだよ。――だから、決して失っちゃダメだよ」


 彼女はひどく神妙な顔つきをして、僕に忠告をしていたが、それが偽りであることは今の僕にはお見通しだった。だって、彼女の言葉はそう信じ込ませるかのような――悪い言い方をすれば、『魔女』のような言葉にしか聞こえなかったのだから。


「もちろん、由紀は大切な人だし……これから、元の世界に戻ったら彼女とよく話し合って、よりを戻すつもりでいる」


「そっか、それはよかった」


「でも」


 彼女の作り笑いを打ち消そうと、僕が遮る。


「……今は彼女と同じくらい大切な人がいる」


「あれー? 海斗くん浮気かなー?」


「浮気……か。そうだね、後輩の梓のことは濡れ衣だけど、こればっかりは浮気かもしれないね」


 茶化しにきたアンに対して、僕は苦笑いを浮かべながら、肯定する。間違いない、これは一時的であるにせよ――デートなのだから。


「私の事は今日が終わったら忘れてくれていいから、浮気にならないよ」


「いや、僕は忘れない」


「私がここで過ごした思い出を消せるとしたら?」


 運ばれてきたサラダやカルボナーラには目もくれず、彼女は表情を消して問う。それは、いかにも信憑性が高そうな口ぶりで、僕はどう答えていいか少し戸惑う。しかし、それでも彼女の問いには答えなければならない。


「消しても、僕はきっと思い出す。そうしてやるとも――大切なアンとの思い出は、もう忘れさせない」


 僕はそう言い放つと、アンは驚きで目を見張った。彼女が驚いた理由は、単純に僕が強い口調で言ったからなのか、真意に気づいたのか――それはわからない。


「ここで食事が終わったら、とりあえず帰ることにしよう」


「えっ……そんな、まだお昼だよ? もう少し付き合ってくれても――」


「家崎でしたいことはもう終わった。僕たちには、行くべき場所がある」


 帰ろうと告げた僕の提案に、すぐさま困惑の表情を浮かべたアンだったが、僕が続きを約束すると、途端に安堵の色が表情に浮かぶ。


「そっか。海斗がそう思ってる場所なら、きっと間違いないんだろうね。――じゃ、冷める前に食べよっか!」


 アンは笑顔でフォークを手に取ると、僕も笑顔で頷いて、サラダにようやく手を付け始めたのだった。

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