第3話
今回の夢は、今まで見たことのない『昔の記憶』だった。
噴水公園の外で自動車のけたたましいブレーキ音が響き渡り、僕の背筋を、嫌な予感が冷たく流れていった。ベンチから飛び上がり、ブレーキ音がした現場に走って向かうと、歩道の上で血が止め処なく流れ、ぐったりと横たわる少女を見つけた。何もない僕と違い、全知全能で女神様みたいな彼女が、今まさに命を散らそうとしていた。流れるような美しい髪も、頭から流れ出す血で朱に交わって本来の美しさを失い、目は虚ろで状況の深刻さを物語っていた。すでに轢いたとみられるクルマは走り去っており、彼女は轢き逃げされたのだという現実を直視する以外になかった。
嘘だ。嘘だ。ありえない。こんなの、絶対におかしいよ――
心の中で僕が叫ぶ。どうして何もできない僕じゃなくて、彼女がこんなひどい目に遭うんだろう。僕は、この世の不条理さを呪い、溢れる涙で顔がぐちゃぐちゃになりながら彼女を抱き上げる。
「かー……くん……」
僕に気づくと、無理に笑顔を作って彼女は僕の名前を呼んだ。『かーくん』と呼んでくれるのは彼女しかおらず、謂わば専売特許のようなものだ。彼女が死んじゃったら、もうその呼び名で呼んでくれる人はいなくなる。
「そんな……泣かないでよ。かーくんの……笑顔が……この世界で一番……好きなんだから」
「ねぇ……どうして」
「人は……いつかは……死ぬんだよ。わたしはみんなより少し……早いだけだよ」
血だらけになりながらも、笑顔で語りかける彼女。この世に未練がたくさんあるはずなのに、どうしてそんな顔を作れるのか、僕は理解できなかった。そんな僕の目から、彼女の顔に涙が零れ落ちていく。
「かーくんの涙……あったかい。でも……もう二度と……泣いちゃだめ……だからね」
弱々しいながらも、手を差し伸べてゆっくりと僕の頬を撫でた彼女は、泣きじゃくる僕に微笑む。
「そうだ……明日……行けなくなって……ごめんね? もう一度……遊びたかったな」
彼女の目尻に彼女が流した涙が流れ、初めて彼女の涙をこんな至近距離で目の当たりにする。いつの間にか、僕たちの周りには大人が集まってきていた。
「最後にさ……お願いがあるんだ。かーくんの……笑顔で……送り出してほしいの」
「で、でも……涙が止まらないよ」
「大丈夫……きっとまた……会えるから」
認めたくはなかったが、迫り来る彼女の死の前に、なんとか最後の望みを叶えてあげたい。そう思った僕は、右腕で彼女の体を支えるようにし、左腕で何回も涙を拭って、笑顔を作ろうと試みる。しかし、目は充血していたし、目元は笑っておらず再び泣き出しそうで、口元だけ笑っているという奇妙な表情が出来上がっていた。
「あはは……なにそれ……今までで一番……不細工だよ」
僕が頑張って作った笑顔を、彼女は『不細工』と酷評した。それほどまでに酷い顔なのだろう。僕が少し落胆するのを確認してから、彼女は最後に言う。
「でも……ありがと。わたしは……かーくんとであえて……しあわせ……でし……た」
彼女の体から力が抜け、事切れたのを認めたくない僕は、救急車や警察を呼ぶ慌ただしい大人たちの前で叫ぶ。このくそったれな世界を呪うように、いるのかいないのかわからない存在を思い浮かべながら、やり場のない怒りをぶつける。
「神様の……ばーか!」
僕の虚しい叫び声は天に届くはずもなく、いくら泣いても、力強く抱きしめても彼女は帰ってこない。僕はやはり、無力な存在だった。
せめて志半ばで亡くなった彼女に少しでも追いつこうと、僕はその日、星空が輝く夜から自分を変えていこうと決意した。それはただの自己満足でしかないのは重々承知していたし、彼女はそんなこと、多分望んでいないだろう。それでも、僕は彼女への恋愛感情にようやく気づき、もう叶わない彼女の隣を胸を張って歩くその姿を思い浮かべながら、彼女のように何でもこなせるようになりたいと、星空へ向かって切に願ったのだった。
◆
二回目の夢から醒め、僕は起床する。照明を落としているにも関わらず、部屋は窓から差し込む光で明るくなっており、朝になるまでずっと寝ていたらしいことを理解した。しかし、机の上で寝ていたはずなのに何故か布団の中で起床したのだが、そもそも一人暮らししている自分の家は布団は敷いておらず、その代わりベッドが置かれている。寝ている間に何が起きたのかわからず困惑したが、ここの天井には見覚えがあった。間違いなく、実家の僕の部屋だ。
実家と現在暮らしている都内のワンルームとは二百キロメートル以上離れており、寝ている間に僕を運んだというのは可能ではあるものの、普通は気づくだろうし、難しいだろう。となると、再び夢を見ている可能性が一番高いが、今までの『見せられている夢』とは違い、あたかも現実のような感覚で、ここにいる。
夢であるにせよ現実であるにせよ、まずは布団から出て確認すべきこと――例えば、今日は何年の何月何日なのかとか、両親は在宅なのか、とか――それらをチェックするため、さあ布団を剥いで起き上がろうとしたその時、何やらこの部屋でカチカチ、とマウスのクリック音がすることに気づいた。母か父かと思ったが、まず自分の部屋に入ってくることはないし、掃除か何かで入ったとしてもパソコンを操作するというのは今まで見たことがない。僕は一人っ子なので、兄弟が勝手にいじっているという可能性もない。となると誰なんだろうか、幽霊説が一番高そうな気がすると推察したところで、掛け布団を顔に被ったまま、こっそりとパソコンがある方へ目を向ける。
するとそこには、アッシュブラウンカラーのウェーブヘアで、上は白いパーカー、下は紺のスウェットパンツという身なりの女の子が、僕が実家に置いてきたヘッドホンをかけ、椅子に座りながらマウスを操作していた。音楽でも聴いているのか、頭を少し縦に振りながら画面を見つめている。後ろ姿しか確認できないが、僕と同い年くらいに見える。しかし、この女の子に見覚えはなかった。実は生き別れの姉か妹がいたのだろうか、なんて少し真面目に考えてみたりもしたが、やはり夢でも見ているのだろうと僕は思い直し、その考えを打ち消す。
過去の記憶を遡りつつ、彼女がこちらに気付いて、「私のこと、覚えてるよね?」なんて訊いてくる前に、誰なのかを記憶の底から掬い上げる作業を試みていたが、彼女が顔をこちらに向け、起床を確認されたことで、それは失敗に終わった。
「あれ……? もう起きたんだ! おはよ!」
「お、おはよう……」
その女の子は久々の再会を喜ぶかのように、満面の笑顔で僕へ挨拶した。彼女はやや日本人離れした顔つきをしており、ハーフかクォーターと推測したが、女優やモデルをやっていても不思議ではないくらいに容姿端麗で、少し胸が高鳴った。由紀は落ち着いた雰囲気で(誕生日の事件は除く)二人で並んでいると由紀が年上に見られることも多いのだが、この女の子は愛嬌があって、もし僕に妹がいればこんな子だったのかもしれないと思うほどに、初対面であるはずなのに距離の近さを感じた。
僕は観念して起き上がると、パソコンの画面を確認した。するとそこには自分がよく閲覧している小説投稿サイトが表示されており、そのサイトで僕がブックマーク登録していたウェブ小説――1年前から連載が始まり、半年前に完結を迎えた小説で、異世界に飛ばされた主人公が、成り行きでお姫様に恋をする、という内容だったはず――それを読んでいたらしく、中盤くらいのページが表示されていた。そして、タスクバーには音楽再生ソフトが起動されていることを証明するアイコンがそこに存在しており、彼女は音楽を聴きながら小説を読んで僕が起きるのを待っていたのかもしれない。
「その小説、どう?」
僕は彼女に視線を移すと、あえて彼女の名前を尋ねずに、その恋愛小説の感想をまず求めた。彼女は少し意外に思ったのか、眉を上げつつも、すぐに笑顔で返答する。
「うん、まだ途中だけど面白いよ! お姫様が攫われて主人公がこれから助けに行くところだけど、これでまた距離が縮まるんだろうなって思うとワクワクしちゃう!」
「あー、なるほどね。確かにそこまでは結構情けないところが目立つ主人公だけど、そのちょっと前くらいから人が変わったかのようにかっこいい男になるのがいいと思う、その作品は」
「人が変わったかのように……か。そんな感じだよね。――いきなり無理して自分を変えようとするのはよくないけど、自分のペースで変えようとしてるのは日に日に成長も感じられるし、好感が持てるかな」
若干重い顔になったようにも見えたが、彼女は再び目を輝かせ、主人公を肯定した。彼女はヘッドホンを外すと、音楽再生ソフトをクリックし、表示させながら言った。
「そうそう、このプレイリスト前から思ってたんだけど、本当にいい曲ばっかり入ってるよね! トップバッターの『アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ』はもちろんだけど、『オール・アメリカン・リジェクツ』の『スウィング・スウィング』とか、『スクリプト』の『スーパーヒーローズ』とかさ! 私好みの曲ばっかり入っててもう最高。――ありがとう、か……海斗」
顔を恥ずかしそうに赤く染めながら、彼女は例の『洋楽』のプレイリストに入っているはずの曲名を列挙していく。僕はポーカーフェイスを装いながら、居ても立ってもいられず、とうとう疑問をぶつけてみた。
「僕たち――過去のどこかで、会ってるよね?」
◆
左手でフライパンの取っ手を持ちながら、右手で菜箸を操り、溶き卵とウインナーを軽くかき混ぜながら炒め、塩こしょうを振りかけていく。
そう、今の僕は台所に立っている。しばらく腕を振るって料理してこなかったから、やや手つきが怪しいものの、作る相手がいるとなれば作らないわけにはいかない。冷蔵庫に入っているものから考えても、あまり凝ったものは作れないので、スクランブルエッグにウインナーを入れたものをまず炒めている。調理している間、彼女には僕の部屋でさっきの小説の続きを読んでもらい、準備ができたら僕が呼ぶことになっている。
――彼女は、先程懐かしい名前を名乗った。
彼女の発言、そして何より僕の中で昔親しくしていたかのような不思議な感覚が支配していたため、見た目では判断できなかったものの、彼女はまず間違いなく『過去僕と親密な関係にあった人物』であることは容易に想像できた。そして僕の疑問に、微笑みながら答えた。
「はい。その通りです。私が誰だかわからなくても、余所余所しく接してなくて私は嬉しい。――えっと、驚くかもしれないけど……私は『アン』と言います。一年前に死んでしまったけど、ここで飼われていた犬が、私の正体です」
正直、なんとなく気づいていた。というか、僕の記憶が改竄されていなければ、消去法で一つしかなかったのだ。彼女の「前から思っていた」という発言や、自然体でくつろぐその様子――図太い神経をしていたら、もしかしたら初対面でもこんな接し方をしてくるかもしれないものの、僕はそうではないだろうと判断していた――それと、心の奥底から湧き上がる追懐の情。当てはまるのは、僕の知りうる限りアンしかいなかった。
あまり意識はしていなかったが、『いつか由紀に聴かせるためのプレイリスト』として作った、洋楽のプレイリストだが、その由紀には一度も聴かせる機会はなく、聴かせていたのはいつも決まってアンだった。彼女は、一緒にいることを望むかのように、僕が家にいるときは僕の部屋にやってきていた。もちろん、両親とも仲良く接していたものの、僕とはそれ以上の関係であったように思う。そういえば、顔をペロペロと舐められていたり、彼女の目の前で堂々と着替えをしていた記憶もあるのだが――これ以上アンとの記憶を遡ると、何故か人間の姿をした、可憐な彼女を一目見ただけで赤面してしまいそうなので、そろそろ自主規制したいと思う。
名前を聞いた後、何故僕はここにいるのか、そして何故アンは人間となっているのか――いくつかの疑問点を再びぶつけてみたが、彼女は「それは後で教えるよ」と答えるだけだった。その後、僕は炊飯器の電源が入っていたので中身を確認すると、こうなるのが予め決まっていたかのように、一合分くらいのご飯が白く輝いていた。彼女がお米を研いだのか、それを確かめることはしなかったが、ここは自分が作るべきだろうという義務感から、こうして今台所に立っている。
フライパンの火を落としてスクランブルエッグを平皿に盛り付けた後、フライパンの隣に鎮座している鍋に火を通す。この中に入っているのはけんちん汁で、実はスクランブルエッグの前に作っておいたものである。そして、冷蔵庫にしまっておいたピーマンの肉詰めを取り出し、キッチンタオルで拭いたフライパンを再び熱し始めて、上に油を垂らしてから、肉を詰めた側が下になるよう、1個ずつ配置していく。そして蓋をして五分ほど蒸し焼きにした後、オイスターソースをメインに使ったタレを流し込んで煮詰めて、上杉家のピーマンの肉詰めが完成した。昔、小学生あたりまではピーマンが嫌いで食べられなかったが、母がこのピーマンの肉詰めを作ってくれたおかげで苦手意識を克服した、ということもあり、お弁当箱にもよく入っていた人気メニューだった。
そしてその三品をテーブルに並べて、ご飯茶碗(アンの方は来客用のものを使うことにした)に白いご飯を盛り付け、そしてグラスには冷蔵庫に入っていた緑茶を注ぎ、お箸(こちらも来客用に用意されているものを活用した)をご飯茶碗の上に置く。後は呼びにいくだけだったのだが、ちょうどその時、リビングにアンが現れたので、そのまま自分の席に着席となった。
「いやー、海斗ってやっぱり料理上手いよね! 家であんまり料理してなかったけど、たまに作ったとき本当においしそうに見えたもん!」
「でも、母さんのほうが明らかに上手だからさ……それにあの人、料理したがるタイプだからなかなか実家で作る機会がなくてさ」
「あー、それはわかる。でも、海斗が引っ越してからお母さん、やる気半減してたよ。海斗のためにおいしいご飯作ろうと毎日頑張ってたんだよ、きっと」
「そうなんだ……」
僕がいなくなった後の上杉家の内情を知ったところで、僕たちは両手を合わせる。彼女はピーマンの肉詰めを、僕はアンの目を見つめながら。
「いただきます」
二人で声を揃えて、アンは勢い良く箸を右手に持ち、まずピーマンの肉詰めを口に運んでいく。すると、何度も頷いて、ピーマンの肉詰めとご飯を飲み込んでから口を開いた。
「うんうん、やっぱおいしいよ! 海斗が作ったから余計そう感じるのかもしれないけど、温かい味がするね!」
「それはどうも……ピーマンの肉詰めを最後に作ったのは3年前くらいなんだけど、母さんがよく作ってたおかげでレシピなんとか覚えてた」
母に感謝しながら、僕もピーマンの肉詰めを一つ口にして味を確かめる。何かが足りないせいで母のものより味が落ちる気がするが、悪くはない味だった。
「そうだ、海斗。お姫様、無事救出されたよ」
僕が味を確かめている中、アンが読んでいたウェブ小説の進捗状況について報告する。
「おっ、そこまで読んだんだ。そこから話が終盤に向かっていくから、食べ終わったら続き読んでみなよ」
笑いかけながら、続きを読むことを勧める僕だったが、アンの表情は、カーテンの隙間から射し込む明るい光とは対照的に、深海のように暗かった。
「うーんと……そうしたいんだけど、今日は多分できないんだよね」
「そっか、それは残念だ」
彼女は黙々と食べ始め、けんちん汁をあっさりと飲み干して、僕より早いペースで箸を動かしていく。彼女が食事を終えた後、何か言いたそうな雰囲気だったので、僕もそれに合わせてなるべく早めに食事を済ませるよう、努力した。
そして、僕が数分遅れる形で上杉家の朝食が終わり、その後僕は食器洗いをする。アンが立候補したものの、この時期の食器洗いは水が冷たくて辛い思いをするので、僕がやることにした。
「食器洗いくらい、私がやったのに……」
「まあまあ、くつろいで待ってなよ」
アンが不満そうに漏らすが、僕は後ろを振り向かず食器を洗っていく。断ったとはいえ、僕も手が冷たくて早く終わらせたい欲が支配していたので、なるべく手短に済ませる。そして、淹れておいたコーヒーを、マグカップに注いでいき、アンのものには牛乳とグラニュー糖を多めに入れて、カフェオレにしたものを彼女の目の前に置いた。僕はブラックなので、何も入れずにマグカップで手を温めながら、アンの目の前に着席した。
「で……僕に話すこと、あるよね?」
薄めのブラックコーヒーを口に運んでから、僕が言った。正直、わからないことが多すぎて、早く彼女から回答が欲しかったというのが本音だ。アンはそれに対し、自分のマグカップをしばし見つめてから、こちらに視線を移して口を開く。
「うん……どこから話して、どこまで話せばいいかな……えーと、じゃあまず、この世界は夢の世界だから、現実世界じゃないんだよ。今日――クリスマス・イブが終わるか、あるいは私が終わりを望めばそこで閉じられる世界、って感じかな」
「今日が……クリスマス・イブ?」
「そうだよ。海斗はまた繰り返すことになっちゃうね。――この世界は私たちだけじゃなくて、便宜上他の人も存在してるけど、ご両親とか由紀ちゃんとか、海斗と親しい人は存在していなくて、だからこの家に私たちだけしかいないっていう訳なんだ」
そう言って、アンは甘そうなカフェオレを静かに啜っていく。死んだはずのアンが目の前にいるのもそうだし、おまけに人間の姿をしているというのも奇妙な話だったが、夢の世界という説明なら、ある程度は納得ができる。僕が実家にいるのもそのせいだということだ。しかし気になるのは、今日が十二月二十四日である、という点だ。彼女にとって命日に当たる日を彼女が選んだというのは――彼女が創造した世界かどうかはまだわからないが――並々ならぬ想いがあるだろうということは推測できる。
「海斗はさ、多分なんでこの世界に飛ばされてきたのか、きっと疑問に思っていると思うんだけど……簡単に言うとね、私のワガママなんだよ。だって、普通にここで一日過ごしたいだけなら、お父さんやお母さんがいても問題ないでしょ?でも――それじゃ私の望みは叶わない」
真剣な目つきで僕を見つめ、声を少し張り上げながらアンは言った。その表情は今までのにこやかなものとは明らかに異なり、僕は彼女が再び発言するのを待った。
「海斗が高校生になってさ、初めて由紀ちゃんをここに連れてきた時――私の態度が素っ気なかったのは覚えてる? あの時、多分私由紀ちゃんに嫉妬しちゃってたんだよね……きっと私が犬じゃなかったら、ああいう風に隣を歩いてたのは私じゃないかって思うと、つい……由紀ちゃんには会って謝る機会があったら正直謝りたいんだけどね」
彼女は苦笑いして、過去の過ちを悔いる。何回か会う内に溝は埋まっていったはずなのだが、アンは死んでもなお、初めて会った時のことを後悔していた。もう、由紀は気にしていないというのに。僕は黙ったまま話を聞いていたが、アンは一回深呼吸してから、言葉を紡ぐ。
「私、初めて会ったあの時から――海斗が好き。愛してる。キミはいつも私を助けてくれるヒーローみたいな存在だったから、自然と好きになったんだと思う。まあ、状況が状況なだけに、どうしても告白することができなかったんだけどさ。結局そのまま死んじゃったし、その機会が訪れなかったわけだけど――だから、無理矢理海斗に告白できる世界を作ったの。ごめんね、こんな迷惑かけて……おまけに、由紀ちゃんっていう可愛い彼女もいるのに。それでも、最後のワガママを海斗にお願いしたいの――私と、今日一日だけ、付き合ってください。」
最後の方は顔が伏せ気味になり、赤面しながらもアンは僕に今まで溜め込んできた想いを告白した。彼女にとって、初めて出会ったあの噴水公園の日は僕よりも遥かに印象に残っていることが、ひしひしと伝わってきた。僕はたまたま迷子の子犬を見つけて、家に連れ帰っただけというのに。
この告白に、僕はどうしたらいいか、時間が必要だった。彼女は返答を心待ちにしているから、なるべく早めに返事をしなくてはならない。僕が誰とも付き合っていないのなら文句なしで承諾していたと思うのだが、一応一ヶ月前まで由紀と付き合っていたわけだし、一日だけという約束とはいえ罪悪感が支配しそうで、僕は悩む。しかし、彼女はペットして飼われ、彼女の願いであった僕とはもちろん、他の犬とも結ばれることもなく一生を終えたわけだから、ここはアンの告白にイエスと答えるべきなのではないか、と思案した。少しぬるくなったコーヒーを飲んで時間稼ぎを行ってから、僕は重い口を開く。
「うん。――じゃあ今日一日だけ、恋人同士になろう。よろしく」
僕は右手を差し出すと、彼女は目を大きく見開き、明らかに動揺していた。
「えっ……嘘? いいの本当に?」
「由紀のことはもちろん気になるけど、せっかくのアンの頼みは断れないよ」
「本当の本当に?」
「嘘はつかないよ」
笑顔で返すと、アンの顔が水を得た魚のように、生き生きとした表情となっていく。そして、僕の右手を彼女の右手が優しく包むようにして、2人は握手する。
「やったぁ! 由紀ちゃんには悪いけど……今日、よろしくね!」
その時の彼女は『長年の夢が叶った』かのような喜びようで、まるでこれから散歩に行く犬のように、はしゃいでいたのが印象的だった。
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