第2話

 僕は明かりをつけたままの部屋で覚醒すると同時に、溜息を吐いた。

 どうやら、また僕――上杉海斗は作業中に寝てしまい、その間に小学生時代の思い出を『夢』で見て回想していたようだ。所々剥げてしまい、スポンジ部分が顕になっている椅子に腰掛け、表面がやや傷ついた机の上に突っ伏していた。目の前にあるパソコンの画面には、卒業論文用のファイルが開かれており、キーボードの隣には教授にダメ出しされたところが記載されたメモが置いてある。

 世間は十二月二十四日ということで、浮かれた雰囲気になっている。家族連れはクリスマスケーキやフライドチキンを買って、一家団欒のひとときを過ごそうとしていたり、あるいは子供へのプレゼントを買っておいて、子供が寝た後にこっそりと枕元にゲームソフトなどを置いたりしているかもしれない。カップルの場合は、どこかお洒落なレストランにでも行った後、家に帰って一夜を明かすのかもしれない。偶然にも今年のクリスマス・イブは土曜日で、翌日仕事やら学校やらの心配をする必要がない人が多い。それもあってか、例年以上に浮かれている気がする。そんなのを想像する度、今の僕は反吐が出そうだ。

 僕がクリスマス・イブを嫌っているのは間違いないのだが、昔から嫌いだったわけではない。嫌いになったのは去年のクリスマス・イブ、実家で飼っていた愛犬のアンが亡くなったのが最大の要因だ。去年の十二月二十三日、イブはどこに行こうかとウキウキしながらネットで検索していたら、突然母から電話がかかってきた。


「アンはもう長く生きられない、って獣医さんが……あんたが一番可愛がってたんだし、死ぬ前に会いに来なさい」


 いつもは甲高い声でベラベラしゃべる母が、妙に低いトーンで喋っていたのは今でも覚えている。僕はその日バイトが入っていたが、店に事情を話して休みをもらい、その後雨が降るなか都内にある最寄りの駅まで走り、少しでも早くアンの元へ着くようにと、新幹線で実家に近い竹崎駅まで行き、そこから父の運転する自動車でアンが入院している動物病院へと向かった。



 ◆



 死ぬ間際のアンに会いに行く話の前に、まずは僕とアンの出会った頃の話をしておこう。

 僕が小学校六年生から面倒を見ていたアンは、『オーストラリアン・ケルピー』という、日本ではあまり馴染みのない犬種のメスだった。名前の通り、オーストラリアでは牧羊犬として活躍しているそうだが、元々うちで飼われていた犬ではなく、実家のある希橋市の隣、竹崎市の家で飼われていた。そこの家では三十歳くらいの男性が一人で暮らしていたそうだが、アンを飼いはじめてからそう経たないうちに酒に溺れはじめ、次第にアンへ暴力を振るうようになった、と昔警察の方に聞いた。暴力がエスカレートしていく中、アンは隙を突いて脱走し、遠路はるばる希橋噴水公園まで走ったらしい。元々オーストラリアン・ケルピーという犬種はエネルギッシュで、運動量には自信のあるとのことだが、それでも元飼い主の家があるという地点からは数キロ離れていた。

 あの日は十月のよく晴れた日だったが、学校が終わり、なんとなく噴水公園に寄りたいと思っていた僕は、一人で公園に向かい、そして『由紀』と常に寄り添っていた特等席のベンチへ腰掛けようと思ったその時、ベンチの横に一匹の犬がへたり込んでいた。その犬がアンだったわけだが、非常に疲れた様子ながらも、僕を見るとすぐに立ち上がり、ベンチに座っていた僕の脚に飛びついた。


 それは、まるで久々の再会を心から祝福しているかのような――そんな様子であった。僕はアンを両手で抱きかかえると、アンは僕の顔をペロペロと舐め始めた。正直、初対面の人間にここまで懐くのは驚きでしかなかった。フレンドリーな性格なのかとその時は思っていたが、後で警察官に虐待されていたという事実を突きつけられ、驚きで目を白黒させたのは今となっては懐かしい記憶だ。


「キミ、うちに来る?」


 僕が顔を覗き込みながらアンに尋ねると、アンは一回だけ吠えてそれに答えた。恐らくイエスと言いたいのだろうと都合のいい解釈をして、公園でくつろぐ計画を中止し、日が傾いていく中、アンを連れて自宅へと向かった。偶然にも、犬を飼おうかという家族会議をした直後だったので、帰宅したときに居合わせた母が「いいタイミングだし、可愛いねこの子!」などとハイテンションに語っていた。

 しかし、首輪もついていたし、どこかの家から脱走したのかもしれないということで、ひとまず警察に連絡を入れ、飼い主が見つかるまでうちで面倒を見てくれないかと頼まれたため、しばらくうちで面倒を見ることになった。

 そして、一週間が経ち、アンを散歩に連れていって帰宅した直後、警察から電話が来た。


「本来の飼い主が逮捕され、おまけに動物虐待もしていたという証言を近隣住民の方々から得たので、上杉さんのところで飼えるなら飼ってもらいたいんですが……いかがです?」


 その電話は僕が出て、「少し待ってもらえますか」と答えて保留ボタンを押すと、居間にいた母に電話の内容を話すと、母は「よっしゃあ!」と大声で叫んでたのですぐに受話器を取り、「うちで飼います」と一言警察の方に伝えて、その日からアンは上杉家の一員となった。仕事から帰ってきた父がその話を聞くと、


「正式にうちで飼うなら、名前を決めないとなぁ」


 と、呟いた。それまでは名前を決めておらず、飼い主がわからないのに勝手に名前をつけるのはよくないと家族会議の結果決まったので、不便だが手を叩いたりして呼び寄せたりしていた。両親からは、拾ってきたお前が名前を決めろと言われたので、全ては僕のネーミングセンスに委ねられた。


 しかし、僕は名前を決めるのに時間は要しなかった。何故かアンを見つめていると昔会ったことのあるような、懐かしい気持ちにさせられ、僕が過去に失ったものを補ってくれるような――言葉で表現するのが難しく、こんな抽象的な表現で申し訳ないが、そんな不思議な感覚で相対していた。


「この子の名前は、アンにしよう」


 僕はそう言い放ち、両親は頷き、アンはきょとんとした表情を見せた。

 恐らく、ペットの名前なんて可愛いからその名前にしたとか、有名人から取ったとか、多分そのような深い意味合いはないものが多いはずだ。現に僕も、深い意味合いがあってつけたわけではない。『アン』という名前ならシンプルで呼びやすいし、可愛いかなと思ってつけただけなのだ。だが、その名前が妙に懐かしい気分にさせてくれたのは確かだった。その理由は、アンが死ぬまでとうとうわからず仕舞いだったが。


 以降、僕と両親とアンの生活がスタートする。アンはとても利口で、たまに人間の言葉を理解しているのではないかと思う時があった。例えば、家族と一緒にテレビをよく見ていたし、僕が自分の部屋でマンガを読んでいると必ずといっていいほど隣に座り、マンガに顔を近づけてきた。作品によっては途中で飽きてどこかへ行ってしまったりしたが、恋愛が描かれているマンガだけは例外なく最後まで読んでいた。テレビならまだわかるが、マンガを読む犬なんて聞いたことがないので、不思議でしかなかったものの、さすがに内容を理解しているわけでなく、僕のやっていることに興味があるだけだろうと、気に留めなかった。

 中学と高校はサッカー部に所属していたため、オフの日は少なかったが、数少ないオフの日はなるべくアンと一緒にいるようにした。『彼女』から教えてもらった洋楽をBGMにしつつ、読書したり勉強したりマンガを読んだり、あるいは一緒に散歩に出かけたりした。アンが一番気に入っている散歩場所は、出会いの地だからなのか、あの噴水公園だった。沈みゆく夕日の中、散歩に連れて行くと、アンに引っ張られる形で、先導されて噴水公園の方へ走っていくのがいつもの光景だった。そして、噴水公園に着くとあのベンチに腰掛け、目の前の噴水を眺めたりして特に意味のない、でも心地よい時間を過ごしていく。そして、日が沈んだら家に向かって歩き出す。特別なことは何もせず、ただそれだけだったが、僕とアンには欠かせないものだった。

 こんなかけがえのない時間がいつまでも続けばいいのに――僕、それに加えてアンも恐らくそんなことを思っていた。しかし、大学進学をきっかけに僕達の関係は崩壊へと突き進んでいく。


 僕は猛勉強の末、都内にある難関大学への合格を果たす。両親はもちろん喜んでくれたし、アンも嬉しそうな僕を見て喜んでいたように思う。しかし、大学は実家から遠く、さすがに一人暮らしをせざるを得ない。両親やアンと離れ離れになるのかと思うと辛くて寂しい気分になったが、


「僕が帰ってきたら、また遊ぼうな」


 アンとそんな約束をして、僕は実家を離れた。大学に入学すると、サークルに入ったり、バイトを始めたり、勉強したり、課題をこなしたりで、二ヶ月に一回は実家に帰ろうと思っていたが、年末年始とお盆くらいしか帰れず、その分実家に帰ってこれたときはアンと一緒にいる時間を大切にして、愛情を注いできた、つもりだった。だがそれは、多分僕の自己満足でしかなかったのだと思う。



 ◆




 そろそろ話を元に戻そう。

 僕が動物病院に着いた時、アンの意識はなく、辛うじて生き長らえているという状況で、もう風前の灯だった。そんなアンの姿を見て、僕は人目を憚らず涙を流す。そして、アンに顔を近づいて語りかける。


「アン、ごめんな……もっと、一緒にいたかったよな……また、あの公園でふたりっきりの時間を過ごしたかった……キミのことは、絶対に忘れないから」


 もう、死が近いのは痛いほどよくわかっていたし、「死なないでくれ」なんて無責任なことを言うのは僕にはできず、アンに対して謝ること、そして築いてきた思い出を一生大事にすることを誓うことしか、僕にできることはなかった。そうして翌日になり、動物病院からアンが死亡したという連絡を受けたのだった。その日、ここでは珍しくクリスマス・イブに雪が降り、僕が覚えている限りでは今までで一番泣き、別れを惜しんだ。それが、今から一年前の出来事で、そこからクリスマスが嫌いになった。クリスマスが来ると、どうしてもアンのことを思い出してしまうから。


 そして、クリスマスが嫌いな理由が今年はもう一つあった。


 僕にはお付き合いしている彼女がいる。夢に出てきた、『北条由紀』という女の子で、今は都内の別の大学に通っている。彼女との昔の思い出を、先程の夢のような形で回想することが多い。それはアンの死後、顕著になったように思う。彼女とは小学生だった頃、まだアンを飼う前にあの公園で遊ぶことが多かった。

 実際付き合ったのは中三のときで、最後の大会の市大会決勝、彼女に「応援しに来てほしい」と僕は彼女に頼んだ。相手は市で最強、関東大会でも上位に食い込める実力を持った中学だった。正直、この相手に本気で勝てると思ってたのは僕くらいだった。顧問ですら、


「今日の相手はみんな知っての通り、うちが今まで勝ったことのない相手だ! 悔いのないように戦ってくれ、以上だ!」


 と、普段は試合前戦術について細かく指示するのに、戦術的な指示を出さないくらいには顧問も半ば諦めムードで送り出していた。それでも僕は簡単に諦めたくなかった。サッカーにおいて、番狂わせなんてそう珍しいものではない。一発勝負のトーナメントなら尚更だ。だからキックオフ直前、ガラガラの観客席にいる彼女に視線を送ると、笑顔で親指を立て、勝利を信じてほしいと彼女にアピールした。彼女が数回頷くのを確認すると、僕はピッチに視線を戻し、試合に集中した。

 前半はディフェンス陣が奮闘して無失点でハーフタイムに入ったし、後半も一瞬のミスを突かれて失点しただけで、みんなよく頑張っていたと思う。僕もなんとか点を取ってそれに応えたいところだったが、複数人で毎回潰しに来るせいで、シュートすら撃てない状況が何度も何度も続いた。

 そして後半のアディショナルタイムを一点ビハインドで迎えた僕らは、右サイドを切り崩すことに成功し、そこからのクロスを僕が決めて同点に追いつき、勝利を決めたかのような喜びをベンチと分かち合った。しかし、延長戦でとうとう力尽き、一対三で敗戦となった。もちろん悔しさはあったし、由紀の目の前でもっといいところを見せたかったというのが本音だ。


――いつからだろう、人前でいいところを見せようなどと思い始めたのは。


 試合後、由紀は美しい黒髪をその日はポニーテールにして、試合会場から引き上げる僕の目の前に現れた。彼女の目は何故か濡れて、今にも雫がこぼれ落ちてしまいそうなほどに潤んでいる。


「海斗……かっこよかったよ」


「本当は勝つつもりだったのに、負けてごめん」


 由紀は首を振り、ユニフォームからTシャツに着替えたばかりの僕をいきなり抱きしめてきた。僕は立ち尽くし、彼女の体温を感じるだけだった。


「海斗くんに、伝えたいことがあります」


 由紀が話を切り出して、彼女は僕から離れる。僕は会場の木々から聞こえてくるセミの大合唱を聴きながら、胸の高鳴りを感じていた。


「昔から……小学生の時からあなたが好きです。私と付き合ってください」


「……うん、僕も好き。こちらこそよろしくお願いします」


 正直、試合に勝ってかっこいいところを見せた後、僕から告白しようと思ったのにこの日の由紀の積極的なアプローチにはやられてしまった。多分、試合に負けてしまって告白する気になれなかったので、また機会を逃すところだった。その点では、彼女に感謝しなければならないな、と思いながら帰宅したのを覚えている。――ずっと前から好きだったはずなのに、僕達は想いを打ち明けるのに時間を要しすぎた。


 そこから、色々なことがあった。僕の家に初めて招いたときの母の喜びようは、近所迷惑レベルでひどかった。一方、アンはそこまで由紀に懐かなかった。警戒心が強い犬種だというのもあったかもしれないが、それでも何回か会ってようやく懐き始めた。父は付き合い始めてから、


「お前らはどこまで進んだんだ? あまりハメを外しすぎるなよ」


 などと、顔を合わせる度にセクハラまがいの発言で僕をたまにキレさせた。普段は頼れる親父だが、恋バナになると性別が変わったかのようにグイグイとこちらにあれこれ尋ねてくるのは意外で、以降現在に至るまで頭を悩ませることになる。最近だと、


「お前らはいつ結婚するんだ? 式にかかるお金はパパがなんとかしてやってもいいぞ。パパもママも孫の顔が見たいから卒業したらすぐしなさい」


 このような、婚姻を迫るような発言が目立つ。確かに、それもアリかもなって思ったりもしたため、満更でもない反応で父を期待させたりもしたが――状況は先月あたりから急速に悪化した。


 事の発端は十一月十八日、由紀の二十二回目の誕生日の日だった。その頃、僕は卒論に追われていたり、あるいはバイトで些細なミスを連発して精神的に追い込まれていた。十月以降は彼女も卒論で忙しいというのもあり、一度も会ったことはなく、たまに連絡を取り合う程度だったが、それは大した問題ではなかったように思う。ここを乗り切れば今まで通りデートする時間もできるし、二人の時間も増えると確信していたから、連絡を密に取らなくてもわかり合っていると僕は思っていた。

 しかし、彼女の誕生日を他のバイトが急病のため、ヘルプで入ったりなどという僕がすっかり忘れてしまい、翌日珍しく彼女から電話がかかってきた。


「ねぇ、昨日何の日だったか知ってる? それと最近連絡取ってないけど、どうしたの?」

「悪い、忘れてた……連絡取ってなかったのは忙しかったからさ」

「嘘ばっかり……本当はバイト先の女の子と仲良くしてるんでしょ? ここ一週間一切連絡ないから、気になって昨日店の外まで行ったけど、仲良さそうにしゃべってたじゃない!」

「あれは違う……あの子はゼミの後輩だから卒論について色々アドバイスしてただけで」


 必死に弁解する僕の声はか細くて、情けなかった。本当のことではあったが、あれを見られていたら誤解されても文句は言えなかった。明るい性格の後輩なので、ちょっとした会話のつもりだったが、会話が弾んでいいムードになっていたように思う。そんな光景を由紀から見たら浮気しているように見えても仕方がない。

 一方の彼女の声は怒りで震えていた。ここまで怒っているのは初めてのことで、それだけの失態をしでかしてしまったのだと、僕は顔を俯かせながら自分を責めた。


「もう、わかったよ。私に構わなくていいから。誕生日忘れられたくらいで怒って電話してる彼女よりその子と喋ってるほうがよっぽど楽しいでしょう? ――じゃ、さよなら」


 由紀は一方的に通話を切り、それ以降何度こちらが電話をかけても、あるいは別の手段で連絡を取ろうとしても無視されてしまう。そして、十一月三十日にようやく彼女から連絡があったのだが、


「しばらく距離を置くことにします。別の子と付き合っても構いません。今までありがとうございました」


 という、端的で破局したも同然のメッセージを受け取り、僕は何も打つ手がなくて、とうとうクリスマス・イブを迎えた。あの日から卒論も教授にダメ出しされることが多くなり、バイトも致命的なミスを犯すようになり、最近は昔ほどシフトを入れないようにしている。つい先日、例の後輩から、


「なんで最近あんまり入らないんですか?」


 と訊かれたため、卒論が忙しいから、と答えて誤魔化そうとしたが、つい誰かを頼りたくなって、彼女から事実上の破局宣言をされたことを打ち明けた。そして、その後それに至る経緯も全て話した。するとその後輩――成田梓は、頭を抱えながら話した。


「あー、あたしのせいかぁ……申し訳無さしかない……あたしが言うのはおかしいかもしれないですけど! 絶対に由紀さんと別れちゃダメですよ! 今は色々と大変な時期でしょうから、ショックを受けてる余裕がないみたいな感じかもですけど、社会人になったら絶対に後悔しますって! ――とにかく、あたしのせいで別れたみたいなのは勘弁してほしいですし、力になれることがあればいつでも相談に乗りますから!」


 梓は顔を近づけて僕に問題の解決を迫った。当事者の僕は、ただひたすら相槌を打って、最後に「ありがとう」と感謝を述べる他になく、僕はこれほどまでに情けない人間だったのかということを改めて思い知るのであった。



 梓に打ち明けてから、今日に至るまでどうすればよりを戻せるかあれこれ考えたが、何も閃かないまま、こうして僕は左手で頬杖をつき、マウスを操作して音楽再生ソフトを起動する。そして『洋楽』という名前のプレイリストを開くと、かつて噴水公園で彼女に教えてもらった曲が流れ始め、それと同時に彼女のセリフを思い出す。


「もうタイトルがすれ違いを象徴してるんだけど――」


『アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ』という曲の内容のように、僕たちは知らず知らずのうちに関係が崩れてしまったことを、『バックス』の切ない歌声とともに、思い知る。初めて聴いたあの日、まさか僕が持っていないものを全て持っている彼女と、こうして男女の関係になるなんて想像できなかった。まだ幼いあの時の僕が、由紀と付き合って、親から結婚を催促される中、破局の危機――実際にはもう破局していると行っても過言ではないが――を迎えているだなんて知ったらどう思うだろう。まず間違いなく「バカ。アホ。ドジ。マヌケ」などと罵倒されるだろう。本当に、僕は大馬鹿者だ。

 しかし、自分が悪いと思っていても、電話やコミュニケーションアプリ以外の選択肢を取れない。僕は彼女の家を知っているし、合鍵も持っている。だから、強硬手段に打って出ることは不可能ではない。それでも踏み切れないのは、やはり今の自分に自信がないからだろう。実際に会って、本当に関係を修復できるのかという疑問に、僕は胸を張ってイエスと返答できない。

 彼女から百パーセント信頼されるような男になるなんて、中三のときだったか、あるいはもっと前だったかもしれないが、そう決意したことも今となっては嘲笑する他ないだろう。所詮、人間は本質的に変われない。化けの皮が剥がされたら、こんな情けない人間の屑が出てくるだけなのだ。


 一曲目の再生が終わると、次の曲が始まる。このプレイリストは、『彼女』が好きそうな曲ばかりを集めたものだが、実は一度も聴かせたことはない。


「イヤホンを共有するアレ……もう一度、したいな」


 そんな悲痛な叫びを上げながら、僕は照明を落として机に再び突っ伏すと、睡魔に誘われるようにして再び眠りに落ちていった。

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