横尾くんは語る、地球の反対側に行く予定ならば話はべつだと
人間は、無意識のうちに下を向くことはあっても、上を向くことはほとんどないらしい。
言われてみれば、気づいたら俯いていたということはあっても、知らない間に空を仰いでいたという記憶はあまりないような気がする。
私たちはいつだって、自分の意志で顔を上げているのだ。
「僕は昔、月が光っているところを見たことがあるんだ」
何気なく呟かれた一言。
左隣りに座る横尾くんはぼんやりと何の変哲もない天井を見上げている。
「今でもよく覚えている。あれは小学校一年生の時のことだった。その頃になってやっと月の形が毎日変わることに気づいた僕は、毎日のように月を眺めていた。すると、月の一部がこう、まるで落雷が迸ったかのように光り輝いたんだ」
月の満ち欠けに意識を傾けるようになったのは、いつからだろう。
私は、月の一部が発光するような光景は見覚えがない。
いいな。羨ましい。私も見てみたい。
きっとそれはとても美しいものなのだろう。簡単に想像することができた。
「……君は面白いね。月が光ったことを両親や友人に言った時、それを信じてくれる人は誰もいなかったよ。でも君は羨ましいと言ってくれるのか。やっぱり君は生粋のロマンチストか、とんでもないオタンコナスかのどちらかだね」
ロマンチストとオタンコナスだったら、さすがに前者の方がいいな。
それに月が光ったっていうのも、本当のことなんだと私はまるで疑わなかった。
月が光る。なぜかそれは私にとってとても当たり前のことに思えた。
「そうだね。僕は間違っていない。月の発光現象は“LTP”といって、実際に世界中で確認されていることらしい。月が光る原因は、ガスの噴出だとか、流星の衝突だとか諸説あるみたいだけれどね」
Lunar Transient Phenomen、と横尾くんはノートの端に書き綴る。
どうもそれが月の発光現象を示す通称のようだ。
いつか私もその月の瞬きを見ることができるだろうか。
「どうだろうね。あれから僕も暇な時はよく空を見上げてみているけれど、今のところLTPをもう一度見たことは一回もない。たしか数百年も前から世界では目撃例のある現象みたいだから、これから先の人生であと一度くらいは見ることができるかもしれない」
そっか。じゃあ、私にもまだ月が光ってるところを見るチャンスがあるんだね。
今日とかさっそく月を観察してみることにしよう。
「……ふふっ。今日はやめた方がいいと思うよ。今日君が月の光輝くところを見ることはたぶんないからね」
どうしてそんなことがわかるの? 見れるかもしれないじゃん。
私は少しムッとして、横尾くんに向かって唇と尖らせる。
でも左隣りの彼は穏やかに笑って、夏の空を窓から見上げるだけ。
「だって今日は新月だからね。ふつうの日本人はそもそも月を見られないんだ。もっとも君が今晩、地球の反対側に行く予定ならば話はべつだけれどね」
横尾くんはまだ窓の外を見つめたまま。
だから私は、今だけはこっちを見ないで欲しいと切に願う。
だって今の私の顔は羞恥に赤く光り輝いていると、これ以上ないくらいに自覚できていたから。
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