竹のおまけ 1歳と17歳
「健太」
「なに?」
やべ、と思った時には遅かった。振り返った先には、1歳児に向かってスプーンを突き出す若い母親が、健太を見上げて半笑いのまま固まっている。
「し、失礼しました!」
健太が頭を下げるのと同時に、その家族、常連の三谷一家が笑い声を上げた。
「竹中君、下の名前、健太っていうんだ」
特に嬉しそうなのは三谷氏だ。孫の頭を撫でながら言う。
「字は? どう書くの」
健太が説明すると、三谷氏はさらに喜んだ。
「良かったなあ健太、お兄ちゃんと字まで同じだって」
「何かご利益ありそうねえ」
三谷夫人が言うのを聞くと、自分が招福グッズか何かになったみたいだ。
ともかく、この聞き違いはすごく恥ずかしい。健太はもう一度、失礼しましたと言い、手にした皿を落とさないように気をつけながら、急いでその場を離れた。
* * *
それから数日後、珍しく娘さんと1歳児健太だけが来店した。三谷氏によれば、娘の理世さんは現在シングルマザーで、息子を保育園に預けて働いているらしい。
「いつもは実家で食べさせてもらうんだけど、今日は二人とも用事があるっていうから」
その後の言葉は聞かなくても分かった。仕事の後で夕食を作るのは面倒、ファミレスで済ませたいという気持ちは、健太にも少し分かる。自分の場合は当番制だから週に2、3回だし、料理は得意なのでそれほど苦にはならないが、それでも遊び疲れた日には、ふりかけごはんでいい? と言いたくなる時がある。こういうこと考えてっから、友達に“母ちゃんか!”とか言われるんだな、オレ。
ちび健太は、今日は少しご機嫌斜めらしい。時折、普段は出さないようなぐずり声を上げている。そのせいか、理世はかきこむようにして食事を済ませると、早々に立ち上がった。
「ゆっくり食べられないのは、子育て中の宿命よねえ」
ごちそうさま、との声に礼を言って、健太が皿を回収し厨房に戻ろうとすると、ちび健太が母親の腕の中でじたばたしているのが見えた。レジ係はレジ係で、どうしたものかとおろおろしている。
「もう、落ちちゃうってば」
と母親が言ったところで、1歳児が聞くはずもなく、身を反らせるようにして不機嫌オーラを放出している。それを片手で支えながら、理世がもう片方の手でコートのポケットを探っているのを見て、健太は急いで皿を戻しに行った。
再び、母子のところへ向かうと、理世がポケットを叩きながら慌てている。
「バッグの中だった? やだ、ちょっと」
「三谷様」
「え」
「よろしければ、息子さんをお預かりしてましょうか?」
「すごく助かるけど、大丈夫かな。うちの子かなり人見知りだから」
そう聞いて不安にはなったが、バッグから財布を取り出すまでの間だからと、健太は健太に向かって手を伸ばした。
「おいで、健太同士仲良くしよう」
声をかけると、1歳児が動きを止めた。涙にまみれた顔で、うーと唸ったが、意外にも健太の方へ体を預けてきた。
「すごい、うそみたい」
理世が驚いている。
「じゃなかった、財布財布」
バッグをがさがさやっていたが、何か思い出したのか、
「あ、さっきコンビニ行った時だ」
そうつぶやくと、健太とレジ係に向かって手を合わせた。
「ごめんなさい、財布、車の中にあるから取ってきていいですか」
レジ係がどうぞどうぞと出入口を指した。
「健太、ママすぐ戻るから、お兄ちゃんと待ってて」
反応はない。幼子は左手で健太の鼻をつかんで、右手で頬をぺしぺし叩くのに夢中だ。
「こら、痛いことしないのよ。竹中君ごめんね」
「あいどーぶえふ」
大丈夫です、に聞こえたかどうかは分からないが、理世は健太に向かって拝むようにすると、そそくさと店を出て行った。
その後、すぐに戻ってきた理世が会計を済ませるまで、小さな生暖かい手で顔中をぺたぺた触られた。ぷっくりほっぺを健太の頬に押し付けてきた時には、ちょっと気持ちが和んだ。それから、何を思ったか健太の腕を踏み台に、頭の上によじのぼろうとし始めた。それを必死に抑えていたら、理世から声がかかった。
「ありがとう、助かったわ。ほんとにどうしようかと思った」
理世が息子を受け取ろうと手を出した気配を感じたが、健太の頭も肩も、軽くならない。
「もう。ママ行っちゃうからね」
バイバーイと去るふりをした母親に答えたのか、頭上であーいと声がした。
「あーいじゃないでしょ。帰るわよ」
「竹中君の頭が、気に入ったみたいね」
通りかかったパートさんが、おかしそうに言った。
「ごめん、ちょっと屈んでもらえる?」
理世に言われて、健太はそっと腰を落とした。よいしょ、の声で理世は息子を引きはがそうとしたようだったが、1歳児にはそれが不満だったらしい。意外なほど強い力でしがみついてきた。
「いて、痛い痛い! ちょっと待ってください!」
健太が声を上げたせいか、引く力が緩んだ。
「ごめんね、つい」
「別の方法を試してみましょう」
落とさないように注意しつつ幼子の脇に手を入れると、健太は立ち上がりながら
「そりゃ」
その体を頭上に持ち上げた。この間学校で測ったら185cmだった。おじいちゃんの三谷氏はそれほど背が高くないから、たぶんここまでの“たかいたかい”は未経験だろう。
うあーと嬉しそうな声がした。
「やだ、ものすごい顔で笑ってる」
やはり高いところが好きらしい。軽く揺すって、落とすようにしてから、途中でキャッチすると、今度は声を上げて笑った。
「も、も」
この顔は、もっと! って言ってるんだろうな。
「じゃあ、あと一回」
再びキャッチ。息が止まるんじゃないかと思うような笑いっぷりだ。
「も!」
「も、じゃないの」
一瞬の隙をついて、理世が息子を自分の腕に引き取った。
「帰るよ。キリがないし、お兄ちゃんだってお仕事あるんだから」
竹中君、ホントありがと! との声に、1歳児の顔が“ダム決壊寸前”のようになったが、うああああん! の叫びがかすかに店内に響くころには、母は息子をドアの外に連れ出していた。
「結局、泣かしちゃったな」
健太が苦笑すると、
「そのうち、パパって呼ばれそうね」
パートのおばさんがおかしそうに言った。
「いやいやいや」
それは困る。もしサラダのお姉さんに聞かれたら? そして万が一にも16歳で父親になったと誤解されたら?
そんなの、絶対やだ!
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