松の9

 “受付完了”はした。その後、祭り会場から自宅まであと100メートルという辺りまでは手をつないで帰ってきた。

 それが、8月下旬に入ると急にのぞみが忙しくなった。詳しくは知らないが、友達の手伝いで何か作っているとかで、昼間はほとんど連絡が取れない。

 あまり頻繁に電話したりメールを送ったりするのは決まりが悪いし、束縛しているように思われるのも癪だったので、祐介は、のぞみの方から連絡してくるのを待つことにした。

 あいつ、自分から応募してきたわりには、さっぱりしてんだな。女ってのは彼氏のメールがそっけないとか、毎日連絡ないと寂しい~とかで文句言う生き物だって、何かで読んだけどな。

 ああもう。着信音が鳴るたびにスマホに飛びつくなんて、ほんと情けねえ。

 落ち着け俺。待つって決めたんだろ。あいつが夢中で何か作ってんなら、完成するまで黙って待ってやるのが彼氏だろうよ。

 そう、海のように広い心で、空のように動じることなく。海か。この夏一回くらい行きたかったな。夏休みデートつったら海だろ、彼女の水着だろ。

 “ユースケのために、冒険しちゃった”

 いかんいかん。このセリフこそファンタジーだ。いかに都合の悪いところを隠すか、低コストで可愛いと着やすいを両立できるか、そんな風に考えるのが現実の女だ。たぶん。

 その作品、いつ完成するんだ。まさか夏休み中かかるんじゃねえよな。こんなことならもっとバイト入れとくんだった。

「ったく、のん太郎のやつ!」

 叫んだらスマホが鳴った。どうせ別の奴だろ、と言いつつ急いで画面を見る。やっとかよ。

「ユースケ」

 のんきな声が聞こえてきた。その声が聞きたかったんだよ! と思ってしまう自分が悔しい。今まで十数年、飽きるほど聞いてきた声なのに、祭りの夜を境に、ドキドキさせられるようになってしまった。

「のぞみか、何だ?」

「今日、これから会える?」

 部屋の時計を見る。夕方の5時半だ。

「いいけど」

「あのね。今晩私んち、お父さんもお母さんも出かけちゃうのよ。私一人なの」

「ふうん――ん!?」

 まさか、そのセリフはあれか? そういうつもりで言ってんのか? “今日、うち両親いないの”は、そんなに都合よくいくわけねえ! と突っ込みたくなる設定のトップクラスだ。

 久々に電話してきたと思ったら、すげえこと言い出すな。もちろん大歓迎だが、展開が早過ぎて心が追い付かない。

「ねえ、聞いてる?」

「き、聞いてますよ」

「そっちにお任せ、でいい?」

「お、おう」

 任されてやるよ。男だからな。

「じゃあ、30分後ね」

 なんだその能天気な言い方。どうもおかしい。初めてじゃねえのか?

「お前、無理してないか?」

「してないよ。どうして?」

「だったら、いいけどさ」

「前からお願いしたかったんだ。すごく楽しみ」

「分か、りました」

 スマホを持つ手が震えてきた。

「あ、そうだ。自転車で行くの? 歩き?」

「は?」

「ラーメン屋さん」

 数秒の間の後、のぞみが大丈夫? と声をかけてきた。おかしいな。いつの間にラーメンの話になったんだ?

「だからね、今晩一人で作って食べるのめんどくさいから、ラーメンおいしいとこ連れてってほしいんだってば」

 そういうことか。緊張の糸が切れた。

「ねえ、どうしたの? 何がそんなにおかしいの?」


* * *


 まさかのぞみが“針金”と言うとは思わなかった。確かに今日の店はバリ硬にしてはそれほど硬くない。バリ硬の麺を食べたければ、はじめから針金にしておくのが正解だ。麺屋マツを唸らせるとは、たいした女だ。

 馬のしっぽの先をさっと固定して、麺に集中するのぞみには感動すら覚えた。余計なコメントはせず、空のどんぶりを置いて“うん!”と一言。俺の理想の食い方をする女が、こんなに身近にいたんだなあ。

 ラーメン屋から少し歩いて、自転車を停めておいたレンタルビデオ屋まで戻った。

「デザートでも食ってくか?」

 ここから自転車で少し走れば、健太がバイトをしているファミレスがある。祐介がそう言うと、のぞみは少し考えて、

「竹中君から聞いてない?」

「なにを?」

「今、落ち込んでるみたいだよ。たか兄が失恋じゃないか、って言ってた」

「失恋?」

 その前に、恋をしていたことすら初耳だ。

「だからね、今二人で行くのは、見せつけるみたいで悪いかなって」

「そうだな」

 祐介がうなずくと、のぞみが思い出したように言った。

「もしかして、あの人かな」

「お前、何か知ってんの?」

「ううん、そうじゃないんだけど。遊園地で二人でいた時ね、ちょっとドキっとすること聞かれたんだ」

 のぞみの表情に一瞬妬けた。

「何だよ」

「道歩いてて、捻挫したとかで急に歩けなくなったとするじゃない? そういう時、知り合いが通りかかって――あ、男の人ね。近くの手当てできるとこまで抱えて運ぼうか、って言ったら、東さんはどうする? って」

「どうすんだよ」

「人によるかな。普段から信用してる人とか、憧れてる人だったらお願いするかも。好きな人なら嬉しいけど」

 お姫様抱っこだもん、と微笑む。

「そうじゃなかったら、どんなに足が痛くても断るよ。絶対」

「竹やん、誰かにそう言って、断られたのかな」

「OKだったみたいよ。私の話聞いて“運ばせてくれたってことは、期待していいのかな”って言ってたから」

 レジェンドの恋、すげえな。いきなりお姫様抱っこから始まんのかよ。

「だって竹中君だよ。最初は何とも思ってなかったとしても、怪我してる時にお姫様抱っこで助けられたら、絶対好きになっちゃうよね!」

 のぞみが興奮気味に言った。“好きになっちゃう”が、のぞみ自身の想いに聞こえて少々面白くない。

「じゃあ、なんで落ち込んでんだ?」

 異常に勘が鋭いレジェンドの父(自称神様)がそう言うなら、原因が恋愛がらみであることはほぼ間違いない。だが、いつものん気な笑顔を浮かべていて、悩みなんかなさそうな健太が、恋愛で苦しんでいるところを想像できない。

 禁断の恋? 人妻にでも惚れたか? 

 そういや少し前に、しばらく恋愛はしない方がいいとか言われてたな。占い師じゃなくて、そうだ梅さんだ。来年の春まで彼女は探すな、みたいなことを言ってた。

 近いうちに、連絡してみよう。

「じゃあ、帰るか」

 自転車の鍵を解除していて、思い出した。

「今晩、おじさんもおばさんも遅くなるって言ってたよな」

「うん。大学時代の仲間と飲み会だって」

「家、来るか?」

「嬉しいけど、迷惑になるから」

「迷惑じゃねえよ。そりゃお前のことだから、戸締りとかちゃんとするだろうけどさ。遅くまで一人でいるの分かってて、そのまま帰せるかよ」

「ありがと」

「うちの母ちゃんなんか、おなじみ過ぎて、母親その2みてえなもんだろ?」

「そうかも」

 のぞみは笑った。

「何か映画でも借りてってさ、観ようぜ」

「いいね」

「お前、どういうのが好きなの?」

 DIY女子という以外、実は最近の、のぞみの趣味志向はあまり知らない。

「いろいろ観るけど――」

「ホラー系は勘弁な」

「それは私も嫌だから、大丈夫」

 今の気分はねえ、と視線を上に向けて少し考えていたが、一瞬恥ずかしそうな顔をしてから、笑顔を見せた。

「コメディがいい。うんと笑えるやつ」


* * *


 家に帰ると、母親がせんべいを片手にテレビを見ていた。

「ただいま」

「おはえひー」

「おばさん、こんばんは」

 突然聞こえた女子の声に、母親が飛び上がった。大急ぎでぼりぼりやる音が聞こえる。

「のんちゃん。どうしたの?」

「今夜、おじさんもおばさんも遅いらしいからさ。連れてきた」

「まあ、そうなの。どうぞどうぞ。座って」

 おせんべい食べていいよ、と袋のまま置いて、母が台所に行った、と思ったら二人分の麦茶と共に超特急で戻ってきた。忙しねえなあ。

「友達とラーメン食べてくるって、のんちゃんとだったの?」

「うん」

「ふうん」

 何気なく言いつつ、またせんべいの袋に手を伸ばしかけた母親だったが、

「もしかして、そのう、二人は今、こういう感じなわけ?」

 両手で顎の下にハートマークを作った。

「な、何すか、その手は」

「ぶは、あんたのその癖、ほんと分かりやすいわ」

 母は嬉しそうだ。

「のんちゃん知ってた? ユースケね、恋愛とかエッチな話でテンパると丁寧語になるの」

「母ちゃん、余計な事言うなって」

 のぞみを見ると、真っ赤な顔をしてうなずいていた。知ってたのかよ。

「そっかあ、そうなんだ。いいなあ。何だかきゅんきゅんしてきた」

 母ちゃん騒ぎ過ぎ。キャンプ帰りの景介が爆睡中で良かった。

「で、いつからなの?」

「いいだろ、もう。ニヤニヤすんなよ」

 俺も赤いのかな。両耳が燃えるように熱い。

「のぞみだって、居心地悪くなるだろ」

 家に連れてきたのは失敗だったか。祐介が考えていると、

「そうよ、あんた何で家に連れてきたわけ?」

「だからさっき言ったろ? おじさんとおばさん帰りが遅くなるって」

「遅いんでしょ? 絶好のチャンスじゃない。何やってんのよ」

「いやいやいや」

 母親に勧められても困る。

「まあ、焦ることはないか。そのうちチャンス作ってあげるね」

「そういう気遣い、要りませんから!」

 祐介の言葉に母親はいたずらっぽく微笑み、のぞみに目を向けた。

「でも嬉しいな。のんちゃんだったら、安心して祐介任せられるもの」

 なんだそれ、嫁に来るわけじゃねえぞ。

「よろしくお願いします」

 のぞみが恥ずかしそうに頭を下げる。ますます嫁みたいだ。

 やっぱり、幼なじみは難しい。親の冷やかしとか、家が隣とかいろいろひっくるめて、相当惚れてないと、難しい。

 その時、テレビ画面がフラッシュ音とともに何度か光った。芸能ニュースのダイジェスト版らしい。画面の中で、神妙な顔をしているのは、このところ祐介が注目していた芸人だった。

「かずのこ、何やったんだ?」

「これね。私は全然悪くないと思うんだけど。やっぱり芸能人だと、こういうの大変なんだろうね」

 画面の隅にテロップが入った。

 “ギョランズ・かずのこ、謝罪会見”

 “18歳未満とは分かってた”

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