竹の8

 もう会えないのかな。家にいたり、友達と会っていたりすれば少しは思い出さずにいられるが、今となっては自分と朱里をつないでいたこのファミレスで働くのは正直辛い。

 それでも、朱里が褒めてくれた接客の質は落とさないようにしようと、職場では今まで以上に丁寧な対応を心掛けるようにした。

 さらに数日が過ぎ、夏休みも残り一週間ほどになったある日。

 朱里が以前のように、一人で店に現れた。今日はラフな私服だ。

「いらっしゃいませ」

 来た。来てくれた。嬉しい反面、微笑む朱里の少しやつれた様子が気になった。

 朱里の手からは杖がなくなっていた。まだ少し歩き方がぎこちないが、もう杖は必要ないようで、安心した。

 席に案内しようとしたら、三谷夫人が手を上げた。

「こっちよ」

 朱里を見ると、うなずいたので、三谷家のいる席に案内した。

「今日はね、うちと一緒に食べるんだ」

 三谷氏は嬉しそうだ。相席するほど仲良しになっていたとは知らなかった。

 しばらくしてから注文を取りにいくと、朱里が少し恥ずかしそうな顔で言った。

「トリプルグリルの単品。あと中ジョッキをお願いします」

 あ、頼むんだ。

「単品でよろしいですか? スープセットやデザートセットもございますが」

 あんまりからかうと、怒られるかな。

「いえ、それで結構です」

 おかしそうな様子にほっとしながら、健太は注文を復唱した。朱里に合わせるように、三谷夫妻も追加で中ジョッキを頼んだ。夫婦揃ってアルコールを注文するのは、健太が知る限り初めてだ。

 三人にビールを届けると、それぞれありがとう、と言ってくれた。

「お祝いをしようと思ってね」

 三谷氏がジョッキを掲げた。三谷氏に抱っこされている健太も、ジュースの入った小さなカップを手にしている。にーと言って笑顔でそれを突き出してきたので、思わず微笑んでしまう。自分のお祝いで乾杯されてるみたいだ。

 朱里が微笑み、健太の方を向いた。

「第一希望の会社、内定もらえました」

「本当ですか」

「“親切な店員さん”のことをスピーチで話した会社だってさ」

 三谷氏が言い、

「ほら、ここ」

 三谷夫人がバッグから少しのぞかせたお菓子の箱を指さした。企業ロゴで分かった。健太もよく知っている会社だ。

「おめでとうございます!」

 朱里さん、ずっとがんばってたもんなあ。本当に良かった。健太が去ろうとすると、朱里が立ち上がった。

「竹中君、本当にありがとう」

 一瞬、朱里の顔が歪んだように見えて、焦った。泣き出すかと思った。

「お世話になりました」

 今度は深く頭を下げられた。急に改まってどうしたんだ?

「そんな。とんでもないです。座ってください」

「ってことで。竹中君は仕事中だから、私が代わりに飲んであげるわね」

 嬉々として言ったのは、三谷夫人だ。

「代わりにって」

 仕事じゃなくても、オレは飲めませんよ。

 その後、楽しそうな三谷一家の様子を時々目の端に入れながら、健太は久しぶりに心穏やかに仕事をした。朱里も笑顔を浮かべている。ただ、何となく影があるというか、笑顔の奥に何かを隠しているような気がした。

 ふと見ると、1歳児健太が今度は朱里に抱っこされている。あの子、いつの間に人見知りしなくなったんだ? まあ彼も男だからな、って早過ぎだろ。1歳児に妬いてもしょうがないのだが、ちょっとうらやましい。

 三谷家に再び呼ばれた。追加でデザートの注文を受けた後、皿や鉄板を下げていると、

「健太君」

 朱里が言った。一瞬どきりとしたが、朱里が呼び掛けたのは、腕の中の1歳児の方だった。

「今日でバイバイね。お姉ちゃん、遠くにお引越しするの」

 え?

「君が大きくなった頃、また会えたらいいな。きっと、今よりもっともっと素敵な男性になってるよね」

 髪を撫でられた1歳児があーう、と返事をした。

「お仕事がん、ばるからね」

 途中で声がかすれた。

「お姉ちゃんに、いっぱい元気をくれてありがとう。元気でね、健太君」

 朱里が幼子を抱きしめ、頭を垂れた。肩が震えている。

「にー」

 1歳児健太が、体を反らせて手を伸ばしてきた。皿から手を離し、その小さな手をそっと握る。健太は数秒目を閉じて、ゆっくり息を吐きだした。

「三谷さん」

 健太は同名の乳幼児と握手したまま、傍らの三谷夫人に向かって言った。

「小菅君のおばあさんが話されてた、レジェンドってあだ名のこと、覚えてますか」

「ええ。困ってたり悩んでたりしてたお友達を、どっさり助けたから、そう呼ばれてるんでしょう?」

「実は、違うんです」

「そうなの?」

 三谷氏も身を乗り出してきた。

「これ、内緒にしててくださいね」

 空いている方の手でテーブルを拭きつつ、あどけなく笑いかけてくる健太に微笑み返す。

「僕がこんな風に触れると、その人は幸せになります。必ず」

「ほう」

「中学を卒業する時、300人以上と握手しました。よく会う奴は毎日楽しそうだし、久々に会った子もみんな、ラッキー続きって言ってくれます」

“誰かを幸せにしたくて吐く嘘は、許されんだよ” 親父の迷言、意外と役に立つな。「健太君の場合は抱っこもしたから、すごいことになります。幸せ5倍、いや10倍かも」

 お姫様抱っこは100倍。

 朱里さん、お元気で。

 想いを込めながら、小さな手をもう一度握り返す。それから皿をまとめると、健太は一礼してテーブルを離れた。

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