松の6
「お帰りなさい」
帰宅して、リビングのドアを開けた瞬間、浴衣美人に微笑まれたら?
夢だと思うだろう。でも夢じゃない。浴衣美人の隣に弟が、向かいには母が座っているからだ。そして、俺はこの人を知っている。
「ひかりさん?」
浴衣美人が笑顔でうなずいた。
「どもっす」
「何よそれ。ちゃんと挨拶しなさい」
母に言われたが、それどころじゃない。もともと“お隣のきれいなお姉さん”だったが、久々に会ったら、いい女っぷりが何割か増している。その上、浴衣だ。最強じゃねえか。
「ひかりさん、あんたを待ってたのよ。ほら、早く手洗ってきて」
小学生の景介に言うのと同じだ。しまらねえなあと思いつつ、言われた通りにする。
俺を待ってたって言ってたな。なんだろ。手を洗ったついでに髪をチェックした。昨日、散髪行っといて良かった。
リビングに戻ると、景介がひかりにくっつくようにしているのが見えた。
「景介は何やってんだ?」
「僕? 勉強教わってんの。夏休みの宿題」
はあ? “勉強で兄ちゃんに教わることなんかないもーん”発言はどこ行った?
母の隣に座り、盛られた菓子をほおばりながら、ひかりと景介を眺める。そのうなじは反則じゃないでしょうか。どきどきしてきた。
ひかりは、ボールの数と、それを並べた長さからボールの半径を導き出す方法を景介に思いつかせると(あんにゃろ、分かんねえふりしたな)、優しく微笑み、祐介の方を向いた。
「私ね。祐介君にお願いがあるの」
「なんすか?」
「来週、地元のお祭りあるよね。一緒に行ってくれない?」
マジか。
「いいすよ」
喜んで! と叫びたいのを、必死で抑えた。
「返事はやっ」
景介が顔を上げた。
「いつもだったら、予定入ってるかもとか言って、もったいぶるくせに」
「うるせえな」
どんな予定が入っていようが、こっちを優先するに決まってる。でもわざわざ誘いに来てくれたのは、どういうことだ?
「実はね、お願いがもう一つあって」
ひかりが両手を合わせた。もう、ひかりさんのお願いなら、何だって聞きますよ。
「その時、浴衣を着てもらいたいの」
「え、はい」
もちろん構わない。構わないが浴衣なんて持ってない。ちらりと母の方を見ると、
「大丈夫、もう用意してあるんだって」
帯も下駄も揃っていると言う。
ひかりが言った。
「私、今、和装に凝ってて」
和裁にまで手を広げ、家族分の浴衣を縫い上げたそうだ。
「お父さんにも仕立てたんだけど、今年は行けないって言うのよ」
来年までお蔵入りにするのは悔しいからと、祐介に着てもらえないか尋ねにきたそうだ。
「着付けもしたいし」
「じゃあ、ひかりさんが着せてくれるの?」
母がほっとしたように言った。
「ええ、ぜひ。男性に着付けできる貴重なチャンスだから」
それはいい。着せてもらう時に堂々とくっつけるし、“魅惑のうなじ”を間近で見られる。うっかり触っちゃった、もアリかもしれん。
すげえな。これも“引き寄せ”か?
いいじゃん、年上。お姉さんの色気。そうか、竹やんはこういうのが好きなわけか。
「よろしく、お願いします」
緩んだ頬を見られないように、急いで頭を下げた。
「ありがとう。楽しみにしてるわね」
母、弟とともに玄関先でひかりを見送った祐介だったが、すぐに靴を履いて、外に出た。
「ひかりさん」
振り返る仕草だけでも色っぽく見える。祐介は、聞いておきたいことがあるとひかりに言った。
「ひかりさんは、自分のこと名前で呼んだりしませんよね」
「どういうこと?」
「私は、って言う代わりに、ひかりはこれ食べるとか言いませんよね」
「ええ。言わないわ」
予想通り、ひかりは不思議そうな顔で笑った。
「だったらいいんです。すいません」
ラーメンの好みは聞かないことにした。この人だったら、“ラーメンは苦手”って言われてもいい。だいたいな、ラーメンなんてのは、一人で食えばいいんだよ。
家に戻ったとたん、祐介は抑えていたものを爆発させた。
「よっしゃあ!」
男性に着付ける貴重なチャンス、ってことは、ひかりさん、今は彼氏ナシってことだ。
「祭りだ、祭りだ!」
チャンス到来!
「夏が来た!」
「兄ちゃんのアレ、また始まったね」
「ほんと、なんなの? あの雄たけび」
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