竹の4

 ものすごく生々しい夢を見てしまった。

 “改めてお礼させてね”

 あの言葉のせいか?

 まだ、体中のあちこちに感触が残っている気がする。健太は息をついて体を起こすと、ぶんぶん頭を振った。胸の奥がしくりとする。もう、夢に出てくるのは彼女じゃないんだな。さっきまで自分の顔の下にあったのは、ふわふわした明るい茶色の髪ではなく、さらりと流れる黒髪だった。はるか空の下にいる彼女にそっと詫びると、健太は黒髪の持ち主にも謝った。朱里さんすみません。17歳元気いっぱい男子なんで、勘弁してください。

 あんな夢の後じゃ、顔を合わせにくい。今日が休みで良かった。

 足、大丈夫かな。かなり痛そうだったから、しばらくは来れないかもしれないな。

 もう二度と来ない可能性もある。経験上、人に助けられた時、後からそれをひどく重荷に感じる人がいることは知っている。それならそれで仕方ないけど。


* * *


 “ヒール折れ事故”から2日後。

 朱里は、普段来店する時間から少し遅れて現れた。良かった、来てくれた。安堵の気持ちを顔に出し過ぎないように気を付ける。

 朱里は今日はスーツではなく、ラフな格好をしている。他のスタッフが席に案内しているところをそっとうかがうと、輪のついた杖を右手に握って、歩きにくそうに進んでいた。

「お姉さん、足どうしたの」

 三谷氏が例によってずばりと聞いた。

「捻挫、しちゃいまして」

「大変だねえ。就活もあるのに」

 健太が注文を取りに行くと、

「この間は本当にありがとう」

 小さな声で朱里が言った。

「痛み、どうですか?」

 まだ少し痛むので、杖を頼りに何とか歩いていると朱里は言った。

「お礼、今日で構わない?」

「はい。でも」

 コンビニまで行くのが大変そうだ、と思いながら杖に目を向けると、

「大丈夫よ。バイト、何時まで?」

「8時です」

 朱里はうなずきながら、メニューをめくった。

「じゃあ、これください」

 それからメニューを見たまま、いっそう声を落とした。

「少し前にお店出て、コンビニで待ってます」

 健太は朱里の注文を復唱した後、少し間をあけてから言った。

「かしこまりました」


* * *


 終業後、健太は急いで店を出た。朱里にはコンビニに着く直前で追いついた。やはり歩くのに時間がかかるようだ。

 朱里は、自分も食べてみたいと、健太がリクエストした、ペンギンアイスの“期間限定・北極味”を二つ買った。

 今日は、朱里がジーンズを履いていたので、自転車に乗ってもらうことができた。朱里を乗せ自転車を押して歩くのは不安定ではあったが、朱里が歩く距離を少しでも減らしたかった。

 公園に着くと、二人は先日と同じベンチに腰を下ろした。互いに礼を言い合い、声を揃えていただきます、と言う。

「うんま!」

 アイスを口にした健太が声を上げると、朱里が微笑んだ。

「ほんと、おいしい。でも北極味ってどういうことなんだろ」

「アイスの袋に書いてありました。“北極の氷で冷やしました!”って」

「じゃあ、味とは関係ないんだ。そもそも北極にペンギンいないよね」

「そうなんですよ。もうこの会社、突っ込まれたくてやってるとしか思えないです」

 前には南極味が出ていた、と健太は話した。

「それが評判良かったから、今度は北極味出したみたいなんですけど、南極の時も、どんな味だよ! ってオレ思いましたもん」

 朱里が笑った。

「ネーミングはともかく、味はうまい。いい値段するだけのことはありますね」

 2本で自分の時給一時間分になる。だから、気軽に買えなかった、と健太が改めて礼を言うと、

「あの元気なおじさんがね、店長さんらしき人に話してた。竹中君は時給二倍か三倍もらっていいはずだ、って」

「三谷さんが?」

「竹中君を目当てに来るお客さん、いっぱいいるんだからって」

 まったく。思わず笑ってしまった。

「そんなの三谷さんだけでしょうに」

「そんなことない。私もよ」

 真顔で見返され、どきりとした。朱里はすぐに下を向いた。

「普段の恰好見て、知ってるかもしれないけど、私、今就職活動中なの。ストレスたまるし、すっごく疲れる」

 健太はうなずいた。自分には就活の経験がないから大変さは分からないが、朱里がコーヒーでなくグラスワインを頼む時は、とても疲れた顔をしていた。

「そんな時に、あのファミレスで竹中君の顔見ると救われる。いつも優しい笑顔で接客してくれるでしょ。セクハラ面接も、ライバルに嫌味言われたことも全部ふっとんじゃう」

 救われる、とはずいぶん大げさだ。でも、少しでも朱里の役に立っていたなら嬉しい。

「おじさんも言ってたけど、癒し系よね、ほんとに」

「そうですかね」

 癒し系、これはよく言われる。レジェンドと同じくらい謎の呼び名だ。言う側に悪気がないのは伝わるのだが、17歳の男が喜んでいい言葉なんだろうか。

「笑顔だけじゃなくて、気持ちも優しい。私なんか大ピンチの時に助けてもらった。しかも通りすがりに。親御さんの顔が見てみたい、って、これもおじさんの言葉だけど、私もそう思ってます」

「ありがとうございます」

「いつも本当にありがとう。そうだ、これ」

 朱里が紙袋を差し出してきた。菓子折りのようだ。図書カードも入っていると言う。

「アイスだけじゃさすがに申し訳ないから」

「お礼なんて。もう充分してもらいましたし」

 言ったとたん、顔から火が出そうになった。あれは夢ん中の話だろ!

 落ち着け、このセリフ自体は変じゃないぞ。

「アイス、おいしかったです」

 頭を下げ、追加のお礼も、恐縮しつつ受け取った。

「あの、さっきの話ですけど」

 これは朱里に伝えておきたいと思った。

「救われてるのは、オレもおあいこだと思いますよ」

「どういうこと?」

「今のバイト、気に入ってます。でも嫌だと思うことも、やっぱあります」

 ここではもちろん言えないが、マナーの悪い客に、切ない思いをすることが時々ある。

「だから、三谷さんや朱里さんみたいなお客さんにはこっちが救われてます。おいしそうに、きれいに食べてくれて、店員にもごちそうさまって言ってくれる」

「そう? じゃあ、これからもいいお客さんでいるように、心がけます」

 その穏やかな笑顔にも癒されてます。火曜と金曜が楽しみなんです。心の中で言った。

 いつまでもここでこうして話していたい、そう思ったが、引き延ばすわけにはいかない。

 健太が腰を上げると、朱里もゆっくり立ち上がった。健太は迷ったが言った。

「ここから、結構歩くんですか。住んでるとこまで」

 ファミレスの店員が、客に聞くことじゃないのは分かってる。

「だいたい300メートルくらいかな」

「もし良ければ、近くまで送らせてもらいますけど。足、心配だし」

 このセリフも危険だ。

 朱里は少し考えて、杖を見た後、

「お言葉に甘えます」

 と頭を下げた。

 また、朱里が健太の自転車に乗り、健太が押して歩いた。この間、朱里が出したいくつかの問いに健太が答える程度で、二人ともあまり話をしなかった。健太は胸に灯った温かな気持ちとともに、その沈黙を楽しんだ。

「じゃあ、この辺で」

 声がかかったので、自転車を停め、朱里が降りるのに手を貸した。

「ありがとう。助かりました」

「いえ」

「それに、いつも以上に癒してもらっちゃった。明日から、また面接がんばります」

 お許しいただけるなら、いくらでも癒しますよ。朱里さん一人を、全身全霊で。

「足、お大事に」

 期待しちゃだめかな。しない方がいいよな。彼女にとっては客と店員、それもこっちは17のガキなんだもんな。

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