竹の5
その日、朱里の注文はサラダではなかった。パスタと小さなチョコパフェを注文し、いつものように優雅に完食して、帰っていった。
“何かいいことでもあったのかな”。これは、三谷氏のセリフだ。
バイト帰り、健太が公園の前を通りかかると、件のベンチに朱里が一人で座っているのが見えた。
邪魔しちゃ悪いかな。そう思いつつ、心配半分会いたさ半分で、健太は公園の入り口に向かった。
「どうしたんですか? こんなところで」
この辺りは、特に治安が悪いわけではないし、今はそれほど遅い時間でもない。それでも、夏の夜の公園だ。変な連中が寄ってこないとも限らない。捻挫した足では逃げられないのに。
「一人は危ないですよ」
つい口に出してしまった。
「そうね。気を付けます」
朱里はうなずいた。
「ここにいたら、会えるかと思ったの。竹中君に」
嬉しい言葉に、心が揺れた。
「内々定がとれたお礼、言いたくて」
「わ、おめでとうございます!」
ん、お礼?
「取れたの、竹中君のおかげだから」
「なんでですか?」
朱里が説明してくれた。企業によっては、数人の学生が同時に受ける、グループ面接をすることがあるらしい。
「自己紹介の時にね、言ってみました」
“喜多朱里と言います。じゃがいもと同じ名前のキタアカリです”
「面接官の表情が少し柔らかくなった気がしたし、終わった後、他の就活生とすれ違った時に“あ、じゃがいもの人”って」
「はは、確かにインパクトありますね」
印象に残る、というのは大勢の学生が受ける面接では有利かもしれない。
「路線も変更してみたの」
今までは“バリバリのキャリアウーマン予備軍”の雰囲気を出そうと必死だった。
「でも、じゃがいもなんだから、ほっこり親しみやすい感じでいこう、背伸びはやめようって」
合否はともかく、気持ちが楽になったと思った矢先に、内々定が出た。
「すごく嬉しい。本当にありがとう」
朱里が喜ぶところを見るのは、健太も嬉しいが、人違いで礼を言われているみたいだ。
「オレは、何もしてないです」
自己紹介を工夫したのも、路線変更も、朱里自身のアイデアだ。健太がそう言うと、朱里は微笑みつつ首を横に振った。それから言った。
「第一志望の会社、これからなの。そこの内定がもらえるように、あともう少し、がんばります」
今日も送ることにした。朱里がスーツ姿なので、二人で並んで歩いた。捻挫は少しずつ回復していると朱里は言ったが、これで混み合う電車に乗って、会社を回るのは大変だろうな、と健太は案じた。
ふと、朱里が顔を向けてきた。
「カミングアウト、していい?」
「え」
この言葉、心臓に悪いな。そっと深呼吸した。
「どうぞ」
「私、今日パスタを頼んだでしょ。パフェも」
ほっとした。深刻な内容ではなさそうだ。
「背伸び――サラダ単品、やめました」
「あれって、背伸びだったんですか」
「そう。カッコつけてました。ワインも」
「え、好きなの頼めばいいのに」
「だって」
“若い女がお一人様で、からあげにビールかよ”
「そんな風に思われたくなくて」
つい、ヘルシー路線&小食アピールをしてしまったらしい。
「そんなこと思いませんよ」
笑ってしまった。
「じゃあ、ここんとこ、好きなもの食ってなかったんですか」
「ええ。あのお店では」
朱里がきまり悪そうにうなずいた。路線変更して、本線に戻ったわけだ。
朱里に抱いていたイメージがだいぶ変わった。音を立てて崩れた。
でも、悪くない。
自分が年上好きなのは、家族が賑やか過ぎるから、一緒にいて落ち着ける人、物静かな人を求めるのだと思っていた。
大人しい性格の人でも、同い年や年下に惹かれないのは、自分を抑えて気を張りつめながら頑張っている女性は、年上に多い(気がする)からだろう。そういう女性が気を緩ませるのが、たぶん好きなんだ。むしろオレが緩ませたい。
これは新発見だな。健太は愉快な気分になりながら、言った。
「これからは、遠慮なく注文してくださいね。トリプルグリルでも中ジョッキでも」
チキンソテーにウインナーとハンバーグで一番ボリュームがある、人気メニューだ。
「うーん」
朱里は恥ずかしそうにしながら額に手をやった。
「白状したの私だけど、そう言われるとすごく頼みにくい」
朱里さん、可愛いなあ。
そのまましばらく黙って歩いた。
「聞いても、いいかな」
朱里が見上げてきた。
「答えたくなかったらいいんだけど」
「なんでしょう」
「お店では、私とか三谷さんとか他のお客さんもかな、君に癒されてるわけだけど、その」
さっきの“カミングアウト”の何倍も言い辛そうな雰囲気だ。
「仕事中じゃない時、竹中君にとって大切な、特別な人に対しては、どんな感じなのかなって」
「そうですねえ」
これは、特別な人=彼女いるの? を含めた質問と思っていいのか?
「だいぶ違うでしょうね。バイトの時は、普通に接客してるだけで、意識して癒そうとは思ってませんから」
「あ、そうなのね」
「もし、オレに今、大切な人がいるとしたら、本気で癒しますよ。今のオレにできるすべてを注いで、その人だけを」
それが朱里さんならいいのに。
恥ずかしくなってきたので、言葉の調子を変えた。
「例えばですけど、オレ、料理は結構自信あるから、その人の大好物、メシとかスイーツとかバンバン作って、もう天然温泉と美容フルコースに手もみマッサージの合わせ技、くらいの勢いで癒しますね。赤ちゃんパンダの大群にも負けませんよ。学校とか仕事とか行く気なくなるくらい、へろへろにしちゃいます」
「わ、それは大変」
「大丈夫です。それでホントにへろへろになるようなことにはなりません。自分を律するっていうんですかね、オレが好きになるのは、それができる人だと思うから」
きっぱり言うと、それまで驚いたような顔で聞いていた朱里が微笑んだ。
まもなく、先日送った時に別れた場所に着く。残念に思っていたら、朱里は何か考え事でもしているのか、足を止めずにそこを通過した。そして、そのまま少し歩いた後、我に返ったように立ち止まった。
「あ、ごめんなさい」
朱里は一瞬目の前の建物を見上げると、健太に向き直った。
「送ってくれて、ありがとう」
「いえ」
健太が一礼して、自転車に乗ろうとした時、
「あの」
朱里が手を上げかけて、すぐに下ろした。それから何か言いかけて止め、うつむいた。
どうしたんだろ。そのまま待っていると、朱里が少し視線を上げ、健太の胸の辺りで止めた。
「本当にありがとう。おやすみなさい」
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