竹の3

 夏休みに入って数日後の午後7時。

 ちょっと疲れたな。

 今日のシフトは家族旅行へ出かけたパートさんの代わりに、臨時で入った。普段とは違う曜日で、ランチタイムを含んでいた上に勤務時間が長かった。それもあるが、たぶん、精神的疲労の主な原因は、三谷夫人が友人5人とランチをしにきたことだ。

 三谷夫人は、その曜日その時間にいないはずの健太がいると分かると、数年ぶりに家族と再会したかのような声を上げ、友人一同に健太を紹介した。フルネームはもちろん、三谷一家がいかに健太を気に入っているかや、三谷家の孫を一時的に抱っこしてあやしたエピソードまで暴露された。さらには、健太の名を聞いたおばちゃん軍団の一人が、自分の孫が慕っていた“レジェンド”に違いないと涙ながらに語り出し、ちょっとした騒ぎになってしまった。確かに小菅瞬は中学時代の後輩だが“竹中君のおかげで、あの子は学校へ行けるようになったの”は何かの間違いだと思う。瞬とはマンガの話ばかりしていた。彼が持っていた“幻のコミックス”(少年漫画誌史上最速打ち切りで全一巻)をきっかけに、話が盛り上がっただけだ。

 店長には悪いが、あのおばちゃんたちがそれぞれ別の友人を連れて来店したら、すごくめんどくさいことになりそうな気がする。そんなことにはなりませんようにと、健太はそっと祈った。

 そんなことを考えながら、帰り道自転車を走らせていると、少し先を女性が一人で歩いているのが見えた。スーツの上着を腕にかけている。歩道もガードレールもない片側一車線のこの道路は、歩行者にとっては少々危険だと、通りながらいつも思う。

 あの人、雰囲気似てるな。今日が、彼女が来る日だったら、疲れも吹き飛んでたのになあ。

 サラダのお姉さんを思い浮かべつつ、健太がその女性を追い越そうとした瞬間、

「いっ!」

 声とともに女性の体ががくん、と崩れた。すぐに自転車を停める。見ると女性が右足を押さえて座り込んでいた。

「大丈夫、ですか」

 自転車を脇に寄せて声をかけると女性が顔を上げた。わ、サラダさん本人だ。

「竹中君?」

 向こうも気づいたようだ。何でオレの名前、知ってんの? そっか、三谷さんが名指しで呼ぶからだ。

「いきなりヒールが折れちゃって」

「あの、ここ危ないんで、避けましょう」

 幸いすぐ先がコンビニだったので、手を貸しながら進み、駐車場の隅まで移動した。

 サラダさんはほとんど左足だけで前に進んだ。歩くのが辛そうなのはヒールが折れたことよりも、それがきっかけで捻挫をしたからのようだ。

 失礼します、と見せてもらうと左の靴も、右足をかばいながら歩くには心もとないという感じだった。片足で歩いているうちに左も折れるかもしれない。

「誰かに迎えに来てもらうか、タクシー呼ぶとしても、靴を直してからがいいと思います」

 健太は言った。

「ちょっと考えがあるんですけど。言ってみていいですか」

 相手がうなずいたので、健太は続けた。

「オレ、今からそこのコンビニで、何か足冷やすものとボンドを買ってきます。そのあと、ちょっと先の公園までお客様を運びますから、そこのベンチに座って足冷やして、その間に靴の修理するっていうのはどうでしょう」

 修理にはそれほど時間はかからないだろう、ということも付け加えた。

「そうね、それが良さそうね」

 健太はなるべく急いでコンビニで買物を済ませた。保冷剤はなかったので、凍らせたペットボトルの水で代用することにした。

 戻ってくると、痛そうにしながら健太の自転車に手をかけて立っていた女性は、健太に礼を言った。それから困ったように言った。

「公園まで、どうやって?」

 彼女にも分かっているのだろう。スーツのタイトスカートでは、荷台のないスポーツタイプの自転車には乗れない。

「抱えて運ぶことになります。嫌なら、やりませんけど」

 女性が左足を見た。

「こっちも折れかけてるんだったわね」

 困り果てた表情だ。

「運んでもらうのは悪いわ。私、重いもの」

「重い? んなわけないでしょ」

 晩メシにサラダしか食ってねえのに。

 おっと、お客さんにこれはまずいな。晩メシ云々の方は何とか飲み込んだ。

「じゃあ、お願いします。無理だと思ったら下ろしてね」

“女性に「重い」は厳禁だ。口が裂けても言うなよ”

 これは、ずいぶん前に父親に言われた言葉だ。残業禁止とか言って家で勉強させてくれない代わりに、こういう不思議コメント(教訓?)はどっさり授けてくれる。

 というわけで、重く感じるかどうかはともかく、軽々と運ばないといけない。恥かかせるわけにいかねえからな。

 女性のバッグを肩にかけ、腕にコンビニの袋をぶら下げた。抱えてみたら、何のことはなかった。楽勝だ。

 コンビニから、道路を渡った反対側にある公園までは7、80メートルくらいだ。健太は早足で女性を運び、入り口から一番近いベンチにそっと下ろした。

「あ、ありがとう」

 女性は恥ずかしそうに言って、胸を押さえた。

「自転車取ってきますんで、足冷やしててください」

 袋から凍らせたペットボトルを取り出して渡すと、健太はコンビニに引き返した。走っていて、ふと気づいた。

 触っちゃったよ。足にも脇にも。しっかりつかまってて下さいと健太が言ったから、彼女も健太の首に手をかけていた。捻挫で辛そうなのが気の毒なのと、公園まで安全に運ぶことで頭がいっぱいだったので忘れていたが、顔を下に向ければ彼女の顔を間近で拝めたのに。手の感触もほとんど覚えていない。ちょっともったいなかったな。いやいや、非常事態なんだから、そんなこと考えちゃだめだろ。

 コンビニから自転車に乗って公園に戻ると、女性はベンチの上で横座りに座っていた。ペットボトルをくるぶしに当てている。

 スカートの裾が気になったので(目のやり場に困るので)、スーツの上着を取り上げて渡した。女性は小さな声で礼を言いつつ、それで脚を覆った。

「どうですか」

「さっきと比べたら、だいぶ楽になった気がします」

 本当にいろいろとありがとう、と深く頭を下げられ、恐縮した。さっきの“もったいない”発想が恥ずかしくなってきたので、靴の修理に取りかかることにした。

「そんなことまでさせるの悪いわ」

「いえ。お客様は、捻挫の方を気にしててください」

 健太が笑顔を向けると、女性がはっとしたように言った。

「助けてもらってて、私、名乗ってもいなかった。ごめんなさい」

 キタです、と女性は言った。

「喜ぶに多いと書くの」

 へえ。竹中と違って、珍しい名前だ。

「いいすね。字面からしてすげえハッピーな感じがする」 

 つい言葉遣いに素が出てしまった。今は店外だし、勘弁してもらおう。

 下の名前は朱里(あかり)、だそうだ。

 喜多朱里? この名前、どこかで聞いたことがある。

「じゃがいもだ」

「え?」

「キタアカリってじゃがいもありますよね。オレ、よくポテトサラダに使います」

 実は昨日も使った。健太がそう言うと、朱里は少し驚いたような顔をした。

「そんなこと、初めて言われたわ」

 やべ。気に障ってたらどうしよう。心配していたら、朱里が笑い出した。

「そっか。私、じゃがいもなんだ」

 じゃがいもと同名という事実を、朱里は健太が意外に思うほど、面白く受け取ったようだった。


* * *


 塗っておいた接着剤が乾いたので、ヒールを取り付けた。左側もついでに直した。これで、彼女が自宅に戻るまでは何とかなるだろう。

「すごい。靴の修理までやっちゃうなんて」

「前に同じようなことがあったんです」

 家族で出かけていた時、今回のように母のヒールが片方取れたことがあった。捻挫はしなかったが。

「親父がやってたの見てたから。何でも役に立つもんですね」

 タクシーを待つ間、手持ち無沙汰になったが、車に乗るところまでは見届けたかったので、健太は朱里と同じベンチの端に腰を下ろした。今日はわりと涼しいな。

 朱里が言った。

「今度、改めてお礼させてね」

「そんなの、気にしないでください」

「でも、時間取らせて、買い物までさせちゃったから」

 まあ、逆の立場なら、オレも同じこと言うよな。

「じゃあ、一つリクエストしていいですか」

「ええ」

「さっきのコンビニで、アイス1本おごって下さい」

「アイス? それでいいの?」

「はい。ずっと気になってるやつがあるんですけど、結構いい値段するから、まだ食ってなくて」

「分かりました。今度竹中君がバイトの日、仕事が終わった後でいいかな」

「はい、ありがとうございます」

 嬉しい。彼女と、店の外でまた会える。

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