梅の2
「ただいま」
直樹が帰宅すると、兄の
「む、帰ったな」
直実も同じ高校に一学年違いで通っているが、直樹が3月に誕生日を迎えた数日後には4月生まれの兄が一つ歳を取るため、梅田兄弟は一年のうちのほとんどを2歳差で過ごしている。ただ、直実の風貌や態度から、校外では年の離れた兄弟に見られることが多く、直樹も、10歳くらい年かさの兄だと思って接していた。
手を洗い、着替えながら、祐介の言葉を思い返す。
“あっちの世界に行ったまんまってのは、問題アリだと思うんだよ”
確かに直樹はしょっちゅう“あっちの世界”に行っている。ただ、一応戻ってきている。松ちゃん、行ったまんまっていうのはね、僕の兄さんみたいな人をいうんだよ。
再びリビングに戻ると、ちょうど一冊読み終えたのか、直実が体を起こした。スナック菓子(2袋めのようだ)を開封しながら言う。
「遅かったな。今日は全校で早帰りだろう?」
「うん、松ちゃん、竹やんと話してて」
「井戸端会議か! おばちゃんか!」
なぜ長話イコールおばちゃんなんだろう、と思いながら直樹は座った。
「兄者」
直樹がそう呼ぶのは、兄のこだわりを尊重した結果だ。
「ちょっと聞いてほしいんだけど」
直樹は先ほど河川敷で話してきた内容と自分の思いを兄に一通り語った。
目を閉じ、腕組みをしながら聞いていた兄は、
「面白い。実に面白い」
大きく何度かうなずいた。
「言いたいことが多過ぎて、鼻からこぼれ出そうだ。少しコメントしていいか?」
兄が片目を空けた。
「ハーレム設定とは、少年誌レベルの話で良いな?」
「松ちゃんが言ってたのはそうだと思うよ」
「分かった。ならば兄として言っておこう。ハーレム設定の再現だけはやめておけ、とな」
「やめておけ、って。やらないよ」
つい笑ってしまった。
「もともと、僕にはそんなの無理だから」
「無理とは? どっちの意味だ」
「何人もの女の子に同時進行で想われるなんて、松ちゃんの言う通り、起こり得ないファンタジーでしょ」
「そんなことはない。そっちは対して難しくないぞ」
「兄者、何が言いたいの?」
「お前は優しい男だ。ハーレム設定の主人公にふさわしい資質を、十分に備えている」
資質? まだよく分からない。
「しかし、だ。かの主人公が、どれだけ過酷な状況で暮らしているかを考えてみろ。まさに苦行、荒行だ。だから大事な弟にはさせたくないと言っとるんだ」
「苦行?」
「あれが苦行でないと言うならなんだ。ラッキースケベの波状攻撃を受けながら、単身耐えねばならんのだぞ」
「単身って、独り占めだから、うらやましい設定なわけでしょ?」
「うらやましいものか。突然の通り雨による下着透過は見るだけ。さらに、主人公はなぜか女の子と一つの布団に潜ったり、掃除道具のロッカーに詰まったりする事態に陥るが、これまた体を密着させるだけだ」
確かにそうだ。でもそれで充分じゃない?
「日常生活においてすら、彼らは翻弄され続ける。手を伸ばせば胸をつかまされるし、コケただけでなぜか唇がぶつかる。この間などは、相手がこけた結果、その子のパンツに顔を突っ込んだ男がいた。ラッキースケベ? 何がラッキーなものか!」
「兄者、落ち着いて」
「それ以上のことは何もできんのだぞ、何も。ついでに言えば、複数人の女性から想われ囲まれながら、そのうちの何人かをいただくことも、誰か一人に決めることも許されんのだ」
最、終、回までは! と兄が拳を固めた。泣いてるの?
「地獄の苦しみの中、我慢に我慢を重ね、さらに登場女子全員の気持ちをつなぎ止めつつ、引っ張っていく。あんな芸当、並大抵の男にはできん。あり得ないファンタジーという松沢氏の言葉は、そういう意味では合っている。我輩なら、あんな苦行1億やると言われても引き受けんな」
なるほど。歴代のハーレム設定マンガの主人公たちが気の毒に思えてきた。まあ、心配しなくても、1億やるから主人公をやれと兄者が言われることはないと思う。
「気の毒と言えば、竹中氏だな」
興奮が収まったのか、兄がぽつりと言った。直樹が健太にした進言を、兄はどう思っただろうか。
「彼は直樹の親友、かつ恩人だ」
直樹はうなずいた。
高校に入学して間もなくの下校中、直樹は他校の生徒三人に囲まれ、カツアゲされそうになったことがあった。
その時、誰かが大声で叫んだかと思ったら、するりと現場に入ってきて直樹の手を取り、連れ去った人物がいた。それが健太だった。三人に囲まれていた中からどうやって脱け出したのかは分からないが、普段の直樹ではとても出せないような速さで走ったことは覚えている。
翌日、登校した直樹が礼を言いに行くと、健太は、貸していた消しゴムを返されたかのような口ぶりで “どういたしまして”と言った。
そのうち、好きなアニメが同じだったことで松沢祐介と親しくなり、祐介の中学からの友達である健太とも一緒にいる機会が増え、松竹梅のおめでたトリオが誕生した。普段は一緒に弁当を食べたり、今日のようにバカバカしい話をしたりするだけのゆるい付き合いだ。それに、健太があの救出劇についてコメントしたことは一度もない。だが、直樹は時々あの日のことを思い出す。
祐介から、健太が中学卒業時にとった異名を聞いた時には、妙に納得したものだ。直樹のようにして、数十人レベルで彼に助けられた人間がいるという噂が本当なら“
「彼のような男は稀少種と言っていい。ゆえに保護が必要だ」
健太に待ったをかけた直樹の気持ちはよく分かる、と兄は言った。
「ただ、竹中氏がそれを望むとは思えんが」
「好きになる気持ちは止められないからね」
せめて、来年の5月までは彼が片想いでいられるといいのだが。もし相手にも好かれてしまったら――その可能性は大いにあるが、たぶん地獄だ。
直樹がうつむいていると、
「後は何だったかな。無償のたふたふは至難の業だが。おお、あれなら」
兄がわさわさと体を動かした。Tシャツで指を拭い、手に取ったスマホを操作しはじめる。
「エルフなら、我輩が一人紹介してやろう」
「あ、兄者?」
「とうとう気が触れたか? と言いたげな顔をしているな。失礼な奴だ」
言いつつ何か探している。
「あった、これだ」
兄が画面を突き出してきた。
「直樹よ、松沢氏の鼻を明かしてやるがよい!」
「こ、これは……!?」
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