012 『吉祥院さん』
水曜日の授業は、一限から講義と実習が一コマずつ。
それだけで、午後はフリー。
「迎えに行くから、昼は外で食べよう」
特に断る理由もなく、そういうことになったのが、家を出る直前。半畳しかないアパートの玄関スペースで、昨日と比べて随分軽い鞄をひっさげた私が、靴を履き終わってすぐのこと。
(それって……つまるところデートなのでは?)
イヴの存在が存在、態度が態度だから。いい加減、何かにつけてそういう気分にもなってくる。
まんまと毒されてきた感のある頭で、そこはかとなく浮かれていられたのも、二限目――私にとって、本日最後――の授業が終わるまでのことだった。
「――
ちょっといいかしら。
三年次からはじまる専門演習。
シラバスと時間割の上では講義と分かれているものの、事実上、二コマ続きのゼミが終わるなり。
次の教室へ移動する前に昼食を済ませてしまおうと、何人かで集まって弁当を広げはじめる学生や、単なる時間潰しで居残っている様子の学生も、まだまだごろごろしている実習室で。
いつものように、のんびり後片付けをしていた私の前に立って、明らかに『ちょっと』ではすまなそうな質の声をかけてきたのは、いくら人の顔を覚えない
「……なんでしょう?」
「話があるの」
わかりやすく由緒正しいお家柄の出身らしい。今日もふんわりとおしゃれなファッションでばっちり決めている吉祥院さんは、その口振りから察するに、『同じ大学に通っていて、同じゼミに所属している』以上の接点がない私を、聞き耳を立てられる心配のない、静かで二人っきりになれる場所へ誘おうとしていた。
「はぁ……」
全員揃ったところで二十人もいないゼミの、相応に小さな教室。
居残った人数と、教室自体が大学附属の博物館内にあるという、諸々の事情に当事者二人の親しからざる関係性が加われば、教室内の野次馬的興味と関心を独占するのに苦労はしない。
いつも通りのざわざわが、居心地の悪いひそひそに変わっても、見たところ平然としている吉祥院さんほど、私は心臓の強い方ではなかった。
「私、これから予定があるので……歩きながらでも?」
「構わないわ」
では、そういうことで……と、無難に話をまとめて。後片付けの最後、手にしたペンケースを鞄へしまい、忘れ物がないか辺りをざっと見回しながら、ほとんど定位置と化した席を立つ。
そのまま教室をあとにしようとする私の後ろを、吉祥院さんはにこりともせずついてきた。
「それで……話って?」
大学附属博物館のエントランスホールに面した扉から、実習室を出て。壁いっぱいの掲示板に、近場の博物館や美術館で行われる特別展や常設展示品の入れ替えに関するポスターが所狭しと貼られたホールを横切り、正面玄関のやたらと重い硝子扉の片側を、肩からぶつかるよう押し開け、隙間をすり抜けるよう通り抜けて、すぐ。
硝子扉の端に手をかけたまま脇に避けながら、体ごと振り返って話を振ると。背筋をまっすぐ伸ばし、行儀作法のお手本のよう綺麗に歩く吉祥院さんは、私に続いて正面玄関を抜け、ポーチの階段を下りきったところで足を止めた。
つい今しがた抜けてきたホールにも、博物館の正面玄関から今は開け放たれている門へ至るまでのアプローチにも、玄関脇の喫煙スペースにも、私たち以外、他に人影はない。
駄目押しとばかり、私が遊ばせていた指を――なるべくそっと、吉祥院さんからは死角になる体の陰で――ぺちっと鳴らすと。吹きっさらしのポーチをひゅうひゅう抜けて、髪をばさつかせていた風がぴたりと止んだ。
「あなた、何をしたの」
どこかで聞き耳を立てているイヴが私の意図を上手に汲めていれば、ただ盗み聞きの心配をなくしただけなのに。それがまるで悪いことのよう、表情を険しくした吉祥院さんが声に緊張を滲ませた挙句、気持ち身構えてみせるものだから。私はどうにも困ってしまう。
「何を、って……何が?」
「今、何かしたでしょう」
「吉祥院さんのためにドアを開けておいた以外に?」
「とぼけないで」
とぼけるもなにも、吉祥院さんが勘付いた『何か』をしたのはイヴだから、私にだってその詳細は――今すぐイヴを呼びつけて確かめでもしない限り――わからない。
知らないものは、答えようがない。――そんなふうに、私が余裕ぶっていられたのも、そこまでだった。
「あなた、臭うのよ」
「えっ」
そんなまさかと、上着の袖を鼻先につける。
それをやってしまってから、あぁファンデーションが……と、後悔したところで後の祭り。
ガッと響いた足音に気付き、嗅覚へ集中していた意識を解放すると。ちょうど、アプローチから私のいるポーチまで一息に駆け上がってきた吉祥院さんが、その背後にどこからともなく現れたイヴの手で――「そこまでだ」と――羽交い締めにされるところだった。
「なっ――」
「場所、変えるぞ」
私の拙いまねっことは違う、本当に特別な『力』の伴う指が鳴らされて。下りのエレベーターが動き出す瞬間のそれに似た浮遊感が、体を包む。
次の瞬間。私とイヴ、そしてイヴに捕まってしまった吉祥院さんは、附属博物館から程近い橋の下、コンクリートでがっちり造成された護岸の上に立っていた。
「私、臭う……?」
「雑魚除けに私の『匂い』をつけてあるから、そのことだろう」
そういえば。祢々切丸と二度目ましてをしたときもそんなことを言っていたような、詳しい説明を聞きそびれていたような。
イヴが用意してくれた服から――鼻先がつくくらいの距離から臭いを嗅いでも、気のせいかと思うほどにしか香らない――香水の匂いしかしないことを、くんかくんかと、しつこいくらいに確かめて。最低限『異臭はしない』という確信を得られた私は、つまりそういうことなのだろうと、少しばかり大仰に、がっくり肩を落とした。
「この香水、私のお気に入りなんだけど……
「――誰も香水の話なんてしてないわよ!」
何事も見て見ぬ振りができない不器用さん。そのうえ、
イヴによる羽交い締めからはとっくに解放されていて、今はその両手だけを、自由に動かせないよう体の後ろ側で一纏めにされている囚われの吉祥院さんは、私に向かってがなりたてた次の瞬間には、その表情にわかりやすい後悔を滲ませた。
「当て馬系チョロインとみた」
「は……?」
「なるほど……そういうことなら、仕方ない。初回の『お約束』だしな」
「……えっ?」
まったくふざけているとしか思えない、真面目くさった口振りで吉祥院さんの拘束を解くと、イヴはそのまま、軽い足取りで私の傍まで――普通に歩いて――やってくる。
なんの脈絡もなく解放された――かのように、本人は感じただろう――吉祥院さんは、戸惑いながらも、私たちから距離を取るためじりじりと後退をはじめた。
その背中が――とすり、と――ありもしない『壁』にぶつかって、止まる。
「逃がしてやるとは言ってない」
私に並んで、人前だというのに恥ずかしげもなく腰を抱いてきたイヴがにやにやと浮かべる人の悪い笑顔は、内心の焦燥と緊張で引きつる吉祥院さんの表情と相俟って、これでもかというほど、悪役めいて美しかった。
「私を、どうするつもり」
見えない壁――それらしく言うなら、イヴが張り巡らせた『結界』――に退路を断たれ、イヴに出会う前の私だったら『嗚呼もう駄目だ』とあっさり投げやりになっていただろう、この期に及んで。さっさと絶望するどころか、諦観に身を任せる素振りも見せず、状況にごりごりと神経をすり減らしながら言葉を紡ぐ。
そんな吉祥院さんに向かって、捕らえた獲物を嬲るよう、イヴはにたりと笑って見せた。
「さて、どうしたものかな」
私にその気がないのだから、イヴだって吉祥院さんを積極的にどうこうしようとは思っていないはずだけど。イヴの行動指針なんて知るはずもない吉祥院さんは内心、気が気でないだろう。
「なぁ、カオル」
呼ばれて「なぁに」と、顔を上げた先。
私の目と鼻の先でイヴが浮かべる表情は、吉祥院さんに向けるものより随分と柔らかい、悪戯っ子のようなそれだった。
「昼は中華でいいか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます