007 金古美の鍵  



「さすがに狭いな……」

 イヴが突然そんなことを言い出したのは、目覚まし代わりのアラームで億劫な現実に引き戻された火曜日の朝。

「少し広げるか」

「広げるって……ベッドを?」

 思いのほか、すっきり目が覚めたこともあって。アラームのスヌーズ機能が働くまでの間、私が話につきあう素振りを見せると。イヴはすっかり彼氏面で私の腰を抱きながら、戯れに人様の鼻先を囓った。

「それもいいが、家具を入れ替えると母君の『査察』が入ったときに面倒だ。――いっそ、部屋を増やした方が手間がない」

「……どうやって?」

「こうやって」

 したり顔で笑いながら、イヴは指をひと弾き。

 次の瞬間、私とイヴの間に何かがと落ちた。

「鍵……?」

 イヴが私の前に落とした『何か』の正体は、アンティーク、あるいはファンタジックな金古美の鍵。

 長いチェーンに通されたその鍵は、実用品というより見るからにアクセサリーじみていたけれど。私を抱え起こすようベッドから連れ出したイヴは何食わぬ顔でその鍵を、鍵穴さえない扉のノブ下へするりと差し込んでみせた。

 回せば大した抵抗もなくがちゃりと音がして。開かれた扉の向こうには、見慣れたアパートの廊下とは似ても似つかない、広くてがらんとした洋室が広がっている。

「細かな内装は私がそれらしく整えてやるから。大まかな間取りは今日、お前が帰ってくるまでの『宿題』な」

「――何畳くらいまでいける?」

「いくらでも」

 そんなふうに言われてしまうと、最早授業どころではなかった。


 一限から五限まで、一日のスケジュールが詰まりに詰まった火曜日の朝だというのに。すっかり機嫌を良くした私の首に金古美の鍵をかけ、思い出したよう欠伸を零して。

「朝飯作ってやるから、顔洗ってこい」

 イヴは一度閉じ、開き直した扉の向こう、いつも通り現れた廊下の簡易キッチンに立つ。

「時間、間に合う?」

「アラームが鳴る時間変えといたから、余裕」

「えっ」

 まじかよと、女子大学生にあるまじき悲鳴を上げて飛びついたスマホが表示する現在時刻は、確かに私の想定より随分早いものだった。

「もっと寝てられたのに……酷い……」

「今日の分の授業の用意、してないだろ。いつも通りの時間に起きてたら、それこそ遅刻してたぞ」

「主にイヴが盛ったせいじゃない、それ」

「だーかーらー、朝のアラーム仕掛けて、服も用意して、飯も作ってやってるだろ」

「…………化粧も……」

「最初からそのつもりだから、さっさと顔洗ってこいって」

 枕元に置いてあったスマホに飛びついた、そのままの体勢でベッドに突っ伏していた私を、見かねたよう戻ってきたイヴが抱え起こして部屋から引きずり出す。

 脱衣所を兼ねた洗面所に押し込まれ、ようやく諦めのついた私が自分でできる範囲の身仕度と授業の準備を終える頃には。未だに寝間着姿のイヴも、手際よく朝の食卓を仕上げていた。


 メインは焼きたてのパンに、ジャムとマーガリン。付け合わせはウインナーとスクランブルエッグ。おまけのスープは即席のコーンポタージュ。

 よくもまぁこの短時間でちゃかちゃか作ってしまうものだと、普段自炊らしい自炊をしない私が素直に感心していると。イヴは最後にジャムとマーガリンの容器をそれぞれ手に取って、何も聞かず、ジャムの方を私のパンに塗り込んだ。

「……なんでわかったの?」

「面白くもなんともない答えで悪いが、お前の考えてることくらい顔を見ればわかる」

「いやらしい……」

「なんでだよ」

 そこは素直に喜んでおくところだろうと、軽口を軽口と理解して笑いながら。イヴはやはり、ローテーブルの向こう側ではなく私の隣に座って、自分が用意した食事に手を付けた。

「――いただきます」




 普通に美味しい、まともな食事。

 朝からこんな『贅沢』をするのは、いつ振りだろう。

「口、ついてるぞ」

「ん……」

 私の口端についていたらしいパン屑を、ここぞとばかり淫らがましく拭い取っていく、下心にまみれた舌先。

 そんな戯れを取り立てて咎める気が起きなかったのは、きっと、それ以外の場面で――あるいは、こんな時でさえ――イヴがいっそ、実の親より愛情深く私へ接してみせるから。

「……誘ってるのか?」

 されるがままになっていても、傷付けられることはない。

 イヴが進んで私を損なうことは、万が一にもありえないと分かっているから。私はなんの憂いもなく、身も心もイヴへ委ねてしまえた。

 昨夜のこともそうだし、今だって、そう。

「まだし足りないの?」

「倦怠期には早すぎるだろ」

 たとえ全てが夢の中の出来事であったとしても。私が後悔しない選択をと、わざわざ言い含めてくるようなイヴだから、こんなタイミングで後先考えず事に及ぶことはしないだろうと高をくくって。いとも容易く押し倒された私の反応が予想と違うと、どこか拍子抜けしたような、気遣わしげでいて淫らな期待の滲む表情を、特等席から眺めていられる。

「ご飯食べて、化粧して……家から教室まで、どれくらいかかると思う?」

「私が送れば十五分だな」

「――そんなに?」

 見透かされていることに気付いたイヴは、わかりやすく拗ねたような顔をして。悪足掻きのよう、ほのかにジャムの味がする唇で私に噛みついた。

「夜までもたなくなっても、知らないからな」


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