006 後朝  



「…………」

 眠った覚えもないのに目が覚めて。まず、体のあちこちを苛む鈍痛に顔を顰めた。

「ぁ――」

 そして喉が痛い。

「――ほら」

 オレンジ色のほのかな明かり――シーリングライトの保安灯――にうっすらと照らされた視界へ、飲みかけのミネラルウォーターが差し出されて。ぐったりと横になっていた体を、背中にぴったりとはりついていた体温ぬくもりの主が抱えて起こす。

 キャップを外してから手渡され、のろのろと口を付けた水は、オイルヒーターの傍に置かれていたせいか喉に心地良くぬるまっていた。

「いま、なんじ……」

「んー……五時四十六分、だな。お前が落ちてから四時間くらいか」

「しょしんしゃあいてに、いくらなんでも、さかりすぎでしょ……」

「男の性欲舐めてたな」

 まるで他人事のようぬけぬけと話すイヴは、既に見慣れた少女の姿へ戻っている。

 だからこその余裕ぶった振る舞いなのかと思うと、今の今までなんともなかった頭までもがずきずきと痛み出してくる始末。

「さる……」

「悪かったよ。次は気をつける」

「とうぶんしない……」

「まぁそう言うな。……お前だって、悪くはなかったろう?」

「…………」

 一度ならず、もうこれ以上はないというほどに深く繋がってみると。どうやら人外の美しさに対する無意識の遠慮というか、『は眺めて愛でるものなのだ』という認識もどこかへ行ってしまうようで。傾国もかくやという美貌の鼻先へ思い切り噛みついてやる瞬間、私の頭に、イヴに対する遠慮や手加減といった類の感情がちらつくことはなかった。




「いっ――」

 私の機嫌をとるよう、顔をすり寄せてきていたイヴの鼻先へ情け容赦なく噛みついてやると。豚の軟骨を噛んだような歯ごたえがして、口の中いっぱいに鮮やかな血の味が広がる。

 条件反射とばかりに私の肩を掴んだイヴの手が、そのまま強引に私のことを引き剥がそうとすることはなかった。


「照れ隠しにしても過激すぎるだろう……!」

 血色の瞳を盛大に潤ませたイヴは、根気強く私が口を開けるのを待って。それから、だらだらと血を流す鼻を私の視線から隠すよう手の平で覆う。

 鼻先から顔を伝って滴り、ベッドの上で折り畳まれた膝へと落ちていく鮮血。

 その惨事が現実のものであることは間違いないはずなのに。全てがオレンジ色の保安灯に、うっすらとしか照らされていないせいか、私の目には何もかもが現実味を削ぎ落とされて映った。

「あー……」

 喉の痛みも、いつの間にか治まっているし。

「……ツバでもつけてあげましょうか?」

 さすがにやり過ぎたかと、すっかり俯ききってしまったイヴの顔を、今度は私が覗き込んで様子を窺うと。おもむろに顔を上げたイヴの鼻先に、私が付けたはずの噛み傷は跡形も残っていなかった。

「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ……」

「もう治ったの?」

「痛かったから……」

「よく見せて」

 つい今しがた、下手をすれば警察沙汰レベルで手酷くやられたばかりだというのに。性懲りも無く私が顔を近付けることを許したイヴはその挙句、血塗れの手で私の腰を引くと、自分から後ろ向きに倒れた体に半ば無理矢理私を乗せた。

「なに?」

「お前からキスしてくれたら元気になる……」

「……『お願いします』は?」

「キスしてください……」

「はい、はい」

 ほんの少し、それこそ口先でそっと触れるだけ。それも、ついさっき噛みついた鼻先へのキスでも、イヴにとってはそれで問題ないらしい。

 わかりやすく相好を崩してみせるイヴの顔からは、いつの間にか、流したはずの血の跡さえ綺麗さっぱり消えてなくなっていた。

「『イヴ』ってこんなキャラだっけ……」

「キャラ崩壊するほど細かく設定しなかっただろう、お前。『ちょっと完璧すぎて使いまいないな』とか言って」

「そういえば……」

 そうこう話しているうちに。腰を抱いていた手が背中を這い上がって、私の上半身をイヴに密着させる。

 首をもたげているのが億劫で体をずらすと、慎ましやかな胸元に顔を埋めた私の髪を、イヴの片手が手慰みにか掻き乱した。

「お前、これが夢だと思ってるだろ」

「…………」

「別に、それでもいいけどな。

 たとえ夢だったとしても、覚めるまではお前にとっての現実だ。軽い気持ちで後悔するような選択はするなよ」

「可愛い娘の鼻に噛みついたり、とか……?」

「そうだな」

 べったりと耳をつけた胸腔に、笑い混じりの声が心地良く響く。

 二人で使うには狭すぎるシングルベッドの上で、イヴは器用にお互いの体勢を入れ替えて。あっという間に組み敷かれた私の視界を、月光を紡いだよう煌めく銀の髪がさらりと閉ざす。

「どうせ痕を付けられるなら、もっといやらしいやつがいいな」

 私の視線を否応なく独占しながら落とされる、もう何度目かも分からない唇へのキスは、どこかに残っていたらしい、綺麗な魔女の血の味がした。


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