003 エンカウント

  


 月曜日の授業は、午後に講義が三コマ。

 顔を合わせた知り合いという知り合いにしつこくデートの相手を訊かれた以外は、いつものとおり。ほんの半日前、私の身に降りかかった致命的な災いとそれに端を発する驚きの数々を思えば、拍子抜けするくらい平穏無事に二百七十分間の授業を受け終えて。季節柄、六時を回ればすっかり暗い空の下。吐く息を白く染めながら、寒さに追い立てられるよう、足早に辿る帰路の途中。

「――おい」

 剣呑な声をかけられるまで、その存在に気付かなかった。私の油断を嘲笑うかのように。街路灯の陰からひょっこり姿を現したのは、つい昨日、どこかの公園で見かけた和装の青年で。

「あんたに訊きたいことがある。少し、話を――」


「イヴ――!」


 その存在をはっきりと認知した瞬間。私は青年の言葉を最後まで聞き届けることもなく、声の限りに叫んでいた。

「なっ」

 取り付く島もないとはこのことだなと、自分の行動を内心では意外と冷静に分析しながら。イヴほどではないにせよ、それなりに整った容貌を驚愕に染め上げた青年が、焦りも顕わに距離を詰めて来ようとするのを、まるで他人事のよう棒立ちになって見つめる。

 ほんの半日前、人でなしの通り魔から心臓を貪り喰われたまさにその場所で、今日は刀を持った見知らぬ誰かと二人きり。

 そんな状況、普通ならトラウマスイッチどころの話じゃあないんだろうけど。私が自分でも驚くほど平然と、ほんの少しも取り乱すことなくいられたのは、どうってことのない単純な理由が全てだった。

 不躾に伸ばされた男の手は、どう足掻いたところで私から何も奪えはしない。そのことを、私は既にこの身をもって知っている。

 ただ、それだけのこと。


「――呼んだか?」


 絶えず吹き続けていた風が不自然に凪ぎ、空気の閉じる気配がして。私の口を塞ぐべく走り出そうとしていた青年が、中途半端な前傾姿勢で動きを止める。

 相変わらずなんの気配もなく私の傍らへと姿を現し、気安い声をかけてきたイヴは、ついさっきまでどこかの室内にいたのだろう。その装いは防寒のことなどこれっぽっちも考えていない、真夏のような軽装で。靴どころか靴下さえ履いていない裸足の爪先は、敷き詰められたアスファルトの冷たさから逃れるため、ゆらゆらと宙を泳いでいた。

「ふむ」

 しなやかに伸ばされた腕が手繰り寄せる私の体は、さしずめ重力から解き放たれた体を地上へ留めるための楔。

 爪先どころか体ごと宙に浮いているイヴは、腕を回した私の首元にしがみつくことで落ち着きのない体勢を安定させると、その登場にあからさまなほど渋い表情を浮かべて見せた青年を一瞥。そう複雑でもない状況を見たままに理解したような顔で、これみよがしにパチンッと指を弾き鳴らした。

「ッ!」

 すると。その視線の先にいた青年は、弾かれたようその手に持っていた刀を取り落としてしまう。

 それがイヴの『力』によるものだとわかっているからこそ、いちいち驚きもしない私が見つめる先で。一度地面を転がった刀はすぐさま釣り上げられた魚のよう宙を舞い、片手を上げて待ち構えるイヴの手の平へと吸い込まれていった。

 そうして。あっけなく武装解除された青年がイヴへと向ける視線に込められた驚愕は、私が彼女を呼びつけた時の比ではない。

「大方、私が雑魚除けのつもりでこの子につけたを辿ってここまで来たんだろうが……残念だったな。お前が選んだそれは完全な悪手だよ」

 次第に何か得体の知れない、恐ろしいものを見るようなものへと変わっていく青年の視線を気にする素振りも見せず、むしろ哀れむような目を向けてから。

 イヴははたと、たった今、大切なことを思い出したと言わんばかりの態度で私を振り返る。

「なぁ、カオル。あれはなんて名だったかな?」

「『あれ』?」

「刀だよ」

 ちょうどこんなと、差し出される刀を私が素直に受け取れば。イヴは見るからに人の悪い笑みを浮かべ、今や戦々恐々と息を潜めながら事の成り行きを見守ることしかできない、哀れな青年を見やった。

 性格が悪いのはいったい誰に似たんだろうと、やっぱり他人事のように考えながら。私は知っている限りの『刀』の名前を、頭の中に思い浮かべていく。

「お前が最近はまった漫画の主人公が持ってる、人だけが斬れない――」

 いざ、尋ねられてみれば。問題の難易度としては、身構える必要もなかったな、という程度。



 それは。元はと言えば、昔々人々を困らせていた祢々ねねという妖怪を、収められていた神社から独りでに飛び出し斬り捨てたという妖刀の名で。

 それがいったい、この場でどういう意味を持つのか。何もわからないまま口にするのは簡単だった。

「あぁ、そうだった。――祢々切丸ねねきりまる

「その名を、何故……!」

「昨日、自分が何を斬ったのか、本当にわかっていなかったのか?」

 今にも倒れてしまうのではないかというほどに。みるみる顔色を青褪めさせていく青年を、イヴはやはり、哀れみ混じりに嘲った。

「昨日……?」

 昨日と言っても、あれは早朝に近いくらいの深夜の出来事だったから。私の心臓を貪り喰らった異形の化物を、今は私の手にあるこの刀で青年が斬り捨てたのは、実際のところ今朝方の話だ。

「お前はあのバケモノを介してこの子の血を、そして私の力をも取り込んだ。あれを斬ってもらった手前、一度は見逃してやったがな? 本当ならお前のようなモノを、私が放っておく理由はないんだよ」

 くつくつと喉を鳴らして笑うイヴの振る舞いは、人の悪い表情と相俟ってまるきり悪役のそれで。実際、彼女と対峙する青年にとっての『イヴ』とは――それこそ致命的な――『災い』そのもの、なのだろう。

 けれどこればっかりは、仕方のないことだ。

「命が助かっただけ有り難いと……そこで、満足しておけばよかったのになぁ?」

 祢々切丸と、イヴが今もどこかの神社に祀られている刀の名を口にして。それを聞いた青年が、何かに屈するようその場に膝をつく。

「くそっ」

「――眠れ」

 イヴのその一言を切欠に、なんとか踏み止まっていた肢体をどさりと地面に倒れ込ませた青年は、次第にその姿形を薄れさせていき……やがて跡形もなく消え去ってしまう頃には、私も、なんとなくその正体に見当がついていた。

「もしかして……こっちの刀が本体とか、そういうオチ?」

「なんの捻りもなくて悪いが、そういうことだ」

 私の手に残された刀を取り上げて、イヴはパチンッと指をひと鳴らし。

 次の刹那、周囲の景色は一変して。首元にイヴをしがみつかせたまま、私は見慣れたアパートの玄関内に立っていた。

「おかえり」

 私の耳元で殊更優しく囁いて、肩に手をつき離れていく。

 ふわりと浮き上がったイヴの体は、ゆっくりと迫る天井を押し上げるよう、しなやかに伸びきった爪先から廊下へ下り立つ。

 裸足の踵が床へとついてしまえば、それまで気侭に宙を漂っていた銀の髪もまたすとん、とあるべき背中に落ち着いた。

「ただいま」



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