第6話-三歩歩いたら忘れる女

「いつまでぼんやりしてんだよ。とっとと病院に電話しろ。予約だ予約」

「えー、でも精神科とかなんかちょっと抵抗あるし」

「ぐだぐだ言うな。お前な、うつ病の有病率なんて6.5%、15人に1人は一生のうちにうつ病発症するんだぞ。別にいまどき珍しいもんでもなんでもないわ」

 死神の勢いに押され、寝室から携帯電話と昨日もらったメモを持ってくる。

「一番上の病院が口コミよかったぞ」

 どれだけリサーチしてくれちゃっているんですか。抵抗しても無駄なのは目に見えているので、諦めてメモの一番上にある病院に電話をした。受付の女性に姓名や初診かどうかなどを訊かれた後、しばらく保留にされる。保留が明けると受付の女性とは代わり男性が電話口に出て、どのような症状なのかを訊かれた。簡潔に状況を伝えると予約はいつにするか尋ねられた。

「なるべく早くがいいんですけど」

「少々お待ちください…そうですね、来週月曜日の午後2時でしたら空きがありますがいかがですか?」

「じゃ、それでお願いします」

 案外あっさりと予約が取れて拍子抜けする。死神を見るとまた邪悪な笑みを浮かべていた。もしかして、と思うが確認するのはやめておく。

「月曜日の14時で予約取れた」

 言うまでもなくどうせ知っているだろうが一応報告する。私の報告を聞くと死神はソファから立ち上がって伸びをした。

「夕飯には肉じゃが作ってあるから温めて食え。あとほうれん草のお浸しが冷蔵庫に入ってるからな」

「行っちゃうの?」

「当たり前だ。担当地域はそれなりに広いんだからお前だけに構ってらんねーの」

 そういうわりには随分しっかり構ってくれているように思うが、言うとまた頭を叩かれそうなのでこれもまたやめておく。

「ちゃんと鍵かけろよ」

 死神はそう言うと律儀に玄関から出ていった。言われた通り鍵をかけると、靴音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 二人分のマグカップを洗って、丁寧に布巾で拭って食器棚にしまうと、それでもう手持無沙汰になってしまった。

「休みって、いつも何してたっけ」

 大学を卒業後、大手の商社に総合職で就職しこの5年間ずっと仕事に明け暮れてきた。家に仕事を持ち帰ることも多く、休みの日でも仕事の資料とにらめっこをしていることが多かったので、適切な休みの過ごし方というものがよくわからない。

「そうだ、コンディショナーそろそろなくなるから買ってこなきゃ」

 ふと思い出し、近所のドラッグストアまで出かけることにして、部屋着から着替えようとして外出用に持っている服のほとんどがスーツであることに気付いた。

「そういえばちょっと出かけるときに着るような服ってあんまり持ってないんだな」

 考えるのが面倒になって、結局今朝着たスーツをもう一度着て部屋を出た。日の高いうちに外を歩くのはいつ以来だろう。朝早く出勤して、帰宅するのは夜、日中はずっとオフィスでデスクワーク。昼食は社内の食堂で適当に済ませるので外に出ることは滅多にない。

 頬をなぶる風が心地よかった。パンプスの踵がアスファルトを叩く音も心なしか軽やかに聞こえる。数分歩いてドラッグストアに着くとコンディショナーの詰め替え用をまず買い物籠に入れた。籠を持って店内を歩いているとあれもこれも欲しくなってくる。入浴剤のコーナーでふと足が止まる。いつもシャワーで済ませていて、最後にゆっくり湯船に浸かったのがいつだったか思い出せない。

「たまにはゆっくりお風呂入ろうかな」

 ぽつりと呟いて入浴剤を物色する。数分粘って、結局安眠効果があるというハーブが配合されたバスソルトを選んだ。ほかにもいくつか日用品を籠に入れ会計を済ませると、日の光を楽しむようにゆっくりと歩きながら部屋に戻った。


 ぬるめの湯にバスソルトを投入するとふわっと花の香りが浴室内に満ちた。湯をかき混ぜて身体を沈める。ペットボトルのミネラルウォーターを時々口にしながらゆっくりと湯船に浸かり、ぼんやりとまとまりのない思考を追う。

「仕事しかしてこなかったんだなぁ」

 中高一貫の地元の名門女子高から東京の大学に進学し、がむしゃらに勉強をして大手の商社に入社し、同期に負けないようひたすら仕事に励んできた。その甲斐もあって同期の中では出世も一歩抜きんでている。しかし、そんな私が急に一週間休むと言っても、会社の業務は特に支障なく回っていく。

「そんなもんか」

 自分一人が抜けたところで会社という組織にはさほど影響がないのだという事実がゆっくりと頭に馴染んでいく。

「なんでこんなに力んでたんだろ」

 あっけなく肩から力が抜けた。ミネラルウォーターを飲み干し、湯船から上がる。ふと、剃刀が目に入った。どうせ私がいなくたって何事もないように仕事は回っていくんだ。そう思うとぎゅっと強く剃刀の柄を握っていた。浴槽にはまだ湯が張ってある。浴槽に戻って手首を。

「人間ごときが何勝手に死のうとしてくれちゃってんの?仕事増やさないでくんない?」

 握っていた手から剃刀がなくなっていた。

「だからさぁ、それなりに担当地域広いんだから、お前にばっかり構ってられないっていったじゃん。三歩歩いたら忘れるんですかテメーは」

 思わず身体を隠すようにしゃがみ込むが浴室内に死神の姿は見えない。見回すと浴室のドアの向こうに黒い影が見えた。

「手首なんて切ってもそうそう簡単に死なないよ?ためらい傷とか残っちゃったら半袖の服とか着れなくなっちゃうよ?久しぶりに会った友達とかが手首の傷見たらひいちゃうよ?触れちゃいけないグラスハートですかこのやろーって気ぃ遣っちゃうだろうが」

「そっちの心配かよ!」

「余計なこと考えないで夕飯食って寝ろ」

 そういうと黒い影は姿を消した。恐る恐る浴室のドアを開けてみるが死神は見当たらない。湯を落とし、バスタオルで体を拭ってパジャマを着る。リビングのテーブルには夕食が用意されていた。これまたなんと手厚いこと。

 スキンケアを終え、手を合わせてから夕食をいただき、食器を洗い終えてからしばらくぼんやりとテレビを眺めることにした。ニュース番組以外を観るのは本当に久しぶりだった。ひな壇に若手のお笑い芸人らしき人物がたくさん並んでいるがまったくわからない。番組はお笑い芸人がネタを披露して、それを審査員が採点するというものだったが、内容がまったく頭に入らなかったのですぐに飽きて消してしまった。

「寝よっか」

 誰にともなく呟いてみるが、当然返事はない。それが少し寂しかった。

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