追憶の酒場

さく

第1話

追憶の酒場


その店は路地の手前にあった。

ボサノバがあたりに薄く漏れて耳に染み入るような心地がした。

夜の闇と同化したような重いドーアを開けると、女の目がじろり、こちらを向く。

「いらっしゃい」

二十代半ばだろうか。

仄暗い中でもひときわ目を惹くつややかな黒髪の挨拶に出迎えられて、一番奥の席に腰掛けた。

「マッカラン、ロックで」

他に客がいないからか、思いのほか男の声はよく響いた。

「かしこまりました」

女の背後にはスコッチがずらりと並んでいる。

その中の一本を取り出し、ポンっと小気味よい音を立ててコルクを抜いた。

グラスに充ち満ちてゆく酒から懐かしい木の匂いがして、思わずほうっと息が漏れた。

あれはいつだったろうか、確か汽車に揺られて出掛けたように記憶しているから学生の時分ではなかろうか。

金はろくになかったが時間を持て余した私は、よく旅に出た。

いや、旅というほどの代物ではない、いうなればトリップだ。

あの頃は退屈をひどく嫌い、なんでもいい、暇を埋める遊戯は一通り試したものだった。

タイムカプセルの蓋を開けるように一夏の思い出が蘇ってくる。

この木の匂いはあのとき泊まったロッジのそれとよく似ていた。

あの女は……

「どうぞ」

「ありがとう」

もう四半世紀以上も前のことをどうしてこんなにも覚えているかといえば、特別な日だったからである。

グラスを持ち上げると、さらに深まる香りに酔いしれながら男は言った。

「芳醇な味わい……いい酒だね」

「恐れ入ります」

「これみんなイギリス製?」

「ええ、今日もマスターが買い付けに行っております」

酒を嗜む場にしては硬い言葉遣い。

近頃の娘には珍しい距離感を強いられて、男はむしろ興味をそそられた。

「君もさ、」

「ユリコ」

「え?」

「ユリコと申します、以後お見知り置きを」

間接照明の下で洗い物をするユリコが動くたびに、冷たい横顔が浮かんだり消えたりする。

睫毛がカウンターに影を落とし、グラスが目の中に飲み込まれてしまった。

「ユリコも何か飲みなよ」

「ありがとうございます」

氷は光に反射して時折煌めく。

それが無数の目に見えて背中にぞわりと寒気を感じた。

搔き消すように飲み干せば、甘苦く熱をもつ液体が食道を伝い体中に染み渡る。

即効性の媚薬があるならどんな味がするのだろう。

ぼうっとし出す頭で思いを巡らせても答えは出なかった。

「いただきます」

乾杯のあと小さく呟いたユリコの喉がごくり、ごくりと二度嚥下する。

喉は白く艶かしく蛇のごとくうねった。

「どう?」

「おいしいです」

言葉とは裏腹に濡れた唇の端が歪んでいる。

「嘘はいかんな」

直感でそう言うとユリコは蛇に睨まれたカエルのような顔をして舌を出した。

蠢く赤い生き物はすぐに自分の棲家に引っ込んだ。

「苦手なんです、スコッチ……」


あれから何度酒を注がれただろう。

脚の付け根が熱い。

まるで催淫剤のような女だ。

「ユリコ……」

自分の声が色欲の響きを帯びている。

「どこかでお会いしていましたか?」

「え?」

「先ほど名前を」

「ああ」

口に出ていたらしい。

どう説明すればよいものだろうか。

言い淀むとユリコはふふっと静かに笑った。

唇に人差し指を押し当てる。

「野暮でしたね」

猫を思わせる黒目がちな瞳で見下ろされ、鳩尾が脈打った。

その視界を塞ぎたくなる。

「いや、いいんだ」

努めてゆっくり答えた。

頭に浮かぶ口説き文句を悟られないように。

それを知ってか知らずか、ユリコが伸びをする。

体の凹凸が目に入る。

「店が終わったらどこかで飲まないか」

思いのほかストレートな言葉が出た。

もっとじわじわ攻めていくつもりだったのに。

ユリコは一瞬間をあけて驚いた顔をした。

「お客様、案外もたないのねえ」

手で口元を隠しながら笑っている。

馬鹿なやつだとでも思っているのかもしれない。

それでも誘惑には勝てなかった。

男は背広の内ポケットから手帳を取り出す。

自分の番号を書いて破った。

「終わったら電話して」

飲み代とともにテーブルに置く。

そこへドアベルが鳴り、新たな客が入ってきた。

「いらっしゃい」

ユリコは紙切れだけを握りしめ、その場を離れた。


「終わりました」

電話があったのは、日付が変わってすぐだった。

「おつかれ」

「どこへ行けばいいですか?」

口調が戻っている。

少し残念に思いつつ、店まで迎えに行くと言った。

この時間でも都会は明るい。

これから夜を楽しむ人も多いだろう。

男は期待を胸に、タクシーに乗り込んだ。

行き先までは五分もかからなかった。

黒塗りの扉の前でユリコが立っていた。

私服だろうか。

白いシャツに、スリットの入った紺色のスカートに着替えている。

近くで止めてもらうとこちらを向いた。

目が合って手招きする。

「お待たせしました」

律儀な女だ。

誘ったのはこちらだというのに。

「結構早かったね」

「今日は早く上がらせてもらったんです」

ユリコは前を向いたままはにかんだ。

頬が心なしか上気している。

「酒、強い?」

「まあそこそこ。父が酒豪なので」

尋ねながらホテルへ向かう。

バーも併設されていたはずだ。

「それじゃ、飲み比べしようか」

「お客様には敵いません」

タクシーが傾き、長い坂を登り始めた。

高台に建つ見晴らしのよいホテル。

女は夜景にやたら弱い。

ユリコも気にいるだろう。

ドアが開く。

「ありがとう」

身を乗り出しながらユリコが言う。

赤くなった運転手を横目に、男は無言で降りる。

「妬いた?」

腕が絡みついてくる。

「別に」

口に手をやってまたくすくす笑われる。

嘲笑の響きがあるが、苛立たないのが不思議だ。

実際のところ、複雑だった。

別の男に向ける笑顔を見たくなかった。

だが、こんないい女を独り占めできるという優越感も充分あった。

「私は妬いてる」

バーカウンターで注文したあと、ユリコがぼそりと呟く。

「ここで他の女を抱いたんでしょ」

いじけているさまはかわいかった。

つい、からかいたくなる。

「ああ」

「どのくらい?」

「両手で収まる」

「それならいいわ」

ユリコは安堵したようだった。

「その中で一番になる自信があるから」

危うく落としかけたシガレットケース。

その中の一本を口に咥える。

急に愛おしさがこみ上げてきて、髪を撫でた。

手にのせると砂のようにこぼれ落ちる。

「綺麗だね」

思わず口走った言葉に、苦笑いがもれた。

盛りのついた若者みたいだ。

おだてているように聞こえただろうか。

ユリコを前にするとうまくいかない。

「お待たせ致しました」

タイミングよく、カクテルが運ばれてくる。

ほっと息を吐く。

喉の奥でマッカランの苦味が蘇った。

つい甘い酒で打ち消したくなる。

いかんいかん。

使い物にならなくなる前に酔いを覚まさないと。


「……様!お客様!」

誰かが呼んでいる。

起きようとするが、瞼が重くて上がらない。

もう少し待ってくれーー

「お客様!もう閉店です!」

肩を揺さぶられ、男はようやく目を開けた。

最初にカクテルを持ってきたバーテンが目の前に立っている。

「……」

起きぬけの頭で考える。

スコッチ、マッカラン、ユリコ、ホテル……。

思い出してきた。

ただ、ここで数杯飲んでからの記憶がおぼろげだ。

ユリコのペースがあまりにも早かった。

ちびちびしていては男として格好がつかない。

負けじと酒を煽ったことまでは覚えているのだが。

それにしても、ユリコはどこにいるのだろう。

「お客様。申し訳ありませんが、閉店ですのでお引き取り下さい」

口調とは裏腹に、顔には苛立ちが張り付いている。

「すみません、連れが見当たらないのですが……」

「お連れ様なら帰られましたよ」

声に侮蔑の色が滲んでいた。

失態を晒した上、女に逃げられたとなれば見下したくもなるだろう。

改めてバーテンの顔を見た。

男の年齢の半分ほどの青年。

痩せて背が高く、不自然なほど肌の色が白い。

最近流行りのあっさりした顔立ちで、それゆえ冷たそうな印象を受けた。

「ご迷惑をお掛けしました」

こんな若者に頭を下げるのは癪だったが、仕方ない。

「いえ、タクシー呼びましょうか?」

「お願いします」

シルバーフレームの眼鏡を指で押し上げ、バーテンが電話をかけ始める。

その声を聞きながらここでの会話を反芻していた。

「ねえこれ、おいしい」

二度目の乾杯の後、ユリコは半分ほどを一息に飲み干した。

「色合いも素敵だし。ひとくちどう?」

グラスにうっすら映える紅の跡が艶かしい。

取り出したハンカチで拭きつつ、カクテルを勧めてくる。

「いや、もう……」

「ご冗談を。飲み比べしようとおっしゃったのはどなたかしら?」

挑戦的に細められた目が男を覗き込んだ。

視線が徐々に下がる。

全身を舐めるように見られて、燻っていた欲情が這い上がってくる。

「そ、そうだな。じゃあもらおうかな」

ほのかに熱が残るグラスは、カカオの香りがした。

「アレキサンダー?」

クリームの甘さが尾を引いている。

今時の女の好みそうな味だ。

マッカランとは比べものにもならない。

「さすがね」

「悪くないな」

媚びるような言葉が漏れる。

少し興を削がれた。

ユリコに期待しすぎていたのかもしれない。

こんなちゃちな酒で喜ぶとは。

落胆に近い気持ちを感じ、男は苦笑した。

自分の子どもほどの娘に翻弄されている。

なんだか自棄になり、新しいカクテルを注文しに席を立ったーー。

「お客様、タクシーが到着したみたいですよ」

思考に現実の声が割って入る。

同時にエンジン音が聞こえてきた。

ひとまず家に帰れそうだ。

「本当にご迷惑をお掛けしました」

もう一度謝罪する。

「お代は……」

「すでに戴いておりますので、結構です。お気をつけてお帰り下さい」

眼鏡の奥の瞳は穏やかだった。

男は先ほど心の中で毒づいたのを反省した。


最寄りの駅の名を告げると、タクシーは静かに走り出した。

数時間前上ったばかりの坂を下ってゆく。

前のめりになりながら、冴えてしまった目を閉じる。

しばらくして平坦な道に戻った。

長い夢から覚めたようだった。

タイミングよく、ラジオから新たな曲が流れてくる。

深夜だけあって、眠気を誘うようなスローテンポなメロディだ。

「Days Of Wine and Roses、ご存知ですか?」

男より一回りほど年上の運転手が話しかけてくる。

「名前は聞いたことがありますが、詳しくは」

「まあお客さん世代じゃまだ子供だったでしょうね」

この歳になると、懐古の念がふいに湧き上がってくることがある。

普段なら面倒がってうやむやに終わらせるが、今夜は付き合おうという気になった。

「ええ」

「日本だと酒と薔薇の日々という訳らしいのですが。一杯のカクテルが元でアル中になっていく夫婦の話でしてね。当時の恋人と観に行って、後悔したものですよ」

ラジオは軽快なDJの喋りに変わっていた。

だが、子守唄のような歌声が耳にざらざら残っている。

「はあ」

「あの頃は分からなかったが、今なら理解できますよ。何かに依存しないとやってられん時もあるさ」

「……」

なんと答えるべきか。

男は考えあぐねて黙り込んだ。

五十も半ばで独り身、両親もすでに他界している。

頼りたいという気持ちなどとうに忘れてしまった。

実際、誰の世話にならずともこの歳まで生きてきたのだ。

「そうですね」

言えたのはそれだけだった。

「でも孫が結婚してそんな風になったら、耐えられないよ」

「お孫さんおいくつですか?」

「三歳でね、やっとこの前じいじって呼んでくれたんだ」

「成長が楽しみですね」

それから娘の婿の愚痴になり、奥さんとの馴れ初め話になり。

ご両親の死因を聞く頃には、タクシーは見慣れた大通りを走っていた。

あの角を曲がれば自宅だ。

「着きましたよ」

横断歩道の手前で、流れるように止まる。

「こちらでよろしいですか?」

「ええ、お世話様でした」

「久しぶりに話しすぎたな。歳をとると人の気持ちに鈍くなるからいかん」

「いえそんな。楽しかったです。自分には妻も子どももいないので」

「ほう、そうか」

運転手は意外だと言いたげな顔をしたあと、すぐに人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。

「まあ人生いろいろあるわな」

扉が閉まる。

代わりに窓ガラスが開いて、ぬっと輪郭が現れた。

「お気をつけて」

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