あえなくして待つ
好き、嫌い。好き、嫌い。そんな風に花占いをする人が、ほんとうに居るのかどうかは分からない。少なくとも、最近ではほとんど見なくなった行為であると言っていい。
だが、石段を上がってくる革靴の音は、それに似ていた。
気付いた咲耶が、ふと
革靴の音の高さと速さは、それが男性であることを示していた。低い石段を、一段飛ばしで上っているらしい。
その男性的な拍子と音色と、それが奏でる好き、嫌いというような旋律がどうにも符合せず、咲耶はその音の主が現れるのを、何となく待った。彼女の脇の
程なく、男性の姿。サラリーマン風、歳は二十代か。咲耶の姿を見て、会釈をした。咲耶もにっこりと笑い、会釈を返した。
そのまま、男性は本殿の前へゆき、作法通りに祈った。咲耶は、また箒に眼を戻している。
「すみません」
一通りのことが終わったらしく、男は咲耶に声をかけてきた。
「絵馬を、買いたいんですが」
ごく普通の、清潔感のある男だった。今日は土曜だから、昼まで休日出勤だったのかもしれない。
「どうぞ、こちらへ」
咲耶は、男を売店へと
絵馬を受け取った男は、早速願い事を書き込んだ。
「真実の愛が何なのか、知りたい」
このような願いを、女性的なものと決めつけるのは時代錯誤かもしれないと咲耶は思い、特に表情を変えることはなかった。それに、昔から、和歌などにも女性への想いを連綿と連ねたものがある。昔のほうが、こういうことについては性別の差は無かったかもしれない。
特にその筆の跡を見るわけでもなく、咲耶はこの前まで静かであったくせに、数日前から当たり前のように鳴く蝉の声を浴びている。
「あそこに、掛ければいいんですよね」
男は、絵馬を掛けるために作られた柵のところを指した。
「ええ。どうぞ」
そのまま男は、砂利をまた例の旋律でもって踏み鳴らしながら歩き、柵に絵馬を掛けた。
内心、男はまた祈った。
──どちらか、選ばせてほしい。
──このままでは、身がもたない。
強く眼を閉じすぎていたせいか、ふと眼を開けたとき、自分の書いた文字が浮かび上がったような気がした。
「叶いましょうか」
すぐ後ろで声がして、男は声を上げて驚いた。
「ごめんなさい。驚かせるつもりは、ありませんでした」
巫女が、にっこりと微笑みながら強い日差しの下に立っている。
「自分では、どうしようもないんです。だから、神様に頼むしかない。皆、身勝手なことばかりお願いするから、神様も叶えるのが大変でしょうけど」
男は苦笑した。
「あなたは、ご自分のお願いが身勝手だと思うのですか?」
混じり気のない巫女の視線に、男はたじろいだ。巫女の瞳は、とても黒く、美しく、透き通っている。その透き通り方がどこか、魂が宿らぬもののようで、なんとなく男は居心地が悪いと感じた。
風が、出ている。それが巫女の髪を揺らした。どこからか、花のような香りと、水辺のような匂い。男は、それを何の匂いか考えながら、
「自分では、どうしようもないんです」
と、同じことをまた言った。
「自分のことなのに、選べなくて」
そう付け足して、力なく笑った。
その顔が、ぎょっとしたものに変わった。
男は、噂を知っている。有名だから、知っていて来たのだろうが、それでも男は、目の前の巫女が、懐から錦の小袋を差し出しているのを見て驚いたのだ。
噂が、ほんとうならば。
このお守りを受け取れば、願いは叶う。
叶えば、どうなるのか。
「自動販売機の話、ご存知ですか」
「自動販売機?」
巫女がいきなり妙なことを言い出すので、男は眉をひそめた。
「飲みたいジュースが二つあって、どちらも選べないとき、眼をつぶって二つ同時にボタンを押し、出てきた方が、ほんとうに自分が欲しがっていたものだそうですよ」
「その話なら、知ってます」
だから何だと言うのだという顔を男はした。
「よいお詣りでした」
男は、お守りを受け取り、震えてしまいそうになるのをこらえ、ポケットに押し込んだ。
慌てて、立ち去ろうとする。
「神様が大変だという話──」
その背に、蝉の声よりよく透る巫女の声が覆い被さった。
「──ご心配なく。神様だって、ちゃんと選んでいます」
またにっこりと微笑む巫女を一度振り返り、男は石段を駆け降りて行った。
──どうする。
──お守りを、もらってしまった。
──ほんとうに、願いが叶うのか?
──どうなる。
自ら望み、参詣をしたくせに、男は焦りと不安に押し潰されそうになりながら早足で歩いている。
──やっぱり、駄目だ。捨てよう。
そう思い直し、ポケットの中で握りしめたままのお守りを、投げ捨てた。
「あれ?」
投げ捨てた先に、女性の靴。
「
男の顔が、真っ青になった。
「ちょっと、
鏡子と呼ばれた女はお守りを拾い、佑樹の方に親しげに近付いてきた。
「き、鏡子さんこそ」
「あたし?仕事終わったし、噂の神社にお詣りでもして行こうと思って。一緒に行く?」
「俺は──」
「あ、このお守り。もう行ってきたの?」
「──うん」
「なんだ。せっかく、佑樹くんと一緒に暮らせるようにお願いをしようと思ったのになあ」
「やめろよ」
佑樹の口調が、強くなった。
「嘘よ、ごめんごめん。彼女にばれたら、怒られるもんね。わたしも旦那がうるさくて。なかなか会えなくて、寂しい」
どうやら、二人はそういう間柄らしい。佑樹は、彼女と同棲中。鏡子は職場の先輩で、既に結婚している。
寂しい、と言いながら誘うような目付きをし、鏡子はそっと佑樹の手を取った。
「このまま、どっか行こう。旦那には、夜まで仕事って言ってあるの」
佑樹は、繋いだままの手が引かれるのに任せ、ふらふらと歩きだした。
佑樹は、迷う心のまま、鏡子に誘われるままにカフェに立ち寄り、ホテルにも立ち寄り、そして出てきた。
「わたし、旦那と別れようかなと思ってるの。もしそうなったら、佑樹くん、一緒に暮らしてくれる?」
佑樹は、答えることができない。
「急がなくてもいいわ。また今度、聞かせて」
鏡子は、あっさりとそこで佑樹と別れ、立ち去った。
佑樹が投げ捨てたお守りを持ったままであることに、別れてから気がついた。
月曜日、鏡子は出社しなかった。
佑樹は、とても気になり、仕事を早く切り上げ、鏡子の自宅を訪ねた。ちょうど、明日の会議の資料を渡さなければならなかったので、家を訪ねても、べつにおかしくはない。
住所を便りに鏡子の自宅に辿り着いた佑樹は、警察官と、それらが張った黄色い規制線を見た。
「なにが、あったんですか」
無論、警官に聞いても、何も答えてはくれない。
野次馬として集まっていた近所の住人に何があったのかを聞くと、この家で、殺人事件があったという。住んでいるのは若い夫婦で、日頃仲睦まじかったが、昨夜言い争う声がして、今朝になってから夫の方が自ら警察を呼んだのだと言う。
佑樹は、鏡子の、妻としての生活のことを、鏡子から聞かされる範囲でしか知らなかった。
「共働きだというのに、旦那は平日は飲んで帰りが遅くなり、休みの日は何もしない。全く愛を感じないから、愛想が尽きた」
のだと言う。
しかし、近所の住人からは、仲睦まじいように見えていたらしい。
「何があったのかねえ、旦那さん、あんなに奥さんのこと大切にしていたのに」
佑樹の背後で噂好きらしい主婦が、そうひそひそと話している。
仲睦まじかったのだ。愛はそこにあったのだ。それを、佑樹は知った。
多くを望んだがゆえ、失った?
いや、違う。
佑樹は、二つのボタンを同時に押したのだ。
そして、残った方が、自分の求めるものだと思い定めるしかなかった。
そもそも、何かを選ぶようなことをすべきではなかったのかもしれない。
それは、佑樹自身が、どう思うかであろう。
咲耶は、届いた荷物を開封していた。
最近、通販というものを覚えたらしい。
「便利な世の中になったもんだなぁ」
おじいさん、と咲耶が呼ぶ老人が、それを覗き込み、溜め息を漏らした。丁寧に梱包された包みからは、がま口財布が現れた。
「あら、欲しかった色と、ちょっと違う──?」
咲耶は通販雑誌に印刷されている色と現物の色が微妙に違うことに気付き、そのがま口を光にかざしてみたり、片目をつぶって見つめてみたりしながら、色味を確かめた。
「おや、間違えたのか、咲耶?」
「この色だと、ちょっと派手すぎませんか、おじいさん?もっと、
「ほほ、迷いは禁物、じゃ」
仕方ないと言った具合に、咲耶は自らのエプロンのポケットにそれを入れた心地を確かめ始めた。
「久方の、蝉の声降る
「おや、聴いたことない歌だな」
「今思い付いたんです」
「敢えなく、と会えなく、か。
「わかります?おじいさん、さすが」
「伊達に長生きはしとらんわ」
並び立った岡に、久しぶりの蝉が鳴いている。それに気づくか気付かないか、自らが立つ岡に相手が居るのか、向こう側の岡に居るのか。
相手を、会いたいと焦がれて待つのか、来ぬことに拍子抜けして、待つのか。
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