みっつ 渇き求むる

祭と玉前

 祭という、ルポライター志望で、オカルト研究が好きな女子大生が、以前に藤代神社を訪れたことがある。それが、またやってきた。


「なんか、うどんみたいな匂いがする」

 そう言って、祭は鼻をひくひくさせた。

「うどん?何のことでしょう」

 咲耶はとぼけたが、ちょうど売店の奥から、うどん鉢を抱えた玉前たまえが出てきたから、祭の感じた匂いの元が知れた。

「あ、やっぱり」

 祭は得意気な顔を咲耶に向けた。


「はじめまして、お嬢さん」

 玉前は別に物怖じすることもなく、切れ長の吊り目で祭に笑いかけた。

「はじめまして」

 ちょっと、祭は気押されしたらしい。

「あなたも、お腹が空いた?ごめんなさいね、私だけ頂いちゃって」

「いえ」

「どうしたの?そんなに小さくなっちゃって」

 自分から興味を持ったくせに、祭はすっかり玉前に対して萎縮してしまっているらしく、咲耶に、縋るような眼を向けた。


「この人は?」

「この人は玉前さんといって、わたしの、古い知り合いなのです」

「そうなんだ。綺麗な人」

 綺麗と褒められて、玉前は得意気な顔をして、

「あら、ありがと。これでも、お店で人気なの」

 と身体の線を強調し、長く美しい髪を掻き上げて見せた。


「お食事の邪魔をして、ごめんなさい」

「いいのよ。これから仕事。その前に、ここに寄って、うどんを食べながら仕事の愚痴を言うのが、私の楽しみなの」

「そうなんですね。仲良しなんですね」

「そうでもないわ。同業者同士、相助くるってね」

「同業者?」

 お店で人気、これから仕事、というところから、祭は玉前が夜の店で働いているものと考えた。同業者と言うには、咲耶とはあまりにかけ離れている職業だ。


「そう、似た者同士なの、あたしたち」

「ちょっと、玉前さん」

 咲耶が、困ったように笑った。

「ごめんね、この子、頭が固くて。私みたいに外の世界に出て、人に交わればいいのにね」

 祭には、二人の関係が分からない。

 また、彼女の中で知りたい虫が騒ぎ出している。


「咲耶さんは、ずっとここにいるの?」

 その虫が、咲耶の方を向いた。

「ええ、わたしは、

 祭は、この神社についてあれこれと調べるつもりは、もう無い。初めて訪れたときは、巷で噂の神社、しかもここに関わった記者が一人消えていることから、真相を暴いてやると息巻いていたものだが、少し滞在しただけで、そのような気は失せた。


 それほどに、この神社には静謐な時がゆっくりと、清水が湧くように流れていて、そこで一人で過ごす咲耶がなんだかとても気高く、侵してはならぬもののように思えたのだ。

 今は、ただ咲耶に会い、ここで時を過ごしたいと思って、訪れたに過ぎない。

「やめなさいよ、──ええと」

「祭といいます」

「──祭ちゃん。あんまり、詮索しない方がいいわよ」

 玉前の顔が、いたずらっぽく歪んだ。


「ちょっと、玉前さん。何を言うんですか」

「あら、いいじゃない。よ」

「ごめんなさい、祭さん。気にしないで下さいね」

「はい」

 祭は、自分が感じている感覚が何なのか、頭の中で引き出しをあちこち開けるようにして、考えた。

 どれにも、似ていない。


 強いて言えば、恐れ。

 いや、畏れ?



 それが何なのか知り当てぬまま、祭は立ち去った。

「困ります、玉前さん」

「ふふ、ごめんね。でも、最近思うの」

 玉前の眼が、ふと悲しみを帯びた。

「あなたに縋って、私は生きている。そうじゃなきゃ、私は、何者でもなくなるんじゃないか、ってね」

「玉前さん──?」

「私は、既に、与えられた名を失ったわ。今あるのは、お店での名前だけ。全然、しっくりこない」

 古い長椅子。いつも、玉前が座るところがある。そこから、丘の下の街を、睨みつけるように見下ろしている。


「わたしたちは、人に生かされているのです。だから、わたしたちも、人を支えるのだと、わたしはそう思っています」

「あんたは、そうよね」

「玉前さんは、違うのですか?」

「私?私は、違うわ。ただ人として生きているだけで、私は、何かを磨り減らしているわ。生きていく上で、最も大切にしなければならない何かを」

「玉前さん──」

「そりゃ、皆、ここに来るわ。あの連中の気持ちが、少し分かる。私のお店に来る馬鹿な男どもも、そう。皆、磨り減って、渇いているの。自らの無能を、何かのせいにして、渇きを癒すため、無いものをねだる」


 風。

 二人の髪を、揺らしている。

「身勝手は、いけませんね」

「あの子だって、そうよ。知ってどうなるわけでもないことを、知りたがって」

「玉前さん──」

「あの子、危険よ。いつか、あの子は、くる」

「そうなったら──」

「どうするの、あなた?他の人と同じように、あの子の渇きも──」

 どこからか、水の音。

「──渇きがあれば、わたしは、それを潤すのみ」

 もしかしたら、本殿の脇の、古びた井戸。そこから、水の音がしているのかもしれない。

「そうよね。あなたは、そうするでしょうね」

 髪を風に揺らしている咲耶を一瞥し、玉前は立ち上がった。


「もう、行くわ。これだけ繁盛してれば、あなたが名を失ったりすることは無いと思うけれど、気をつけないとね」

「ええ」

「──じゃないと、私みたいになるわよ」

 玉前はそう言って、ヒールで砂利を踏みつけながら歩きだした。


「生きるのって、辛いものね」

「でも、生かされているのです」

「そうね。生まれたからには、生きていないと」

「じゃあ、また」

「ええ、お気をつけて」



 玉前は、石段を降りた。タイトスカートにヒールという姿では何とも動きづらいが、身のこなしには自信があった。

 藤代神社から、バスの停留所を三つ通りすぎる。そこに、羊羮ようかん型の建物が幾つか並んだ団地がある。ところどころ欠けたり、ひび割れたりしたコンクリートの壁の雨の跡を、地衣類が黒っぽく這っているのを、玉前は見た。年々、その模様は複雑になってゆくのだ。それは、まるで玉前自身の心が映り込んでいるようだった。


「ここに、あったのよ」

 誰にともなく、そう呟いた。

 時間のせいか、買い物袋をぶら下げた主婦らしき人影が、玉前を怪訝けげんな顔で見て通り過ぎてゆく。


 彼女らも、渇いていた。

 おそらく、玉前を見て、自分の夫が夜な夜な遊び歩いている店に居る女もこんなだろうかと思ったのだろう。その人のために、今から重い買い物袋をぶら下げ、料理を作るのだ。

 玉前の帰るべき場所は、ここにあった。

 しかし、今は、それすらも、渇きの巣になってしまっている。


「ああ、この世は、渇いている」

 そう呟いて、玉前は自らが生きるためにしている仕事場に向かった。




 祭は帰宅し、自らがあれこれと調べたノートを見返していた。その中に、藤代神社からわりあい近い団地の都市伝説のことがあったのを思い出した。

 大学一回生のとき、サークルに入ってはじめて調べた都市伝説が、これだった。


 その団地は、高度経済成長期に神社を取り潰し、その敷地に建てられたものだという。

 一応、敷地の隅の方に、小さな社が申し訳程度に建てられ、そこにを移したらしいが、その団地に住んでいると、時折、狐の鳴き声がすることがあるという。

 もともと、その神社は稲荷神社であったから、家を失い、帰れぬようになった狐が、悲しんで鳴いているのだろうという。

 団地の一室で、うどんを煮る匂いがしたら、その狐は、そのうどんに油揚げが入っているかどうか、そっと覗きに来るのだ。


 真相に迫ろうとしたが、結局、何も分からない。

 ただのデマだったのだろうと思っていた。

 祭は、自らが知ろうとしたことを、ほんとうに知れたことはない。

 去年別れた彼氏は、とても優しく、いつも祭を気遣ってくれていた。しかし、そのことに疲れ、別れを切り出された。

 祭は、自らを好いてくれる人のことを、知ろうとした。しかし、やはり、ほんとうに知ることはできなかった。

 その人が、何故自分から離れようとしたのかも、分からないままである。


 ノートを閉じ、ベッドに仰向けになった。

 この世には、分からぬことが多すぎる。

 そして、分からぬままの方がよいことも、多すぎる。

 そこに手を入れ、かき混ぜることが、果たして正しいことなのかどうかすら、分からない。


「知りたいと思っちゃ、いけないの」

 一人で呟いた。

 その答えを、誰かから聞きたいと思った。

 自らの力で求めるべきことだと分かりながら。

 なんとなく、答えを与えてくれそうな人物の姿が、彼女の頭の中に明滅している。


 ──明日、もう一度、訪ねてみよう。

 そう思った。

 どこからか、水のような、花のような匂い。

 少しだけそれを感じ、すぐ眠りについた。

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