知るも知らぬも

 駅から、バスで停留所を二つ。散歩がてら、歩いてもよい。何があるわけでもないが、都心とはまた違う時間の流れ方を楽しめることだろう。「鳥居前」のバス停のところから伸びる道の先、ひとつめの、朱い鳥居。それをくぐると、社町やしろちょう商店街という商店街になっている。江戸時代くらいまでは、現在社町と呼ばれている一帯も、全て藤代神社の神域であったという。しかし、時代の移り変わりと共に徐々にその神域は切り売りされ、戦後の高度経済成長期の都市開発のあおりを受けた際、藤代神社の敷地は、現在の、二の鳥居から本殿に至るまでの間となったという。

 古来、不思議な話が、いくつもある神社であることは周知の事実であるから、興味のある読者諸氏はネットなどで調べてみるとよい。まあ、いつの時代でも、どのような神社や寺などにおいても、そのような話というのは付き物である。だが、この藤代神社においては、今なおその不思議が、続いているという。

 長い、長い時のなかで、神仏が、そして人が失った力を、それを信ずる心が、ここには今なお残っているのだ。

 お守りや絵馬などを販売する、簡素な売店。ジュースなども売られている。そこに居る巫女姿の女性に、私は話を聴いた。この神社にまつわるそういう話を幾つか彼女は教えてくれたが、最近SNSを中心に話題になっているについては、彼女自身もよく分からない、としか答えない。なにか含みがあるようで私はしつこく食い下がったが、彼女は、テレビの上に転がる安いアイドルでは到底、太刀打ちの出来ぬほどに美しい笑顔を向けてくるだけであった。

 写真も、撮らせてはくれぬという。

「写真には、写れないんです」

 と言って困った顔をして笑うと、もはやうるさい事務所付きの有名人である。私はちょっと鼻白んだが、このようなうら若き女性にたいして紳士であることをやめるほど、気は短くはない。この忍耐こそが、東京を騒がせる復讐代行屋や、政府肝煎の特務機関の存在についてのスクープを世にもたらしたのだと思い直し、ことさらに清潔な笑顔を残し、その日は去った。

 私の記事を、眉唾と笑わば笑え。しかし、私には責務がある。

 世の人が知らぬまま過ごしていることが、多すぎるのだ。

 それは、ちょっとした電信柱や信号機の陰に。あるいは、木が作る闇の中に。あるいは、全てがゼロとイチに置き換えられた世界の上に。

 人は、知るべきである。

 己が、何も知らぬということを。



「すごい記事ね」

 長身の女は、妖艶な弧を描くはぎを見せながら、売店の前に設置された古い長椅子に腰掛けている。手には、芸能人や政界のスキャンダルなどでいつも世を騒がせる評判の週刊誌。それにこの神社のことが載ったのだ。

 傍らには、どんぶり。売店で料理は振る舞わぬが、咲耶が特別に、きつねうどんを作ってやったのだ。

「困りました。さいきん、あちこちで噂になってしまって。お参りに見える方が多くなるのは、いいのですけど」

「咲耶ちゃん。あなた、本当に困ってはいないみたいよ」

「べつに、この方が、どんな記事を書こうが、この方の勝手だと思うと―」

「優しいわね、あなた」

 長身の女は、長い黒髪を少し掻き上げ、小さなバッグから、高そうなシガレットケースを取り出した。吊り眼で、ちょっと気が強そうだが、新宿などをうろついていそうな類の美人である。

「あら、綺麗ですね」

「そう?男にもらったの。ほら、私、昔から、光り物には弱いじゃない」

 咲耶は、くすくすと笑った。

玉前たまえさん」

 と咲耶は長身の女を呼んだ。

「玉前さんは、お商売の方は、調子がいいみたいですね」

「そうでもないわ。最近は、どいつもこいつも、ケチばかり。女に金を積んだり、マンションを買うことがステータスだと思っているトンチキ野郎はまだマシ。金をケチって、それでも女を抱くことしか頭にない馬鹿に付ける薬を、誰か発明してちょうだい」

「大変な身の上ですもの。ご苦労も多いでしょうね」

「ちょっと。やめてくれる?私の居たところが潰れて、困っても、私は腐ったりはしないわ」

「ご立派です。寄る辺無くしても、そうやって、しっかりと生きているんですもの」

「なんか、ムカつくのよね。いちいち可愛いなぁ、ああ、腹が立つ」

「ごめんなさい」

「ほら。あなた、自分で自分のこと、可愛いって思ってるじゃない」

「いえ、そんなことは―」

 頬を赤らめ、眼を泳がせる咲耶の、綺麗に切りそろえた髪を、玉前はぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。

「ほら、おしまい。ごめんごめん、つい、苛めたくなっちゃうのよ」

「大丈夫です」

「あら、もうこんな時間。夏が近いと、陽が長いもんだから、お喋りしてると何時なのか分からなくなっちゃう。お店に行かなきゃ」

「お気を付けて」

「ありがとね、また来る。うどん食べに」

「ええ、いつでも、いらして下さい」

「今日も美味しかったわ。ごちそうさま。じゃあね、咲耶ちゃん」

 玉前は、高級ラウンジで働いている。見た目から判断するに、多分二十代の後半というところか。黒いスーツとヒールがよく似合う女だった。タイトスカートとヒールでは石段の上り降りが辛そうだが、しばしば、このようにして藤代神社にやって来るのだ。

 どういう間柄かは分からぬが、咲耶とは仲がいい。それだけではなく、玉前は、藤代神社にやって来ると、まず念入りに参詣をし、それから社務所兼住居の中に上がり込み、咲耶が「おじいさん」と呼ぶ老人に丁寧に挨拶をするのだ。咲耶にうどんを振る舞ってもらいながら話をするのは、その後と決まっていた。


 咲耶は、玉前が残して行った雑誌記事に、もう一度眼を通した。神社の外観や、数々の願いが込められた絵馬などが写真に納められている。

 いかにも読者の期待を煽りそうな記事ではないか。中年の、カメラをぶら下げた痩せた男が訪ねてきて、あれこれと神社のことなどを訊いてきたのを思い出した。面倒なのは、この記事が続くものであって、この記者は、世の人に真実を知らしめることが、と思っているらしいことだ。

 


 果たして、その記者は、再びやってきた。石段を上ってくる姿を見て、咲耶ははっとした。確か、以前に取材に来たときの名刺には、「カジマモル」と記されていた。

 カジマモルと言えば、もともと芸能関係の記者で、あれこれスクープを取って有名になった者である。それが、いつからか、都市伝説めいた噂話やオカルト方面に手を出して、そちらが専門のようになっていた。


 世の人は、彼の記事を信じているのだろうか。そういう都市伝説や、陰謀、すなわちが喜ばれる風潮は昔からある。たとえば太古の昔、人の心は、ちょっとした石ころ一つにも、神を感じることが出来ていた。おそらく、都市伝説や陰謀に人が興味をそそられるのは、そういう気持ちが根幹にあるのではないか。一言で言って、「畏れる」という気持ちである。時代が降って、たとえば江戸時代ならば妖怪であったり、狸や狐が化かすような話が流行ることとなり、そして現代になれば、それらの興味の対象は、また別の進化を遂げている。そして、いつの時代も、人はそれをている。

 現代で言うと、たとえば、こっくりさん。あるいは、口裂け女。不幸の手紙。マスメディアは人々のを、にし、加速させた。見えざるものは、時代に合わせて、その形を常に変化させているのだ。呪いのビデオが流行する頃には女の口は裂けなくなったし、今となってはVHSカセットすら見たことのない世代が普通にいる時代だ。

 特に、インターネットの発達は、見えざるもの、知られざるものをより多く生んだ。マスメディアの主導する共通の題材は力を失い、個々が生み出す微細なそれが、我が物顔で電波の上を行き交っている。そして、人は自らが生み出した利器であるスマートフォンをその手に握りしめ、その中に実は深淵の世界が広がっていて、搭載されているAIが怖い、と騒ぐのだ。


「私は、そういう偽物の中から、人々が知るべきことを選び出す力があると思っています」

 カジは、そう言った。

「この神社には、間違いなく、何かある。そう思いませんか」

 とも。

「わたしには、分かりません」

「真実は、隠され過ぎている。知らぬまま過ごすというのは、人として不幸だと思う」

 カジは、とても熱心な記者であった。

「私は、この神社について囁かれている噂話を、解き明かしたい。あなたの協力が、必要なのです」

「─もし」

 咲耶の髪が、風に靡く。カジは、少し怪訝な顔をした。

「─もし、その見えざるものが、見られることを嫌っていれば?知られざるものは、知られずして、始めてそこに存在できるものだとすれば?」

 春は、とうに終わった。

 紫陽花はまだ咲かぬが、いよいよ葉を繁らせ、低く、陰鬱な陰を境内の砂利に落としている。

 カジは、今自分が嗅いでいるのが、何の香りなのかを、あたりの景色に求めた。

「あなたは、そうやって、何でも見ようとするのですね」

 花の匂い?それとも、水の匂い?カジには、分からない。

 風が止むと、その匂いも止まった。

「お前は、一体」

 カジの顔が、青くなっている。

「どうしました」

 咲耶が、一歩、カジに近づいた。

 雲の切れ目から、ぱっと陽が射した。

 それが、紫陽花の葉の陰を、より濃くした。

「お、お前は」

 咲耶は、後ずさるカジに向かってにっこりと笑い、可愛いと評判の巫女の顔に戻った。

「ごめんなさい。わたしが知っていることは、あそこの立て札に書かれていたり、うちの蔵に納められた古い書物に書かれたことだけなんです」

 と困ったように眉を下げ、

「あなたの言うようなは、いつも、人が作り出すものなのかもしれませんね」

 と自らの見解を述べた。

 先程の、言い様のない圧迫感は、消えていた。どうみても、普通の女の子だ。カジは、る気持ちが、柔らかく解きほぐされてゆくのを感じた。

「絵馬を、ひとつ」

 カジは、乾いた口で無理矢理唾を飲み下し、言った。

「絵馬を?」

「私は、この神社にまつわる噂が本当かどうか、検証したい。私の願いを、絵馬に書く。それが、叶うかどうか、だ」

「─どうぞ」

 咲耶は、絵馬を一つ差し出した。

「もし、あなたの言う通り、ここの神様が、自らが知られざるままがよいと思っているなら、私は、今、神様への挑戦状を書いていることになるな」

 カジは、油性ペンで絵馬に願いを書き入れながら、そう言った。

「あら、まあ」

「叶うかどうか、見届けさせて頂きますよ」

 カジは不敵に笑い、絵馬を柵のところに掛けた。

 そこには、

「知らざることを、知りたい」

 と書かれていた。カジは自分で書いたその字を、じっと見つめる。見つめると、少し浮き上がって来るように感じた。

「よいお詣りでした」

 いきなり、背後で声がしたから、カジはびっくりして振り返った。売店のところで見守っているとばかり思っていた咲耶が、そこにいたのだ。その手には、小さな錦の袋。

「これを、頂けるのですか」

 カジは、無論、お守りの話も知っている。

「ええ、どうぞ」

 咲耶は、またにっこりと微笑んだ。



 それから暫くして、カジは、自室で一人、頭をかきむしっていた。記事が、売れないのだ。雑誌の連載も全て打ち切りになったし、オカルトについて書き連ねた書籍も、売れない。テレビの出演もなくなった。世の人は、オカルトが好きである。しかし、それは、真実に迫ろうとする心からではなく、からなのだ。その証拠に、今、世間の話題は、カジではない誰かの書いた芸能人のスキャンダルにもちきりになり、SNSでは誰かの書いた根拠のないデマがとめどもなく拡散されている。

 だからといって、カジは、愚かではない。若い頃から、人に知らざることを知らしめることで、金を得てきた。それ以外に、生きる術を知らぬから、記事が売れないことには、生きてゆくことが出来ぬ、と困っているだけである。


 彼は、愚かではないから、知ることが出来た。彼の願いは、叶ったのだ。

 彼は、真実を求めることと、人がそれを求めることが、どういうことであるかを知った。そして、知らざるものを知り、見えざるものを見るのには、何かの境を跨がなくてはならぬことをも知った。

 そして、真実とは、はじめからそこに存在するものではなく、神や妖怪や都市伝説のように、人の心が作り出し、心と肉を与えるものだということも、知った。


 多くの人は、その見えざる関所の前までやってきて、その向こうを窺い、そしてまた別の関所へと足を向け、そこでも同じようにするのだ。

 その関所で囲われた領域こそ、人に定められた場所。

 そこを出ることは、もはや、人のわざではない。

 今、彼が居る薄暗い部屋が示す極限までの困窮は、記事が売れぬためだけではない。彼は、真実を求め、事実から逃げ続けていたのだ。そのための手段として、アルコールやドラッグに手を付けていた。

 人の業は、ときに人を簡単に関所の向こうにやってしまうことがある。

 彼は、絶望と、深い後悔と、諦めをも知った。


 ある天文学者がいた。

 彼は、熱心に研究を続けたが、ある日突然、天文学の世界から、身を引いた。

 そのとき、彼が言ったのは、

「俺は、宇宙を見てしまった」

 という言葉である。それが何を意味するのか、彼が何を見たのかは誰にも分からぬが、彼は、その関所を越えてしまったのかもしれぬ。


 越えてしまえば、もう戻れぬ。

 知ってしまえば、もう忘れられぬ。

 己のしようとすることは、そういう場所へ、人を誘うことなのだとぼんやり思いながら、彼はその部屋と同じくらい薄暗い笑いを頬に貼り付け、ゆっくりと、皺だらけのネクタイをその首に巻いた。

 関所に至る道に、二つの鳥居があった。

 それを、知った。



 柱時計の振り子が揺れているのを、咲耶は見ている。

「おじいさん、もう十時ですね」

「おう、テレビは面白いからな、つい見入ってしまうわ」

 テレビからは、芸能人のスキャンダルや、政治家の汚職についての報道が流れている。

「芸能人はスキャンダルまみれ。政治家は汚職まみれ。それも、知らなければ、もっと日々が楽しく、政治への不満を募らせたまま暮らすこともないのかもしれんな」

 そう言って、リモコンを操作して、テレビの画面を闇にした。

「しかし、知りたいと思うからこそ、人であるとも言える。その境は、曖昧なものだな、咲耶」

 眠るために自室に戻るおじいさん、に咲耶は笑みを返し、呟いた。


「知るも知らぬも、逢坂の関」

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