あさきゆめみし

「おじいさん」

 と、咲耶が呼ぶ者がいる。彼女がそう言うのだから、彼女の祖父なのだろう。ぱっと見、八十代くらいであろうか。頭のてっぺんの禿げ上がった、顔中の皺がいかにも穏和そうな印象をもたらす老人である。


 咲耶は、この老人と二人で暮らしている。無論、藤代神社で最も位が高いのはこの老人で、咲耶はいわばアルバイトに過ぎない。しかし、高齢であるため、普段はほとんど社務所を兼ねた家にあってテレビを眺めて過ごし、神社の雑用は咲耶ひとりで行っていた。


 朝早くに起床し、石段の下の通りを清める。

 夏の間はそうでもないが、春には石段が切られた丘の斜面に沿って植えられた桜の花びら、秋になれば落ち葉が溜まるから、それも綺麗に掃き清めるのだ。

 そして、咲耶が一日を過ごす建屋の中も掃除をして、参詣の客が来れば、にっこりと挨拶をしてやる。御守りや、絵馬などを求める客がいれば、それを売る。「おじいさん」が社務所から出てきて何かをするといえば、祈祷のときか、理由があってご神体の手入れをしなければならないときか、神社の様々な行事のとき、あとは絵馬を処分するときだ。


 この一年ほどの間、絵馬の数は飛躍的に増えた。

 結びつけられた夥しい量の絵馬の中から、古いもの、あるいはは順番に外し、蔵に入れておく。それを、ある時期に処分する。


 年に二度、その行事はある。昔は年に一度で、藤代神社の境内で焼いていたものだが、最近は色々と決め事がうるさいから、まず念入りに祈祷をしたのち、業者に引き取ってもらう。


 その後それらの絵馬がどうなるのかは分からない。焼いて処分する以外にどうしようもないものだから、恐らく可燃ゴミとなって、他のものと一緒に焼かれるのだろう。祈祷により、かけられた願は抜かれているか、あるいは既に叶い、もとの主のところへ帰っている。



 咲耶は、この日、その作業をしていた。

 絵馬のぶら下がった柵の前をゆっくりと歩き、記された日付の古いものを外し、樹脂製のカゴの中に入れる。

 日付の古いものばかりではなく、しばしば、新しい日付のものも混じっている。今、手に取ったのは、先週の日付。OL風の、流行りのアイドルによく似た可愛らしい女性が書いたものだということを咲耶は思い出した。


 それも、カゴに放り込んだ。

「あの子よりも、私の方が健治君には相応しい!」

 太いペンで書かれたそれは、願い事というより、心の叫びだった。しかし、今は、ただそう書かれている木の板にしか見えず、誰かが満身の願いをこめてそれを書いたものだということは、想像しなければ誰も思い至らぬであろう。


 花は、役目を終えれば散る。実ることで、この絵馬に書き殴られた願いも散り、枯れるのだ。あくまで、絵馬とは、依り代。自らの心のうちの一部分を切り取って依り代に移し、捧げる行為。


 絵馬とは、そもそも、人々が、神が乗るためにとして神社に馬を捧げていたことから始まる。神が降りた際にその馬に乗り、願いを叶えにやってくるというわけである。ということは我が国において馬の飼育、繁殖が始まり、なおかつ神々がそれを駈り、現れるとしたことが定説化する奈良時代より後の発祥であると思われる。


 だが、時代に関わらず、ごく個人的な願いなどのときに、庶民がいちいち生きた馬を捧げるわけにはゆかぬ。それで、木や土でもってかたどられた馬を捧げ、ささやかな願いを叶えるためにその小さな馬に乗り、神がひそかにやって来ぬものかと期待をこめ、人は願をかけてきた。


 すなわち、神がいるなら、彼らはそれを見る。そして、今は時代の流れにより屋根のような形に変化した絵馬の中にある、に跨がり、願いの主のもとにやってくる。



 やたらと大きな音を立てて砂利を踏むこの若い男性も、そこまでのことは考えてはいないであろう。咲耶がその姿に気付き、ぺこりとお辞儀をした。そうすると男性は、満面の笑みを浮かべて詰め所に向かって歩いてきた。


「やあ」

 と、気さくに声をかけてくるので、

「おはようございます」

 と咲耶も挨拶をした。

「絵馬ちょうだい」

 子供が菓子を求めるような調子で、男は言った。財布から千円札を出すとき、ニッケルシルバーの輝きの指輪が、ちらりと光った。あまり高いものではなさそうである。


 咲耶が、絵馬と油性ペンを渡してやると、規則なく乱れた文字で、

「ナンバーワンになりたい!」

 と書いた。ふつう、こういう場合、人の願いについてあれこれ干渉はしない。ただ、咲耶はその汚い字をじっと見ている。


「ああ、俺、ホストなんだ」

 男は、視線に気付き、聞かれもしないことを勝手に喋った。

「そうですか」

 としか咲耶は答えることができない。だから、

「夜のお勤めでお疲れのところ、こんな早くから、ご苦労様です」

 と微笑んでやった。花の季節によく似合うその笑顔が、ひどく可愛い。


「きみ、可愛いね。こんど、店においでよ」

「──機会があれば」

「あ、来ないやつだ、これ」

 男は笑いながら、まぁいいや、と言って名刺を差し出した。


しょう、さん」

かける、だよ。やっぱ、名前もよくないのかな。去年、上京してきてさ。親の仕事を継ぐのが嫌だった。だけど、俺みたいなのが東京でできることなんて、たかが知れてる。結局、金欲しさにホストになっても、いい思いが出来るのはほんの一握りなんだ。だけど見てろ、俺は東京中の女に酒を飲ませて、一番になってやるんだ。そして、田舎の親父を、見返してやる」

「頑張って下さい」

 咲耶は、にっこりと笑って、絵馬を提げる柵を指してやった。


「やっぱり、君、可愛いな。君に会えただけでも、東京に来た甲斐があったよ」

「それだけお世辞がお上手なら、きっと一番になれますよ」

 そう言って、咲耶は懐から、お守りを取り出し、差し出した。

「よろしければ、どうぞ」

「え、いいの?ありがとう」

「よいお詣りでした」



 それから、ホストの翔は血の滲む努力をした。下げなくてもよい頭も下げた。不当ないじめにも屈せず、一心不乱に働いた。やがて、太い客が何人かでき、徐々に店内での売上順位は上がっていった。


「あたしをオバサンだと思って、馬鹿にしてるんだろ」

 その金持ちの女性は、いつもそういう口ぶりをする。他のホストに、若くて綺麗だ、と言われることにも飽きてしまっており、ただ習慣のようにして通っているらしい。

「オバサンだと思ってる」

 金持ちの女性の顔色が変わった。ブランドものの鞄を肩にかけ、席を立とうとした。


「だけど」

 翔の声が、鋭く女性を引き止めた。

「いい年の取り方をしてる。俺はそう思ってる」

「いい年の取り方?」

「俺みたいな若造が偉そうにって思うかもしれないけど、俺から見てると、女の人は、自分の年齢に逆らって、若ぶったりする人が多い。でも、あんたは違う。ちゃんと、自分を受け入れてる。俺には、そう見える」

「私が、そうだとは自分では思えないわ」

「じゃあ、自分でそう思えるように、頑張ろうよ。俺の母さんは、もう五十を越えてる。でも、すごく綺麗さ。俺の母さんは、自分の歳を知っていて、無理をしない。それでいて、手も抜かない。女の鏡さ。先週だって、いきなり俺の部屋に押し掛けてきて──」

 翔は、はっと気付いたような顔をして、

「ごめん、俺の話ばっかり」

 と慌てた。

「いいのよ。お母さんの話、もっと聞かせて」

 翔は、母の話を続けた。その間、女は高い酒を次々と頼んだ。


 週に四日は、その女は来る。その度、翔は母の話をした。話すうちに、だんだん、実家が恋しくもなってきた。つまらない商店街の八百屋を継ぐのも、悪くないかもしれない。二度と帰らぬと啖呵を切って飛び出してきたから帰りにくいが、母はこの一年ずっと心配して連絡をくれたり、時折突然東京に来たりしている。父も、きっと、許してくれるだろう。


 一番になったら、帰ろう。

 女性と話しながら、翔はそう思った。



 しばらくしたある月、ついに、翔はナンバーワンになった。

 常連客や他のホストが、ナンバーワンになった祝いをしてくれた。


「皆のお陰で、俺はナンバーワンになれた。これで、ようやく母さんにも顔向けできるってもんさ」

 皆、笑った。翔のそういうところが受け入れられ、一種の味のあるキャラクターとして定着していた。

 そして、あの常連の女性が頼んだシャンパンを一本、一息に飲み干した。


 その夜は前後も分からぬようになるほどに酔い、気づけば翌日の昼だった。

 スマートフォンが、激しく鳴っている。

「──もしもし」

「哲夫!?すぐ帰ってきなさい!」

 本名を耳元で叫ばれた翔は嫌な予感がした。電話の声は、母。その声が、続ける。

「お父さんが、お父さんが──」


 翔は、まだふらふらする身体を跳ね起こし、ゆうべから着たままであったスーツを脱ぎ捨て、着替えて駅に向かった。新幹線と私鉄を乗り継ぎ、久しぶりの故郷に。


 母に指定された病院に着いた頃には、夜になっていた。

「父さん──?」

 病室の入り口から、おそるおそる、寝台の上に横たわる父と思しき姿に向かって声をかけた。その傍らの母が沈鬱な面持ちで、よろよろと近付いてくる翔を見ている。


 彼は、父の冷たく固い身体にすがりつき、泣いた。その姿勢から母の方を見上げた。母は、悲しく、そして優しく微笑み、涙を流した。

 母の向こうは窓になっていて、窓越しでも星が光っているのが見えた。


 

 翔は、店のナンバーワンになった。

 しかし、そのために、ほんとうは心の中で大切に思っていた父の死には立ち会えなかった。

 皮肉にも、自分が求めていたものが何なのか、彼は、それで知った。



 彼の慟哭が病室に響いた同じ夜、同じ星を開いた窓の外へと逃げてゆく湯気の向こうに見上げながら、咲耶は湯船に浸かっていた。

 ラベンダーの香りの入浴剤の溶けた湯が、彼女の白い肌にまとわりついている。

「浅き夢見し、酔ひもせず」

 そう呟いた声が、タイルの壁により短い残響となり、湯気と共に星に向かわんとするかのように、風呂の外へと出て、立ち上った。

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