渇きの社

増黒 豊

ひとつ 藤代神社の巫女

散りてぞ後に、実の結ぶ

 近頃、藤代ふじしろ神社といえば、ちょっとしたパワースポットとして有名である。なんでも、そこでお詣りをすれば、どんな願いでもたちどころに叶うという。


 そのルーツは熊野大社にあり、家紋は丸に下がり藤。鎌倉時代に、源氏の者が、熊野神社下四社第十一殿の祭神である弥都波能売命みづはのめのみことを迎え、祀ったのが始まりとされる。弥都波能売命は治水や井戸、灌漑を司るとされるから、古来、洪水の多かったこの関東平野には、文字通り神であると言えよう。


 今では、その由来や祀られる神を記した縁起書きは黒ずんでいて誰も読むことはないが、どこから沸いたか願いを叶えてくれる神社として話題になって雑誌などに勝手に取り上げられ、その朱色の鳥居をバックに撮った写真をSNSにアップすればご利益がある、という勝手な迷信まで生まれている。

 都心から電車で三十分とかからぬ場所にあるから、余計に人が集まりやすいのだろう。

 ぶら下げられる絵馬には、あれこれと、願い事が書かれている。その殆どが、他愛もないものである。


 絵馬を捧げ、参詣をすると、ごくまれに、巫女がお守りをくれるという。そのお守りが、抜群に効くのだ。


 その巫女というのは、この藤代神社の娘である晴名咲耶はるなさくやのことである。彼女は毎朝の習慣で、神社の石段の下の通りを掃き清める。

 そして、お守りや祈祷、絵馬などを受け付ける小さな建屋に入る。


 歳は、わからない。ぱっと見、若い。一日中こうしているから学生ではないことは確かだが、もしかすると十代かもしれない。

 特に手入れもせずとも綺麗な黒髪を後ろで結い、化粧を必要としない長い睫毛と頬の赤らみが、清らかな白い肌を飾っている。



 朝一番の客は、若い女性であった。最近流行りのアイドルグループの一人によく似た、赤い口紅の似合う女性である。

 参詣を済ませ、絵馬を買う。

 咲耶は、にっこりと笑い、絵馬を手渡してやる。合わせて渡した油性ペンで、女性は願い事を書き込んだ。


「よかったら、一緒に写真に写ってもらえませんか」

 今時のOLが、休日を利用して参詣に来ているのだろう、他人に向ける笑顔に自然さがあった。

「ごめんなさい。写真には、写れないんです」

 咲耶はそう言って、困ったように笑った。

「ああ、そうなんですね。ごめんなさい。巫女さん、可愛いから、つい」


 手にした絵馬には、こう書かれていた。

「あの子よりも、健治君には私の方が相応しい!」

 願い事でもなんでもない文であるが、こんなものでも、いちいち拾い上げてやるのが、藤代神社である。


 その絵馬に視線を少し落とした咲耶は、絵馬をぶら下げるための柵を指し、

「あちらに、どうぞ」

 と微笑む。そうすると、この春の陽気の朝に相応しい、静謐な陽射しがふわりとあたりを照らし、花の香りのする風がどこからともなくやって来た。


 若い女性はその風を追いかけるように軽やかな足取りでその柵のところに行き、自らの願いを託した絵馬をぶら下げた。

 これで、願いが叶うかもしれない。


 半信半疑かげん担ぎか、はたまた本気で信じているのか、女性は絵馬にもぺこりと一礼をした。


「あの」

 背中を鋭い刃物で刺されたような気分になって、女性は声を上げて飛び上がった。咄嗟に振り返ると、巫女姿の女がすぐ後ろにいた。絵馬を結ぶのに夢中になっていたのか、気配に全く気付かなかった。


「もしよかったら、これ」

 咲耶は、懐に手を差し入れ、おずおずと小さな包みを差し出した。

 それは、簡素な麻布で作られたお守り袋であった。

「いいんですか」

 女性は、嬉しそうな顔をした。巫女にお守りをもらうと、という話を知っているのだろう。


「よいお詣りでした」

 そう言って、咲耶は深々と頭を下げた。

 とても爽やかな朝の、素敵な体験のはずなのに、何故か、女性は反応に困るような顔をしていた。本人にも、その理由は分からぬであろう。

 花の香りの風が、女性の髪だけを揺らした。

 不思議なことに、咲耶の髪は揺れない。



 女性は、ある男性に片想いをしていた。

 絵馬に記された名は、健治。

「健治君」

 デスクで荷物をまとめ、帰り支度をしている健治が振り向いた。

「今日、飲みに行かない?」

「ごめん、先約があるんだ」

「えー、また由香ちゃん?」

「当たり」

 健治は、どこにでも居そうな、若いサラリーマンだった。最近売り出し中の若手俳優に似ていると言われることがあるが、本人はよく分からないらしい。

「付き合っちゃいなよ」

 かなり複雑な表情で、女性は言った。


 お守りなんて、効かないじゃない。

 やっぱり、迷信よ。

 内心、そう思ったか、どうか。

「由香と一緒でよければ、お前も来る?」

 ちょっと、お守りが効いたのかもしれない。いつもは素っ気ない健治が、この日に限って、女性を誘ったのだ。男一人、女二人の飲み会がどのような惨劇の場になるかまでは、健治は考えないらしい。

「いいの?行く行く」

 こうして、二人で会社を出た。


 しばらく歩くとある、大通りを渡る歩道橋の前に、由香がいた。同じ会社であるが外回りから直接やってきたらしい。

「あれ、沙希ちゃんも一緒なの?」

 と由香はお守りをバッグに入れている女性の名を呼び、含みのある表情をした。

「急に来てごめんね、由香ちゃん。一緒に飲もう」

 沙希は、精一杯の笑顔を作った。


 内心は、煮えくり返っている。

 大して可愛くもないし、性格も良くない。胸は沙希よりも少し大きいが、沙希に言わせれば、由香は男に取り入るのが上手いだけなのだ。健治は素朴な人間だから、そのことが分からないらしい。


 由香には、他にも何人も飲み友達がいる。健治は、その中のお気に入り、いわゆる「有力候補」のうちの一人に過ぎない、と沙希は思っている。

 こんな女より、自分の方が、よっぽど健治に相応しいはずである、と。

 どうにかして、この女が亡き者にでもならぬものか、とも。

「あー、そっか。ごめん健治、ちょっと急にお母さんが家に来てるらしいから、私、帰るね。沙希ちゃん、また今度」

 取って付けたような言い訳に、沙希はかっとなった。


 ──逃げるのか。

 ──これは、勝負よ。

 そう思った。


 歩道橋の階段を小走りに駆け上がっていく由香を、沙希は追い掛けた。健治は、それを呆然と見ている。

「ちょっと、由香ちゃん」

「何よ」

「言わせてもらいますけどね」

 沙希が、食ってかかった。


 そこへ、健治がやっと駆け上がってきた。

「どうしたんだよ、二人とも」

 沙希の肩を、ぐいと引っ張った。

 その拍子に、沙希はバランスを崩し、足を滑らせ、階段から転がり落ちた。

「沙希!」

 健治の叫び声と、由香の悲鳴。



 一週間ほどして。

 健治は沙希の病室にいた。

「ごめんな、沙希。俺のせいで」

 沙希の怪我は、命に別状はないが、鎖骨と鼻と頬骨を折っていた。

 由香よりも可愛いはず、と自負していた、人気のアイドルに似た顔には、一生消えぬ傷が残った。包帯を取れば、健治も絶句することであろう。

「健治君。もう、お見舞いに来なくていいよ」

 こんな顔で、健治に迫ることなど、できはしない。


 ──なにが、パワースポットだ。

 ──なにが、願いが必ず叶うだ。

 ──全く、逆じゃない。

 沙希は、深い絶望と悲しみに濡れた心の内で、吐き捨てるように言った。


「沙希」

 健治が、口を開いた。

 沙希の、怪我をしていない方の手を、そっと握って。

「俺のせいだ。ごめん。一生、お前を守るよ。約束する」

「え?」

「沙希。俺、お前のことが好きだ。付き合ってくれ」

「健治君?」

「このことがあるまで、俺自身、気付かなかったんだ。でも、毎日、お前の見舞いに来て、ふと思ったんだ。俺は、お前のことが好きなんだって」

「ほんとに、いいの?」

「勿論さ。沙希は、俺みたいな奴で、嫌じゃないか?」

「嫌なわけ、ない」

 沙希の傷が痛まぬよう、健治は、そっと沙希を抱き締めた。

 傾いた陽が、病室と、二人を、あかあかと照らしていた。


 こうして、沙希の願いは叶った。

 その容姿の美しさを、代償に。

 


 咲耶は、二人を照らすのと同じ夕日を背負い、藤代神社の八十七段ある石段を登っている。腕には夕飯の材料が入った買い物袋。近所の商店街に、毎日買い物をしにゆくのだ。

 地元で古くから親しまれている神社の一人娘で、容姿もとても良いから、八百屋も、魚屋も、肉屋も、総菜屋も、いつも何かしらサービスをしてくれる。


 自らが背負った夕日が長く伸ばす影を見ながら、総菜屋がおまけしてくれたコロッケを一つ、頬張った。

 それを飲み下した頃、石段を上がり切った。

 そして、夕日に燃える街を見下ろし、ひとつ、呟いた。


「実を結ぶために、花は散るもの。よいご縁を」

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