第三十四章 戦場の霧

 足下もみえぬぶ厚い霧が、町全体を覆ってしまっている。風はときおり吹く程度で、霧を流してはくれない。まだ夏の気配がわずかに、ただよう季節のこと。

 大公エリザベスの妹君アビゲイルは、外套をにぎりしめて霧をながめていた。この町が霧で覆われることは、めずらしくないのに表情は不安を滲ませていた。

 そこへ馬蹄の音をひびかせて、わかい騎士が来た。アビゲイルと同い年の騎士は、ライナスという男で代々から公家につかえてきた家系の長男であった。幼き頃より父親から武術を学んできただけあって、たくましい筋肉を持っている。さらに初陣したとき、アビゲイルの危機を察知し救ったことにより、国内でその勇名をとどろかせていたのだ。

 そのような彼が硬い表情をさせて、アビゲイルにひざまづく。


「本陣を離れなさるな、アビゲイル様。霧の中では、前も後ろも見失います」


「ライナス、今日の霧はいちだんと濃いわ。どうも、なにか起きるような気がしてならないのです」


 不安を払拭するようにライナスは、なるべく笑みを浮かべた。


「我がフローライト公国は、よく霧が発生するではございませぬか。たしかに、この時期に霧が出るのは珍しいことではございますが」


「そうでしょう。きっと、神が引き返せと申しているのだわ。このあと、よくないことが起こるから、引き返せと」


 理論で物事を言うアビゲイルとはとうてい思えない台詞に、ライナスがわずかに驚いてしまう。すぐに騎士らしく表情を引き締める。


「しかし、ベスビアナイト国はいま、王都を手薄にしております」


 こちらの思惑に気づかなかったのか。もしくはこちらが動いているようすがないため、本隊をクラシス要塞へ向かわせたのではないか。そう言ったのは、あなたではないか。ライナスが口にすれば、アビゲイルが表情を険しくさせる。


「最初はそう思っていました。ですがなぜ、フローライト公国が隙を突く、という考えをしないのですか。あの国には、頭のきれた参謀がいたはずです」


 なにか奸計があるのではないか。不安そうにアビゲイルは口にする。ライナスは、困ったようすでなだめた。此度の戦場を指揮する軍師が不安がっては、兵達も不安がってしまう。


「言いたいことはわかりましたが、なにもないのでしたら、それで良いのではないですか」


 そうなのだけれど。つぶやく表情は重い。心の中にあるわだかまりは、消えていないようだ。しかしアビゲイルが口にした悪い考えは、ライナスにもあったのだ。いまのところ、ベスビアナイト国側がなにかしようとしている動きはない。それが逆におそろしい。


「では、退却なさいますか」


 静かにつげたライナスに、アビゲイルがまつげを伏せる。都にいるであろう、姉であり大公エリザベスを思っているのだろう。


「姉上の期待を裏切るわけにはいかない。進軍しましょう。私たちは、前へ進むことしか出来ないわ。たとえ、そこで何が待っていようと」


 凛とした光を宿した瞳が前を見つめた。つられるようにライナスも、視線を向ける。季節にはまだはやい霧は、太陽の光をもさえぎっている。心の中にもかかったようで落ち着かない。この霧はアビゲイルの心にも、かかっているようだから余計だ。


「本陣へ戻りましょう」


 アビゲイルは淑女らしく微笑む。ライナスは「はい」と馬の手綱をにぎり、霧の中を縫うように進んでいく。薄ぼんやりとした中でいくつもの天幕と共に、せわしなく兵達が駆け回っているのが見えてくる。時刻はもう夕刻になろうとしていた。

 夕食の準備は出来ているようで、アビゲイルにパンとスープが手渡される。それを持つと、兵達にまじって食事をはじめた。となりには、けわしい表情のライナスが控えている。


「アビゲイル様、なにも兵達と同じ食事をとられなくとも。あなた様は、大公の妹君であらせられます」


「姉上がまた、なにかいったのね?」


 ライナスが黙り込んだのを、肯定ととって溜息をついた。


「私が好きでしているのよ」


 気にすることではないとアビゲイルが紡ぐが、ライナスはいい表情をしない。

 貴族であるアビゲイルには、奴隷や農民等の寄せ集めの兵達とは違う食事が用意される。だがそれを拒み、皆と同じ食事を取るのが常であった。奴隷や農民達は、食事の質がすこしあがるので大いに喜ばれた。しかし、貴族達はいい顔をしない。特に大公エリザベスは、気にくわないようだった。


「また陛下に嘆かれますよ」


「いいのよ。私には、豪華な食事なんてもったいないわ。それよりも、皆と同じ食事をする方が好きなの。いけない?」


 儚げな笑みを向けられて、ライナスが黙り込む。


「さあ、はやく食べてしまいましょう。夜になったら、出航するのだから」


 ライナスはただ「はい」とかえして食べ終えると、航海士に海の状況を尋ねた。

 最近よく海賊が海に出没するが、脅威ではないだろうと答える。引っかかりを覚えながらも、アビゲイルに伝えると険しい表情でまつげが伏せられる。


「海賊……」


「はい。しかし、脅威ではないだろうと航海士は申しておりました」


「そうかしら、さいきん、シトリン帝国のロベールが海賊をしていると聞いたわ」


 貴族であるが腕が立ち、シトリン帝国内では人気のある男だ。そのロベールが爵位を剥奪され国を去ったことにより、民達は不信感と不満をつのらせて内乱が激しいらしい。


「あの男が、海賊ですか」


「ええ、ライナス。戦場でやりあったことがあると聞いたのだけれど、どんな男なの?」


「そうですね、比較的に好戦的な男ですが、歪んだことや曲がったことが嫌いな男のようです。わたくしが落馬したのに、そこを狙わず、新しい馬を用意して戦えといった男ですから」


 落馬したところを狙わないとは、なんと酔狂な男だろう。甘いと言えばそれまでだが、まっすぐで男らしいようだ。とうていだまし討ちなど、出来そうもない。


「奇襲を仕掛けてきたりしないと、考えていいのかしら」


「おそらくは」


 海賊ごときでは、我が軍を破れまい。ライナスが考えを述べれば、アビゲイルも納得した。

 わずかな光も山のむこうに消えると、港へ向かう。十隻ほどの帆船が用意されていた。アビゲイルとライナスは、数人ほどの兵をともなって同じ船に乗り込む。あとの九隻には、ほかの兵が乗り込む。それぞれに航海士も乗り、船の帆がひろげられ、動き始めた。

 しばらく寝室で休んでいたアビゲイルだが、落ち着かず倉口から露天甲板へ上がる。露の混じった風が、頬を打つ。気にとめずに追い詰めた表情でいれば、ライナスが声をかけてきた。


「お休みになりませんと、体がつかれてしまいますよ」


「ありがとう。だけど、やはり不安なの」


 ライナスに向いていた茶色の瞳が、また海へ向かう。海上にも、濃い霧が立ちこめられており、どこを進んでいるのかもわからない。むろん、航海士が舵を取ってくれているためちゃんと進んでいることだろう。それに、この霧は不利なことばかりではない。ベスビアナイト国側に、こちらが動き出したことを気づかれにくくしてくれる。向こうが気づいたときには、すでに我が軍が王都を乗っ取っていることだろう。


「向こうがこちらに気づいているようすは、ないと思われるのですが」


「だからこそ、不安なの。向こうが手を打っていないと、思えなくて」


 不安そうに揺れるアビゲイルの瞳をみて、ライナスは騎士らしくかしづく。


「もし奇襲にあい、我が軍が惨敗した際には、わたくしがあなた様を本土までお送りいたします」


「あなたほどの騎士を、そんな任務につかわすのはもったいないわ」


 冗談交じりなアビゲイルに対して、見つめてくる瞳はいたって真剣であった。微苦笑をたたえ、ライナスの骨張った手を取る。


「あなたのこの手は、私を守るためじゃない。国を守るためにあるのよ」


「それでも、あなた様は我が国の参謀。いなくなられては、困ります」


 生真面目なライナスに、アビゲイルの微苦笑さえ引っ込んでしまう。


「あなたは……」


「敵襲!」


 そのとき。濃い霧をもつきやぶって、兵達の声がとどろいてきた。すかさずライナスは立ち上がり、アビゲイルを背で庇うようにたつ。白い霧に目をこらせば、先陣にある船が海の中へ沈んでいくのが見えた。


「アビゲイル様、はやく船倉へお逃げ――」


 言葉が途切れた。火矢を打ち込まれたからだ。不幸中の幸いというべきか、火矢は船にとどく手前で海へおちたため、この船が燃えることはなかったようだ。いつ火矢がこの船に打ち込まれるのか分からない。航海士の元へ、ライナスが行こうとしたときだった。

 この場に不釣り合いな洋琵琶リュートの音色がひびいてきて、軽快な歌が戦場を駆け抜けてくる。


『希望をもたらす水よ

 我らの声に答えておくれ

 枯れ果てた大地に未来をもたらすために

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 忘れないでおくれ

 我らが王を栄光へと導かん』


 歌詞の意味は、ライナスにはわからなかった。もしこの場で攻めてくる国があるとすれば、ベスビアナイト国だ。その国の言語であれば理解できるはずだった。けれども、歌詞は似ても似つかぬ発音であったのだ。

 気を取られている間に、霧はさらに深く濃くなっていく。まるで歌にあわせて、霧が発生しているかのようだ。


「まさか……」


 次は、火矢がこちらにむかって飛んでくる。火をふくんだ鏑矢が、船の中へ打ち込まれた。これはまずい。さとったライナスはアビゲイルの手を取ると、小型船舶ボートへ乗せて逃がそうとした。それをあざ笑うかの如く。たった一矢の火が、歌にあわせて大きくふくらんでいく。


『光をもたらす炎よ

 我らの声に答えておくれ

 失われた希望を取り戻すために

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 忘れないでおくれ

 我らが王の道を照らし出すことを』


 燃えさかる炎の柱をながめて、ライナスは姿もみえぬ敵に戦慄する。ひびいてくる歌は破滅の歌に思えて、妙に脳裏に焼き付いていた。


***


「戦場の霧は晴れぬ、か」


 細かな刺繍がほどこされたアイボリーのシャツに、黒いジャケット。モルダバイト国の伝統衣装に身を包んだ男がつぶやいた。手を伸ばしても端から端まで手が届かぬほどの広い机の上には、大量の本と紙の束がつまれており、いまにもたおれそうだ。


「ドゥシャン様、本当によろしかったのですか。“捨てる軍”があの編成で」


 かたわらに控えている秘書が、口を開く。


「ああ、あいつらは謀反をはたらくに違いない。彼らが動き出す前に、消してしまわなくては、こちらが危なくなってしまう」


「しかし」


 なおも言いつのろうとする秘書に、男ドゥシャンが近寄って剣を引き抜いた。秘書の髪が数本、やわらかい絨毯じゅうたんの上へ落ちる。


「どうやら、やつらに妙な入れ知恵をされたと見える。そういえば、お前はやつらと仲が良かったなあ。ユリウス」


 秘書ユリウスの肩がはねた。


「い、いいえ、滅相もございません」


 鼻で笑うとドゥシャンは剣を鞘におさめて、ペンを手の中でいじくる。


「フローライト国軍は船で、ベスビアナイト国へ向かっているのだろう」


「ええ、おそらくは」


「その間、我らの“捨て駒軍”がベスビアナイト国の注意を引きつけておく。そこをフローライト公国がねらう」


 そういう算段でしたね。ユリウスが答えれば、ドゥシャンはさして面白くもなさそうにペンで近くにあった紙に妙な絵を描き始めた。


「まったく、エリザベス大公もこちらがいうことを聞くといい気になりおって」


 今回うけいれたのは、ドゥシャンに対しての反対勢力が徐々に形となって動き始めたからであった。

 エリザベスから「一緒にベスビアナイト国を落とさないか」と提案をされたとき、乗り気ではなかった。領土と富を等分すると言われたので、我が軍が“おとり”になることを受け入れた。

 これにより、邪魔な反対勢力を排除出来る。さらにベスビアナイト国の領土と富を得られる。ドゥシャンにとっては一石二鳥だ。


「エリザベス大公に頭を下げられては、こちらとしては断れまい。“彼ら”は、名誉ある戦死をし、大いにたたえられるだろう」


 うすっぺらい言辞にユリウスが、眉をしかめた。幸いというべきなのか。ドゥシャンは気づいてはいない。


「それでは、失礼します」


 ユリウスが書斎を出れば、体格のいい男が佇んでいた。よろいで覆われた体で、手にはかぶとが握られている。この男は、この国の騎士で名をマクシムといった。

 大統領ドゥシャンにも気に入られており、度々であるが一緒に酒を飲み交わしているのをみたことがある。

 軽く会釈だけをかわして通り過ぎようとしたユリウスの前に、壁のように立ちはだかる。


「通れないのですが」


「通れないようにしているからな。秘書の兄ちゃん、今日は一緒に飲まないか」


「遠慮しておきます」


 苛立っている雰囲気をだしたが、退いてくれそうにない。それどころか、肩を掴んでくる。


「つれないこと言わないでさあ」


 普段であれば、すぐに引き下がるのに今日に限ってしつこい。誰にも聞かれたくはない話しでもするのだろうか。マクシムの申し出を受け入れた。

 にかっと白い歯を見せて笑うと、ユリウスの腕をつかみずるずると引きずっていく。部屋につくとソファの上へ座らされる。


「ちょっと待っててくれ」


 マクシムは棚から麦酒の瓶をあけると、二つのガラスコップに注いだ。ひとつをユリウスの前に置いて、みずからもソファの上に豪快に座ると一気に飲み干した。


「体に悪いですよ」


「まあそう言うなよ。お前も、早く飲め」


 仕方なくユリウスもコップに口をつけた。まだ慣れない、苦い味わいが口いっぱいにひろがる。顔をしかめつつ、ちびちびと舌でなめているとマクシムが生真面目すぎるほど真摯な眼差しを向けて口を開いた。


「今の大統領のこと、どう思う?」


「どう思うとおっしゃいましても」


 秘書の身分で大統領のことについて、不平を並べるのはいただけない。今の大統領ドゥシャンには、嫌悪の感情は向けども好情は持てないのが現状だ。けれども秘書という立場上、言動には気をつけねばならない。誤ってドゥシャンの耳にでも入れば、首が飛ぶだろう。慎重に答えねばなるまい。


「民の信頼は失い始めていますね」


「失い始めてるじゃねえよ。すでに失っているんだろうが」


 即座にマクシムは否定した。言うとおりだった。ドゥシャンに対する信頼は地に落ちている。それでも、支持する人がいるのは、大統領に選ばれた当初、貧民街スラムの人々を貧困から救ったからであった。今では、ただの独裁者となれ果ててしまっているが……。


「かならず権力を掌握しようとする者は現れる。それが、“あの方”だったというだけさ」


「政敵を弾圧し、三権を掌握していったい、何がしたいのやら」


 騎士である自分ではわからぬ。マクシムは紡ぎ、コップにまた麦酒を注ぐ。心地よい音をたてながら、泡がコップの上部へあつまっていく。


「わたくしも知らないのですが、“あの方”の過去も関わっているのかもしれません」


 興味を惹かれて、マクシムが身を乗り出した。


「それは初耳だな」


「それなりに裕福な家庭であったものの、父の虐待が凄まじかったらしい」


 ひとつでも気にくわないことがあれば、怒りは子に向き鞭でたたくのは常であったそうだ。度々、家出もしたそうだが、だいたいはすぐに連れ戻されたらしい。


「母との間は良好だったらしいが、父との溝は深まるばかりで学び舎での授業もろくに受けていないらしい。その度に父との衝突も多かったそうだ」


 ユリウスは立ち上がると、ポットでハーブティを作る。陶器のコップに注いで飲む。麦酒の味から解放されて、ほっと息を吐き出した。


「じゃあ、ああなったのは父親のせいということなのか」


「そうでしょうね。父に反抗していた子が大人になっても、子どもの時のまま……」


 父がなくなった今でも、問題行動が続いていると考えた方が自然だ。学び舎は留年を繰り返した結果、退学させられているし、べつの学び舎に入学しても奇行を繰り返して退学を強いられていたようだ。


「よく大統領になれたな。政治の勉強とか、してるのか」


 あきれてマクシムがつぶやく。


「政治の勉強は独学だそうだ。本でかなり豊富な、だが偏った勉強をしている」


 ハーブティをすすりながら、ユリウスはあくまで淡々と述べていく。どうやら、どれも本人から聞いた話のようだ。


「そういえば、お前は最高学府アカデミーを卒業していたよな」


「まあ、一応」


「そんなお前からみて、あの男に関してどう思う。秘書として誰よりも側でみてきただろう」


 しばらく手を止めて悩んだあと、ユリウスは口を開いた。


「みずからが行ってきた政治によって、殺されることになるでしょうね」


 マクシムはにがい表情を浮かべる。


「それは、仕方がないことなんだろうか」


「これはアカデミーで出会った男に言われたのですが」


 マクシムの瞳が、ユリウスをみつめる。まっしろい湯気は、その視線をさえぎるように天井へと立ち上っていった。


「自分自身で主君は見極めねばならない。たとえ自国の王であっても、つかえるに値しなければ仕えない方がいい」


 邪知暴虐な王につかえては、自分自身も身をほろぼすことになるのだから。紡いで口を閉ざした。懐かしんでいるのではなく、自分自身の行いが主君を悪への道に導いている気がしてきたのだ。


「わたくしは、つかえるべき主君を間違えたのだろう。諫言することをおそれ、君命を聞き入れてきたが、これでは民に悪魔としてみられているに違いない」


 いずれ罰せられる。苦笑を浮かべてつぶやくユリウスに、マクシムが微苦笑を浮かべて見せた。


「アカデミーで出会った男が、今のあんたをみたら、なんて言うんだろうな」


「『主君を見限れ』というかもしれないな。あいつは、自分が気に入ったものにしか懐かない変わり者だからな」


「へえ、いまは何してんだ」


「アカデミーを卒業してすぐ、ベスビアナイト国へ戻ったよ。なんでも、国王から直々のお願いが通達されたそうだ」


 あとのことは、詳しく知らないが『探し求めていた主君』を見つけたと文がとどいていたと紡ぐ。


「そうなのか。なあ、そいつ名前なんて言うんだ?」


「聞いたって、わからないでしょう」


「教えてくれよ、どっかで会うかもしれないだろう。いまは敵国になっちまったけど、大統領がかわるまでは仲いい国だったし」


 いつかまた昔みたいに同盟を結び、貿易を行うかも知れないんだから。楽しげなマクシムに、息を吐き出した。口元にわずか微笑みを浮かべる。


「ソロモン。ソロモン・ファーレンハイト、それが旧友の名です」


***


 こげくさい臭いが鼻をつく。それを気にする余裕は、いまのライナスにはなかった。

 まわりは煌々ともえる炎が船をつつみ、灰に変えて海の中へ沈み込もうとしている。この船だけは無事であったが、それがどうも不気味でならない。なにやら、向こうにも考えがあるようだった。

 海上にあった深い霧は、風に流されていった。そこであらわになった帆船をみて、目を見張る。海賊船であった。しかも船首楼に雄々しくたっているのは、ロベールであった。


「ロベール、お前がなぜこのようなことを!」


 声をはって問いかけた。野獣の瞳がぎろりとこちらを睨む。


「悪いな、お前達にうらみはないが、恩を返さねばならないのでな」


 なんの恩であるか。ライナスにはわからなかったが、いまはそれ以上にアビゲイルの安全を確保せねばなるまい。兵士がアビゲイルを守っていたが、船の上から飛んでくる矢弾に打ち抜かれていく。


「アビゲイル様をお守りしろ!」


 生き残っている兵に命じてライナスは、ロベールの船に飛び移る。背後でアビゲイルの声が聞こえたが、気にする暇なく海賊達が襲ってきた。

 ライナスの引き抜いた剣が、海賊の血を吸っていく。前にたちふさがる者がいなくなったとき、漆黒のマントを靡かせた一人の騎士が立ちふさがった。

 まだ薄く残る霧が、騎士の姿を幻想的に演出している。凜然とたつ姿は、絵画に描かれた英雄のようであった。

 目先を閃光が走った。騎士の持っている剣だと気づくのに数秒時間があったが、体勢を整える。

 つゆと鮮血でいろどられた刃が、月光の下、照らし出された。ともに、くっきりとうつしだされた騎士は、にわかに畏怖を感じるほど殺気をみなぎらせていた。

 じっと二人して静止しておれば、脇から矢が風をきってとんでくる。横に飛び退いてよけると、騎士の刃がはげしい斬撃をくりだした。よけられないとさとると、刃で受け止める。

 力の差は歴然だった。力でおされ、足をすべらせると甲板の上にしりをついてしまう。このまま斬り殺されるだろう。思ったとき。


「ライナス!」


 アビゲイルの声が、風にのって聞こえてきた。まだやられるわけにはいかぬ。己を奮い立たせてライナスは、手放した柄を持ち直して斬撃をうけとめた。


「な!」


 黒い騎士がややひるんだ。剣で押し切り、立ち上がる。アビゲイルの前で無様な姿は見せられない。


「悪いな、ここで殺されてやるわけにはいかぬ」


「それでこそ、騎士というものだ」


 軽快な口ぶりで黒い騎士がいった。その間も激烈な刃のひびきが、船上をみたしている。ふたつの剣がかさなりあい、火花が散った。


「きさま、何者だ」


 黒い騎士の答えを聞く前に、胸元にかがやく宝石をみつけた。


「星が浮かんだ紅玉ルビーの勲章、ベスビアナイト国の正騎士か。ならば、どうして海賊なんぞを手なずけている」


「俺の“あるじ”は、どんな者でも骨抜きにしてしまうからな」


 冗談とも本気ともとれぬ台詞に、ライナスは困惑した。真意を聞く前に、視界の端にうつる光景に寒気が走る。外套を羽織った“少女”が、守るもののいない船上を目がけて矢をつがえていたのだ。

 まずい。目の前にいる騎士を蹴り倒して駆けだした。だが、少女の手から矢が放たれてしまう。

 間に合うかどうかは、わからない。怒濤の早さでアビゲイルの前に立ち、矢を剣で切り裂いた。少女を見上げると、弓をおろしていた。もう矢をつがえる気配もない。勝利を確信しているのだろうが、喜んでわきあがることもなく、淡々と戦場を見下ろしていた。

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