第三十三章 黒い森のさくらんぼ酒ケーキ

 あまずっぱい香りが船の中をただよう。エリスが最下甲板へと降りれば、ディアナが台所ギャレーで白いザーネクレーム(泡立てた生クリームにゼラチンを加えたもの)をホール状のスポンジ生地に塗っていた。


「お手伝いいたしましょうか」


「ありがとう。でも、自分でしたいの」


 今度はクリームの上に、削られたチョコレートをまぶしていく。残ったザーネクレームを、ホールの端にしぼれば目的のものが出来上がった。


さくらんぼ酒ケーキキルシュトルテですか」


「ええ、このケーキ、夫が好きだったの」


 ディアナは笑顔で返して、トルテをお盆にのせると露天甲板ろてんかんぱんへとあがった。ちょうど三時ごろで、皆の小腹が空く頃だ。


「皆さん、トルテはいかがですか」


 エリスがお皿を用意してディアナが切り分ければ、皆がぞろぞろとあつまってくる。マリアも二人に近寄って、トルテを覗き込んだ。


「おいしそう!」


「このトルテ、王子様は知っておられますか」


 食べたことはない。素直なマリアに、ディアナは微笑んだ。


「黒い森のさくらんぼ酒ケーキキルシュトルテです。さくらんぼ酒キルシュヴァッサー入りのザーネクレームを塗ってあるんです。本来でしたら、上にも桜桃キルシュを乗せるのですけれど」


 ないため、今回は乗せていないのだという。船長ロベールも来て、トルテを覗き込む。


「酒蔵のさくらんぼ酒キルシュヴァッサーをくれと言うから、なにをするのかと思えば、ケーキを作ったのか」


 トルテが皆に行き渡れば、口にして皆が至福の表情をうかべる。マリアもトルテを口にする。あまずっぱい味が口の中いっぱいに広がる。酒独特のかおりもするが、エチルアルコールは抜けているようだ。


「おいしい」


 素直な感想をのべれば、ディアナが「よかった」笑みをこぼした。となりにいるレイヴァンは感想を告げて、あっという間に平らげてしまう。反対にソロモンは、味わいながらゆっくりと食べていた。


「さすがディアナ様ですね。昔、食べたさくらんぼ酒のケーキキルシュトルテと同じ味がします」


 なつかしむソロモンに、ディアナもまた懐かしんで微笑みを浮かべた。


「こうして誰かに振る舞うのも久しぶりだけれど、お菓子作りの腕は落ちていないようね」


 冗談まじりにディアナは、ちいさく笑う。ソロモンに向いていた青い瞳が、マリアをうつした。


「実はね、王子様に一度は振る舞いたかったの」


 マリアが大きくなったら、いつか作ってあげたかったのだという。その前に勅命が下ったために、振る舞うどころか会うことすらできず悔やんでいたそうだ。


「だから、作ってみたの。よろこんでもらえて、とても嬉しいわ」


「こちらこそ、ありがとうございます」


 マリアは軽く頭を下げる。好きでしたことだから、と鈴を転がすような声で笑う。淑女レディとはディアナのことをいうのだろうか。考えているとソロモンが、「さて」と匙を皿の上においた。


「糖が頭にまわってきたところで、策謀の話しでもいたしましょうか」


 幾日か前に来た、文に関することだ。レイヴァンが読み上げるや否や、マリアはソロモンをさがして内容を伝えた。二人して、すぐさま返答を書いて鳥をとばした。


「わたしはまだ、聞かされていなかった」


「考えたいこともございましたから。しかしロベールともすでに、話はつけてあります」


 肯定をしてソロモンはうなづく。対策は講じているはずなのに、マリアには何一つ話してくれないものだから少々不服だった。


「そんな顔をなさらないでください。きちんとお話しいたしますよ」


 肩をすくめてソロモンがいった。へんな顔でもしていたのだろうか。となりにいるレイヴァンが、「すねた顔してますよ」を耳打ちしてくれた。

 さすがに子どもみたいだから、やめた方が良い。切り替えるために軽く咳払いをする。ソロモンに先をうながせば、カバンから北方の地図をとりだして広げた。


「ここがベスビアナイト国。その右斜め下が、今回攻めてきたモルダバイト国になります」


 指で地図上をなぞり、説明をしてくれる。真剣に指を追い、頭の中で整理させながら聞いていればソロモンの口角がわずかにあがった。


「モルダバイト国は、国力も軍事力もベスビアナイト国より劣っています。けれど、いまの我が国は弱っており、手薄なところが多くございます。さて、王子がモルダバイト国の策士なら、どういたしますか」


 なやんでから「手近な要塞を攻める」とこたえた。ソロモンは「そうですね」といって、指で地図の上をなぞる。クラシス要塞とザンサイト要塞をさした。


「いま、もっとも手薄なのはどちらでしょうか」


「クラシス要塞ではないか。一度おとされているし。兵が派遣されているが、復興で大変だろうから」


 肯定する策士に、きれいな青い瞳が焦燥でゆれた。


「はやく国へもどらないと」


「あわてなさるな」


 やんわりマリアをさとして、ソロモンが微笑みをうかべた。冷淡な彼の瞳には、なにもうつしておらず考えがはかりしれない。とうてい自分ではわからぬ計が、巡らされているに違いなかった。おとなしく、うなづく。


「みずからが思うところに兵力を集中させようとしていると、考えるのが妥当でしょう」


「思うところ?」


「はい、いま申しましたところ、クラシス要塞でございます」


 青い瞳が伏せられて考え込む。となりで聞いていたディアナがつぶやいた。


「本隊をクラシス要塞に集中させて王都を手薄にすると言いたいのよね?」


「はい。さすがニクラス閣下の奥方ですね」


 そんなことはないわよ。歌うような軽やかな声で、ディアナはころころと笑う。その青い瞳がマリアに向いた。


「そうなると、どうなるかわかる?」


「王都が狙われやすくなる」


「はい、そうです」


 ソロモンがつむいだ。


「クラシス要塞に本隊を向かわせれば、王都が手薄になる。かといって、兵力を分散させては、どこもかしこもが手薄になる」


 うなづいて先をうながした。表情をけわしくさせて、ソロモンがかんがえている“策”を待っているようだ。


「では、もう一つ。この国へ攻め入ってくる国があるとすれば……」


 指がすべって大陸も海すらも越えて、ひとつの小さな大陸をさした。


「フローライト公国?」


 大陸にかかれた文字をマリアが読み上げると、ソロモンがうなづいた。この国は女性がおさめる国で、昔からベスビアナイト国の領土をねらっているという旨を教えてくれた。


「女性が男性よりも権威をもつこの国は、ベスビアナイト国に伝わる神話は、元はこの国のものだと妙な主張をしているのです」


 説明のあと迷惑な国だと、ぼやく。マリアは苦笑を浮かべると、真剣になやむ。


「なぜそのような主張を?」


「わたくしもくわしくは知らないのですが、ベスビアナイト国は女性が打ち立てた国。ですが性別も関係なく権威を持っているのが、気にくわないようですよ」


 首を傾げていると、ディアナが苦笑をうかべた。


「そんな国もあるのよ」


 説明になっていないが表面上は納得して、ソロモンに話を進ませた。


「そんな理由を付けて、ベスビアナイトの領土をねらっています。さらに形だけとはいえ、モルダバイト国と同盟を結んでいるのです」


 フローライト公国には、攻め込む日時が把握済というわけだ。ならばその時をねらい、王都を攻めてくる可能性が高い。


「加えて言うならば、彼らは周りが海に囲まれているので、陸戦よりも海上戦の方が場慣れしていることでしょう」


「ならば、陸へあがってきたところをねらうのか」


 それでは周辺の住民を巻き込みかねない。ソロモンは指摘する。であれば、どうするというのだ。


「なあに、船で来ているところをねらうのです」


 たった今、海上戦は慣れているといったところではないか。不思議がれば、ディアナがわらった。


「奇襲をかけるのね。陸戦も海上戦もなれている私たち民族からしたら、たいして問題ではないけれど一隻では来ないでしょう」


 十万ほどの兵が何隻もの船に乗ってくるだろう。だがソロモンは余裕の表情を崩さずに笑う。


「ええ、そうです。だからこそ、“能力”は最大限まで活用しなくては」


 不気味にきらめいたソロモンの瞳が、マリアをうつす。さげられた口角の間から紡ぎ出された策に、守人以外は動きを止めてかたまった。


「おいおい、本気ではないだろう」


 あざけてロベールがわらったが、ソロモンの双眸は本気だ。レジーが近づいてきて、あいかわらずの飄々とした表情で小首を傾げる。


「どうかした」


「この前の話だ」


 それか。もう興味をなくしたのか視線を外して、マリアを見つめる。どきりとして固まっていれば、近寄って薄い金の髪を指でなでる。


「マリア、つかれた顔してる。大丈夫?」


「ああ、大丈夫だよ」


「嘘、ついてる」


 〈風の眷属〉の守人レジーには、嘘が通じないらしい。もしや口から吐き出される言葉は、風となってわかってしまうのかもしれない。


「マリア、風は息。息は風……嘘ついても、わかる」


「そうか、レジーには嘘をつけないな」


 微苦笑をたたえてマリアがつぶやけば、レジーは包帯がまかれた額に口づけを落とした。


「大丈夫、マリアの言葉はけがれていない。いつみても、きれい」


「ありがとう、レジー」


 マリアが笑顔をうかべれば、ロベールがレジーに声をかけた。


「ほう、王族に手をだすたあ。やるなあ、にぃちゃん!」


「?」


 レジーの視線が、レイヴァンとソロモンへ向かう。


「オレ、なにかした」


 レイヴァンが嫉妬の炎を滲ませて、軽くレジーをにらんでいたのだ。ソロモンは、困ったように「これはさて……」とつぶやいていた。ディアナまでも苦笑をうかべている。みかねてギルが、レジーの肩を軽くたたいた。


「専属護衛殿が嫉妬するのは、わかりきっていただろう」


 黒い騎士を見つめて、「そうなの?」首をかしげる。困っているのか、微妙な表情をうかべて返答はしなかった。


「それよりも、包帯とってみて」


 包帯をとってみれば、赤くなっていたところが引いていた。


「うん、大丈夫みたい」


「レジー、“力”を使っただろう」


 ギルにレジーは、うなづいた。先ほどの口づけは“風”の力を使って、冷やしてくれたようだ。本当に他意がないとわかると、レイヴァンがほっと息を吐き額を見る。


「大丈夫のようですね」


「ああ、レジーのおかげだ。ありがとう」


 レジーはやさしい光を瞳に宿して微笑む。胸が高鳴るのをマリアが感じていると、再び騎士は不機嫌になってしまう。


「レイヴァン、顔こわい」


 淡々としたレジーに対して、レイヴァンは感情を隠さない。


「レジー、あまりマリア様に思わせぶりなことはしないでくれないか。多感な時期なんだ」


「そんなこといって、姫様をとられるのが嫌なんでしょう?」


 レジーは口を開いてすらいない。となりにいるギルが、からかったのだ。


「お前な」


 怒りに肩を振るわせて、手が柄にかかっている。もしや決闘でもはじめるかと、マリアは止めに入った。


「だめだよ」


 次はギルにつかみかかろうとした。ひらりと、かわされてしまう。


「おお、こわいこわい。こんな乱暴な人が姫様の専属護衛だなんて、まかせておけないなあ」


 片眼をつむってみせて、にやりと口角をあげる。マリアの肩を抱き寄せた。


「どうです、姫様。ひとつ、この俺を専属護衛になさるのは」


 やや困った様子で、マリアは微笑む。


「ギルも十分強いし、かっこいいからな」


「マリア様!」


 了見できずにレイヴァンが止めようとする。気にもとめずに、つむいだ。


「だけど、お前は正騎士には向いてない。わたしの臣下でいてくれるんだろう」


 至極色しごくいろの瞳がひらかれ、きらめく。瞳の奥が輝いて見えたのは、太陽のかがやきだけではあるまい。


「たしかに、そうですなあ。正騎士になっては、お側で姫君を守れない!」


 大げさにいってみせて、ギルがわらう。苦々しい表情でレイヴァンが見つめる。


「でも、ギルはマリアから目を離す方が多いよね」


 レジーの指摘は的確だ。図星でギルが押し黙る。黒い瞳に光が射して、マリアに近寄った。


「こんな男には任せてはいけませぬ。あなた様の専属護衛は、俺にしか務まりませぬゆえ」


 青い瞳がやさしい光を宿した。


「わたしの専属護衛は、レイヴァンだけだよ」


 そこではたと思い出して、マリアが“あるもの”をかばんから取り出す。日光をあびてかがやく金と銀の鎖。先には大きな星がうかんだ紅玉ルビー。まわりにちいさいながらも輝くのは、柘榴石ガーネット


「忘れ物だよ、レイヴァン。これがないと“仕事”ができないだろう」


 まぎれもない正騎士にあたえられる勲章であった。マリアの手からわたされ、黒曜石の瞳があたたかい光を宿した。


「ありがとうございます、我が主」


 これは誇り高い騎士の証なんだから、もうなくしてはだめだよ。マリアはつむいだが、レイヴァンにとっては“あるじ”を誰よりも側で守れる“証”なのだ。


「はい」


 波の音がひときわ、大きくひびく。いつもはさわがしい船員達ですら、口をとざしていた。


「王子様は、とてもよい臣下を持ったのね」


 ディアナのつぶやきは、あたたかいぬくもりを孕んで風にながれる。ソロモンがそっと近寄った。


「どうですか、王子様の臣下は」


「あなたがいる時点で変わり者ばかりでしょう。でも、そうね。あなた達が側にいるのなら、きっと大丈夫」


 変わり者とは心外ですねと返すと、ディアナはわらった。


「あら、ごめんなさい。でも、本音よ」


「ますます、聞き捨てなりませんね」


 不機嫌そうに眉をしかめたソロモンに、鈴を振るようにわらいながらも瞳の奧に悲哀をかくす。あまくてにがい表情だった。


「褒めているのよ。あなたが側にいてくれて、本当によかった」


 触れた指先が凍えてみえて、ソロモンが身震いする。実際には甲板の上であるし、十分すぎるほどあついはずなのに。冷たく感じたのは何故だろうか。

 ソロモンの瞳がほそめられる。ディアナの青い瞳が、氷山の如く凍って見えた。

 おさない頃にみた瞳はあたたかくひだまりのようであったのに、いつからこんな眼をするようになったのだろう。自分の知らぬところで、心までも凍り付いてしまう何かがあったのかもしれない。あまりに離れすぎてしまったものだから、くわしく知らなかった。

 ニクラス公爵閣下がなくなってからは、ディアナは人前へ出なくなっていた。ソロモンも会うことが叶わなかった。そのあと父ファウストが現国王オーガストにいかり、城を出て行った。父が姿をくらましてからは、残した言いつけ通りに学び舎に行かされて現在に至ったのである。くわしくは父からも教えてもらえず、自分だけ除け者にされた感覚におちいったのを今でも覚えている。


「いえ、こちらこそ、トルテごちそうさまでした」


 今、尋ねるのは憚れる。ならば、はなしてくれる時まで待とう。せめて凍り付いた心がとけるように。なんてことない言葉を、ソロモンはディアナに伝えた。


「ううん、私の方こそ、ありがとう」


 さみしげなディアナが、ひどく心の中にひびいた。


***


 底冷えする風が吹いた。ぶるりと体を震わせて、セシリーは外套を握り締める。冬の季節には遠いが、確実に秋に近づいていた。


「このようなところにおられたのですか。いくらまだ夏といえど、朝夕は冷えますよ」


 背後から声をかけてきたのは、グレンだった。


「そうだね。この国は、夏でも冷え込むときがあるもんね」


 セシリーがちいさく笑えば、グレンがそっととなりに立つ。


「なにか、考えておられたのですか」


「うん、実はね。戦に出るのは、はじめてじゃないけど、不安の方が大きくて」


 今はエイドリアンの部隊と共に、クラシス要塞へ向かっている途中である。 夕刻が近づき、見張りの兵以外はすでに天幕テントの中で体を休めている時間帯だ。


「明日にはクラシス要塞へつくのですから、お早めにお休み下さい」


「そうだね、戻るよ」


 外套をひるがえして戻ると、焚き火の近くで正騎士エイドリアンが酒をあおっている。ちかくには瓶が数本、転がっていた。


「エイドリアン様、そんなに飲んで大丈夫ですか」


 声をかけたが、すでにできあがっている。顔が真っ赤だ。ぷつりと意識がきれて、地面の上へ寝転んだ。瓶が転がり中身の麦酒ビールがこぼれだす。


「すかー……ぐー……」


 寝ているらしい。セシリーはグレンに、エイドリアンを介抱するよう頼む。自身は天幕テントへと戻った。


 日が開ければセシリーは、兵が起きる時間に目覚めてしまった。あまりには早い時間なのか、兵も寝ている人が多いようだ。


「グレンの言うとおり、朝もさむいなあ」


 つぶやいたセシリーに、兵が沸かしたばかりの湯を渡してくれる。悪いとは思いながらも、受け取って湯をすする。ぬくもりが体の中で、じわりと広がった。


「ずいぶんと早いですね」


 もうすっかり聞き慣れた。その声はグレンのものだった。


「なんだか、目がさえちゃって」


 つかれた表情のセシリーに、籠から桜桃キルシュを取りだして渡した。ぼんやりと桜桃キルシュを見つめる師に、グレンが吐息を零す。


「食べて下さい。甘い物を食べれば、少しは頭も回りましょう。旬もそろそろ終わりますが、黒い森で採取したものが、まだ残っていましたから」


 満面の笑みを浮かべて「ありがとう」と、さっそく桜桃キルシュを口の中へ放り込む。あまずっぱい味が広がった。


「ああ、おいしい! やっぱり、この季節は桜桃キルシュに限るわね」


 そういったあとで、肩が少しだけさがった。


「でも桜桃キルシュなら、さくらんぼ酒ケーキキルシュトルテが食べたくなっちゃうなあ」


「我慢なさって下さい。それに離宮で、たらふく食べたではございませんか」


 まさにそのとおりで、離宮で毎日食べていたのだ。


「そうだ! 桜桃なら、コンポート(果物の砂糖煮)もおいしいよね!」


 あきれてグレンがだまっていると、エイドリアンがおぼつかない足取りで歩いてきた。体も左右にゆれている。


「エイドリアン様、大丈夫ですか」


 セシリーが声をかけると、エイドリアンがやつれた瞳を向けてくる。


「ああ、すまんな。陣形のことで昨日かんがえすぎて酒を呑んでたら、意識うしなっちまって」


 陣形とはどういうことだろう。セシリーが首をかしげれば、グレンが口をはさむ。


「戦闘における陣形は大切ですね。敵国に漏れては困る事項でもございますし」


「そうなんだよなあ、相手がどう来るかもまだわからねえし。国王は『お前に任す』ばかりだしなあ」


 君主が戦場を知らぬのに、口出しされるのは困りものだ。放任過ぎるのもどうかと思ってしまうが。


「偵察へは向かわせているのですか」


「斥候が数人いる。だが、どれほどの情報を持ち帰ってきてくれるのか……」


 エイドリアンの瞳が、あやしげにきらめいた。


「そういえば、グレン。コーラル国に手を貸していたとき、知恵をかわれていたよな」


「ええ」


 刹那。エイドリアンが、グレンの肩をがしっと掴んだ。


「頼む、その知恵をおれにかしてくれ!」


 セシリーは困惑して、二人を見つめる。グレンが側から離れるのを、危惧しているようだ。


「かまいませんが、セシリー様も一緒でいいですか」


「だが……」


 同じ戦場でたたかう仲間であるし、自分の師匠でもあるのだからかまわないのではないだろうか。グレンの説得にエイドリアンは納得して、セシリーも一緒に天幕テントへ入ることが出来た。

 中には主戦力となる兵達が数人いる。普段は彼らと共に、戦略を立てているのだろう。


「それで、グレン。お前はどう思う? モルダバイト国軍がいったい、なにを考えているのか」


「彼らは民族的に慎重な人が多い。そのため此度の戦も、不思議に思っています」


 同じ趣旨を考えていたようだ。私情で軍を動かすとも思えず、彼らがどう出るかが掴みかねているらしい。


「クラシス要塞を攻めようとしているのはわかる。だが攻めてくるのが異例なんだよなあ。いくら同盟国といえど、フローライト公国に言われたからと戦をする国には見えねえし」


 グレンはうなづく。となりではセシリーが素知らぬ顔で、地面に広げられた地図を眺めていた。

 そのとき入り口がゆれて、ひとりの兵が入ってくる。モルダバイト国軍が、国境を越えたとの報せであった。さらに、よみどおりクラシス要塞の方へ向かっているという。エイドリアンが兵を下がらせば、グレンが口を開く。


「今のところ読み通りではございますが、果たしてそう巧くいくでしょうか」


「そうだなあ、相手の意図が読めない以上……」


「そうでしょうか」


 突然、セシリーが地図を眺めながらつむいだ。二人は固まってしまう。


「どういうことですか」


「だって、いまのベスビアナイト国は弱ってる。内乱まで起ころうとしている。攻め込む絶好の機会。それを諸外国が見過ごすでしょうか。こちらには手があると言っても」


 セシリーのいわんとするところをくみ取り、グレンが理解の光を瞳にやどした。


「つまりモルダバイト国側が狙わない理由は、ないのですね」


 セシリーがうなづいた。エイドリアンは渋い表情をする。


「だが、やつらの利点メリットってなんだ」


「わかりきっているじゃないですか。領土と富を手に入れる事が出来る」


 グレンもまだ納得しきってはいない表情だ。フローライト公国に横取りされるとは考えないのだろうか。セシリーは肯定した。


「『手を貸す』といったら」


 フローライト公国側が、そう言ってきたとしたらどうか。モルダバイト国が最初はその気がなくとも、目先の利益に飛びついたとしたら。


「思惑に気づかないとは思えないのだが」


 エイドリアンが反論する。だが、いまはそれしか思い当たらない。他に考えは浮かばなかった。


「とにかく、今は情報収集が肝心です」


 グレンに二人は大きくうなづく。天幕テントが片付けられてクラシス要塞へと続く道を進み始めると、エイドリアンが宿酔ふつかよいで倒れてしまう。2マイレン(約3.2キロメートル)を超えたころだった。

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