第三十二章 かなめ

 あまりに間抜けな音が室内にひびいた。朝食もまだだったと気づいて、セシリーが時計を見ると昼をさそうとしている。大鍋に入っている緑色の液体が、煮立ってきているため側を離れるわけにいかない。


「そうだ、グレンがパンブロートを机の上においてくれているんだった」


 机上におかれたバスケットの中に入っているブレッツェル(結び目の形に作られている焼き菓子)を、つまんで口の中に入れた。


「おいしい、もうひとつ」


 大鍋に入っているのは、近くの森で採取してきた薬草のため爆発する心配はない。安心しきってセシリーは、ロッゲンブロート(ライ麦で作るパン)をくわえながら焦げないように混ぜる。

 こんなことをしていれば、たちまちグレンの怒声が飛んでくるだろう。だが今セシリーに頼まれた採取に森へ行っているため、当分は戻ってこない。だからこそ、油断して食べていると。


「セシリー様、国王陛下と王妃様がお呼びになってます」


 兵が部屋へ入ってきて、セシリーを見て固まった。


「ふぉひふぁまとこくふぉおさまが?」


 パンをくわえたまま振り返ると、セシリーはパンを飲み込んで「今、作っているものが出来たら行くと伝えておいて」と伝えれば兵は足早に去る。

 部屋にはふたたび、煮詰まる音だけが流れはじめた。何かあったのだろうかと小首を傾げたものの、国王と王妃から事情をきけばいいかと楽観的に考えて調合のつづきを開始する。

 さらさらだった緑色の液体が粘体状になれば、火を止めてガラス瓶につめた。その作業が終わってから、セシリーは二人の元をおとずれた。


「お待たせしてしまい、もうしわけございません」


 部屋に入って開口一番、形式だけでもあやまった。国王も王妃もとがめるようすはない。それよりも、二人を悩ませる要因があるようだ。


「そのことは気にしないでくれ、薬を作ってくれていたんだろう。それよりも、大変なことがおこったんだ」


 神妙な顔つきで国王はモルダバイト国が軍を率いて国境をこえつつあると話し、今回の戦に参加してくれないかとつむいだ。


「国力も軍事力もこちらの方が有利だから、負けることはないだろうが。念には念を入れて爆弾も用意してもらいたい」


 さらに新たな薬をつくるよう伝えると、セシリーは受け入れてうやうやしく頭を下げて部屋を出て行く。

 世の中にとんと興味がないものだから、戦争が起こり始めているのにも気づきもしなかった。少なからず驚いている。いくら戦のことを詳しくなくても、王都を手薄にして大丈夫なのだろうかと不安が脳裏をかすめた。


「セシリー様?」


 ちょうど戻ってきたグレンが声をかけてきた。


「グレン、戻ってきたのね! わあ、こんなにたくさん」


 籠の中を覗き込んで嬉々として声を上げるセシリーに違和感を覚え、グレンは眉をわずかにひそめる。


「なにかありましたか」


 セシリーは詰まらせたものの、国王の言辞をそのまま伝えた。弟子である彼にも、知る権利はあるだろう。グレンは驚くどころか、「やはり」とつぶやいた。


「知っていたの?」


「ええ、兵士達が話しているのを何度か目撃しました。その戦にセシリー様も同行させるだろうとも」


「知らなかったのは、私だけだったんだね」


 困ったように微笑んでセシリーがわずかに顔を伏せると、グレンは小さく息をはいた。


「あなたは錬金術師なのですから、“まつりごと”に関心を持とうとしなくてもよろしいでしょう」


 彼なりに励ましてくれているのだと、わかって礼を言った。いえ、と返してグレンがどこか険しい表情を浮かべる。


「私が戦に参加するのはいいけど、王都は手薄になるんじゃないかしら」


「ええ、そこをつけ込まれる可能性は十分にございます。むしろ、それが狙いかもしれません」


 まずいのではないか。セシリー口にすれば、グレンは考え込んで顎をつまんだ。


「国王陛下も気づいていないとは考えにくい。何か策でもあるのではないですか」


 セシリーは納得したが、グレン自身は国王に策があるとは思えなかった。だからこそ、不安がぬぐえず瞳の奥に影がゆらめいている。


「気になるようでしたら、陛下に直接ききましょうか」


 自身も気になることなので申し出れば、セシリーは笑顔で「お願い」と答えたのだった。

 そのあと、国王から頼まれた薬の調合と爆弾の量産に追われ、ひときり仕事が終わったときには薄闇に沈んでいた。セシリーはそのまま部屋で、毛布にくるまって眠り込んでしまう。よほど疲れていたようだ。部屋に戻って寝た方が疲れもとれるだろうが、たどり着くまでに廊下で眠ってしまう可能性もあるため何も言わなかった。

 セシリーを部屋に残したまま、グレンは廊下へと出て国王の部屋を目指す。さきほど窓から明かりが漏れているのが見えたから、まだ起きていることだろう。

 書斎の扉をたたけば、案の定、国王の返事が聞こえてきた。


「失礼いたします」


「グレンか、なんだか久しぶりに顔を見た気がするな。ちょうど、仕事も落ち着いたし、中へ入ってくれ。お茶の用意をさせよう」


 国王が執事にいいつければ、机の上にティーポットとカップ、ティースタンドが用意された。息をつく間もないほどに就寝前の紅茶ナイトキャップティーが準備される。さすが上級使用人というべきだろうか。


「どうぞ、座ってくれ」


 関心している間に国王は事務机から離れて、ゆったりとしたソファーに座っている。目の前には、用意された紅茶が湯気をたてていた。せっかく用意してもらった物を飲まないのも失礼だと、ソファーにすわって紅茶に口をつけた。


着香茶フレーバーティーですか。茶葉にベルガモットで香り付けしているんですね」


「ああ、よく知っているね。これはアールグレイという着香茶フレーバーティーなんだよ」


 一口飲んで、国王が長い息を吐き出した。


「こうして誰かと就寝前の紅茶ナイトキャップティーを飲むのは久しぶりだ。妻と一緒に飲みたいが、わたしはどうしても仕事が片づかなくてな」


 小さく笑い国王は紅茶をすする。それから、スコーンを口の中へ放り込んだ。

 本来就寝前の紅茶ナイトキャップティーではお茶菓子は出ないものだが、仕事が忙しいとき食事もろくに食べていないため、こうしてお茶菓子が出る場合がある。

 遠慮してグレンが手を付けずにいると、気をつかってか国王が「食べても大丈夫だよ」と言葉をかけてくれた。寝る前に食べるのもどうかと、やんわりと断る。


「セシリー様も戦地へ送るそうですが、王都が手薄になるのではないですか」


「モルダバイト国は、“おとり”と考えるのが普通だろうな」


 国力、軍事力ともに、ベスビアナイト国に勝っていないモルダバイト国が攻めてくるのだ。無謀にしかとれない。かならず、裏があると考える。


「でしたら――」


 国王は立ち上がると、引き出しから書状をとりだしてグレンに手渡す。


「読んで見よ」


 国王はまたコップに口をつけた。わからないままグレンは、わたされた書状を広げて目をとおした。


「これは……」


 今度はサンドイッチを食べながら、国王はうなづいてみせる。


「どうだ、グレンから見て、その内容は」


「信じるしかないのではないでしょうか」


 すっかり信じ切った表情でサンドイッチを食べながら、ゆったりとソファにもたれ掛かっている。グレンも書状を書いた主が裏切る要素がないため、国王の余裕な意味もわかるのだが、疑うのも必要ではないかと心配になった。


***


 蝋燭ろうそくのあかりが揺れて、影をうごかした。隙間から来る潮風だろう。


「しかし、わたくしが学び舎に行っている間に、城を追い出されていたとは」


 ソロモンはぬるい水をすすった。ディアナは悲しい光を瞳の奧に宿して、コップを持っている。中にある水はいっこうに減っていない。


「仕方がないわ。王妃様からすれば、私は邪魔だもの」


 自嘲気味につぶやき、水を少しだけ飲んだ。ソロモンの表情に陰りがさす。


「ニクラス公爵閣下は戦死となっておりますが、本当なのですか。どうも――」


「だめよ、ソロモン。それ以上、言ってはいけないわ。謀反のように思われるわ」


 諭されてソロモンが口を噤む。


「ありがとう、ソロモン。ずいぶんとあなた達、家族には心配されたし、大事にしてもらってきたから」


 苦しげにほほえんだディアナに、ソロモンは胸が締め付けられる感覚に襲われる。


「あなたの父親ファウスト公爵にも、礼を言いたかったわ。私や私の夫のためにお兄様を叱ってくれたから」


 伏せられたまつげの奧が憂いを帯びる。横目でながめて、ソロモンが戸惑う。


「ソロモン、どうかマリアを守ってね。本当は、私が一番近くで守りたいのだけれど、それは許されないから」


「ずっと、気になっていたのですが、もしかしなくとも姫様は」


 扉が開け放たれたと同時に、途切れた。船長であるロベールが入ってきたのである。


「悪い、邪魔したか」


「大丈夫よ、ロベール。たいした話はしていないわ。それに船尾楼せんびろうを私たちが借りていたのだし」


 それはかまわないのだが、とロベールがどかっと椅子に座る。衝撃でコップの中にある水が波打った。


「まさか、二人が知り合いだったとはな」


 豪快に笑うロベールに、「こちらの台詞です」とソロモンは苦笑いを浮かべた。どうやら昔に、ロベールを助けたという。


「そのときは、旦那もまだ生きていた頃なのだけれど、シトリン帝国軍がオブシディアン共和国に進軍したとき、ベスビアナイト国の軍もそこに向かって」


 軍の中には、夫ニクラスもいたという。この時はいくら待っても、シトリン帝国軍が来なかったらしい。様子を見に行けば、狼の群れにかこまれていたらしい。身動きできないようすであったので、ベスビアナイト国軍が狼の群れを退散させたのだという。


「ロベールも軍の中にいたのよね?」


「ああ、それからニクラス公爵閣下と仲良くなって、こっそりあったりしてたんだよなあ。ディアナさんとも、その時に会ったんだよな。閣下が亡くなったと聞いたときは辛かったが」


 遠くをながめてロベールが呟いた。ディアナは優しい眼差しを向ける。自分の夫を思ってくれている人が、この場に二人もいるのが嬉しいようだ。


「ディアナさん、もしおれに出来ることがあったら何でも言ってくれよ。いつでも、力になるぜ」


「ありがとう、ロベール。なら、出来るだけ王子様の力になってあげて」


「王子様の力にはなるさ。なんたって、おれはあの王子様を気に入ってんだ。そうじゃなくて、おれはあんたの力になりたいんだよ」


 まっすぐに見据えられてディアナは目を見開いたが、嬉しげに細められた。口の中だけで「ありがとう」とつぶやくと、ディアナは風に当たってくると船長室を出た。

 上甲板に出てあたりを見てみれば、すでに日は落ちている。海は炭をながしたように黒い。淡い色を放つ繊月だけが、輝いている。


薄絹うすぎぬだけでは、風邪をひいてしまいますよ」


 声をかけられて振り向けば、エリスが立っていた。


「エリス、だったかしら」


「はい。姫様の側近兼使職をしています」


「なら、私よりも王子様の気をかけてあげて」


 姫様ならぐっすり眠っているし、レイヴァンが側にいるから大丈夫だとディアナに上着をかけた。礼を言って上着を握り締めれば、エリスが口を開いた。


「ディアナ様は、国王陛下の妹君とおっしゃられていましたが、本当にそれだけですか」


 疑っているというよりも真実を知ろうとする瞳は、ゆるがずディアナを見据えていた。


「王子様はとてもいい、臣下を持ったのね。よかった。ずっと、気がかりだったから」


 答えではなかったが、エリスは少なからず困惑してしまう。ディアナがそっと手を取った。


「ねえ、エリス。どうか王子様のことをお願いね。もし、あの子が道に迷ったら手を取って導いてあげて」


「どうして、そこまで姫様のことを思われるんですか。それでは、まるであなたが――」


 ディアナが人差し指を立てた。


「それ以上、言ってはだめ」


 茶色の瞳が見開かれ、意味がすとんと体の中に墜ちていく。すべてに納得して、ゆるやかにひざまづいた。


「わかりました。あなた様がそうおっしゃるのであれば、姫様に心よりの忠誠を誓わせていただきます」


 二人の間を風が吹き抜けて、衣服がはためく。ディアナはおさえもせずに、エリスの頬に触れた。


「顔をあげて、エリス。あなたがひざまずく相手は、私じゃなくてマリアでしょう」


 はい、とエリスが立ち上がったとき。倉口から竜胆色りんどういろのシャツを着た人物が出てきた。淡い光に照らし出された端正な顔立ちの男は、ギルであった。


「おやおや、このような夜更けに密会している現場を見てしまった」


「み、密会!?」


 動揺したのはエリスだけで、ディアナは笑っている。ギルのうしろにいる人物も、必死になって笑っていた。


「なにを笑っているのですか、ダミアン殿は」


「いや、だって、密会……」


 月明かりに照らされた赤茶色の髪が、左右に揺れて震えている。ギルの背に顔を隠しながら、ダミアンはお腹をかかえていた。エリスは怒る気力も失ってしまう。


「ふたりはどうしたの?」


「一度は眠ったのですが、目をさましてしまいましてね」


 ディアナにギルがかえした。二人が同時に起きるとは何かあったのだろうか。四半刻もたたぬうちに、レジーやクライド、ジュリアが甲板に上がって来た。ますます驚いて、青い瞳を丸くさせてしまう。


「クレアはぐっすり眠ってて、気づいてないけれど、目をさましたマリアにレイヴァンが」


 レジーの口から、騎士の名があがってディアナは察した。


「マリアを口説いているのね」


 守人が大きくうなづいた。気をつかわれている自覚はあるのだろうか。ディアナが考えていると、レジーがまた返す。


「気づいてはいると思うけれど、たぶん、やめる気はない」


 むしろ、無自覚で口説いているのではないか。レジーが指摘すれば、誰も反論しなかった。かるく笑みを浮かべて、あくびをした。


「これじゃあ、今夜は眠れそうにないわね」


 自身ではなく、マリアをいったのだと誰もがわかった。だからこそ守人達はにがわらいをうかべたのだった。



 いくらか弱いが、夏の気配がわずかに残る白い光が照りつけてくる。窓もちいさいため、それほど強くない。だが目を覚ましてしまうには、十分の強さだった。

 はやい時間なのだろうかと、まわりを見れば誰の姿もなかった。寝過ごしてしまったのかと、体をひねれば転げ落ちてしまう。


「いたた」


 頭をさすりながらマリアがたちあがれば、エリスが駆け込んできた。


「姫様、大丈夫ですか。すごい音がしたのですが」


 駆け寄ってカバンから布をとりだした。打ったところをみせると、エリスは少しほっと息を吐き出した。


「よかった、たいしたケガはしていないようですね」


 布をかるくあてたあと、水を汲んでくると寝室を出た。戻ってくるのを待っていると、さわがしい足音がひびいてきた。


「マリア様、ご無事ですか!」


 おけに水を入れて、レイヴァンが入ってきたのだ。うしろでは困った表情のエリスがいる。それにすら気づかない様子で、たくましい手がマリアの両肩をつかんで矢継ぎ早につむいだ。


「大丈夫ですか。一足す一の答えは、わかりますか」


「二進法で計算すると『いち、ぜろ』で十進法で計算すると『に』だよ」


「では、俺がだれだかわかりますか」


「わたしの専属護衛でとんでもない過保護だけれど、王子様みたいに強くてかっこいい正騎士レイヴァン・エーヴァルト」


「それから……」


 問いをかさねようとしたレイヴァンに、「大丈夫だから」とつむぐ。落ち着いたのか。心の底から安堵の息をこぼした。ふたりで見つめ合っていると、エリスが軽く咳払いをして甘い空気ごとはじき出した。


「レイヴァン様。念のため、姫様の頭を冷やしたいのですが」


「ああ、すまない」


 レイヴァンが退けば、エリスが布をつめたい水でぬらして頭部へ当てた。


「大丈夫だとは思いますが、包帯で巻いておきますね」


 承諾の意を伝えれば、いささか大げさに思うほど包帯がまかれてしまう。これならば、断った方が良かっただろうか。となりでは心配性な騎士も見ているし、これくらいしないと落ち着かないかもしれない。


「安静にしていてくださいね」


 エリスは釘を刺して、寝室を出て行った。マリアも皆に顔を見せねばと立ち上がれば、たくましい手が素早くのびてきた。


「平気なのに」


「いいえ、いけませぬ。いまも、安静にするよういわれたではございませんか」


 エリスは過保護だから。と、これは胸中で消えた。いったところで、聞き入れはしないだろう。


「本当に心配性だな、君は」


 いつもと違う。大人びた言辞に、レイヴァンはどきりとする。つないでいる手に、力をこめた。


「ええ、もちろん。いままで、あなたと離れていたから余計に……」


 愛猫がじゃれるように、レイヴァンがマリアに身をすり寄せる。ただでさえ、近かった距離がさらに縮まって、黒い髪と薄い金の髪がかさなりあう。

 耳元でレイヴァンの吐息をかんじ、マリアの肩がわずかにふるえる。頬は、赤いエリカの花よりも濃く、耳はアンジェラの薔薇ばらよりも濃い紅色。さらに甘言には耳をかさないよう、警戒している雰囲気がうかがえた。

 そのようすすら、レイヴァンには可愛くて仕方がなかった。


「レイヴァン、はなして」


 つきはなす言葉とは裏腹に、声はふるえていてか細い。レイヴァンが不気味な笑みを、口元にうかべた。


「はなすわけないでしょう。もしや、気づいていないのですか。あなたがどんな可愛い声で俺に言っているのかを」


 照れ隠しに聞こえると、レイヴァンは紡いだ。くやしげにマリアが肩を振るわせていると、無骨な指先が腰をなぞる。びくんと、捕らえられた小動物みたいに、肩がはねた。


「ああ、このままあなたを閉じこめてしまいたい」


 甘い声にマリアが視線をさまよわせた。なぜこんなことをするのか、つかめないようだ。


「頼むから、離してくれ。これ以上、触れられたらおかしくなってしまいそうだから」


 言葉遣いすら、少女のものへとなっていた。声も言葉も、その表情も、独り占めしている。優越感を感じながら、耳たぶを甘く噛む。独占欲は本人が思っている以上に、ふくれあがっていた。


「レイヴァン、こんな風にわたしに触れてはだめだ」


 はっきりとした拒絶が鼓膜を刺激する。レイヴァンの黒い瞳が、不快げに細められた。


「いま、なんとおっしゃいましたか?」


「こんな風に触れてはいけないと言ったんだ。誰かの目についてしまうし、お前の思い人が勘違いを起こす。そうなっては、お前を傷つけてしまう」


 腰にまわされた手が、ゆるんでほどかれた。マリアは数歩前に進んで、レイヴァンを振り返ると柔らかな笑みをたたえた。


「前にもいったけれど、お前にはしあわせになって欲しい」


 無骨な手をしなやかな白い手が、やさしく包み込む。レイヴァンはされるがまま、呆然と立ちすくんだ。


「お前がのぞんだ者と結ばれて欲しいんだ。“あるじ”として、それを願ってもかまわないだろう」


 マリアは自分自身に言い聞かせる。レイヴァンに対する感情に、奇妙な感覚を覚えてはいる。それがなにであるか、わからないままだった。否、きづいていながら目をそらし続けていた。素直に認めようにも、現実がたちはだかって結局は感情にふたをしてしまう。


「そうですね。こんなに“あるじ”に思われるのは、“臣下”として至上の喜びです」


 こぼれおちた微笑みは、“臣下”としての笑みだった。レイヴァンは膝を折って、「もったいないお言葉です」と視線をあわせた。


「大げさだよ、レイヴァン。それよりも、お腹空いちゃったな」


「それでは、エリスに食事を運ばせましょう」


「いや、大丈夫だよ。せっかく船にいるのに、海を見ないのはもったいない」


 マリアが露天甲板ろてんかんぱんへ上がれば、皆がそろっていた。


「起きたかい、坊ちゃん」


「レイヴァンも一緒だったか」


 ロベールが一番に口を開き、ソロモンがあとからつむいだ。


「すまない、遅くなってしまって」


「かまいませんよ。レイヴァンとの時間を邪魔するようなことはいたしません」


 ソロモンに、たちまちマリアは小首をかしげる。問いかけたが、はぐらかされてしまった。


「それより、王子様。お腹空いているでしょう」


「実は」


 ディアナに素直に返せば、いまは昼時のようだ。エリスが台所ギャレーから運んできた。手伝おうとしたが、なぜか全員で止められてしまう。包帯が巻かれているからだろうか。

 けっきょく手伝うことも出来ず、だまって座っていることにした。皆に食事がいきわたれば、誰ともなく食事がはじまる。

 まわりにいる船員達やロベール、守人達は何やら楽しく会話を繰り広げていたが、マリアは静かに食事をとっていた。その中で、ロベールとディアナの会話が気になって耳をそばだてる。


「そういえば、はどうした」


「……」


「ニクラス閣下との間に、ひとり娘がいただろう。おれと会ったときは、まだお腹の中にいたが、幸せそうに閣下から手紙が来てたぞ」


「……生後、数ヶ月でなくなったの」


 瞬間、ソロモンの目がするどく光った。ロベールは気づかず、「すまない」とあやまっている。レジーとギルも、ディアナをみつめていた。

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