第三十章 恵愛

 潮のかおりが風に運ばれて、町全体を包み込んだ。遙か遠くから来るであろう波は、音を響かせて水際に押し寄せる。また引いていく波を眺めて、マリアは「落ち着くな」とつぶやいた。となりにはレイヴァンが立っていて、「ええ」と返した。

 ベスビアナイト国への船をカルセドニー国が出してくれるということで、マリア達は数日ほど前に都市パレスを発ち港へと来ていたのだった。ちなみにアンドレアス達は、先に船で国に帰ってしまっている。“ティマイオス”の者達のことだが、後日、別の船でベスビアナイト国へ送るらしい。


「クリス様、船が来るまでの間、どこかお店でも見て行かれてはいかがでしょう。まだ時間がかかりますし」


 ソロモンにマリアはどこかしぶい表情を浮かべる。


「けど、この国の言葉は理解していないし」


 会話は難しいため店員に話し掛けられても困る。ソロモンは小さく笑った。


「大丈夫ですよ、レイヴァンが側におりますし。それに守人達は皆、身振り手振りで買い物を行っているようですよ」


 ソロモンが示した先には、市場でクレアが錦のワンピースや絹糸シルクのスカーフをながめて楽しそうにはしゃいでいた。どこかあきれたように、側にいるのはギルだ。となりの店ではジュリアが金色ゴルト撫子色ピンクや紫といった飾りのついた腕輪バングルを見て、気に入ったらしく手を振って店員を呼んでいた。

 また別のところではエリスが食材や紅茶、香辛料スパイスをながめては考え込んでいる。クライドは隣に立って、暇そうにしていた。付き添ったはいいものの、やることがないらしい。

 ダミアンはあくびを噛み殺しながら、歩いて店先の物をながめていっている。

 レジーはただひとり、店をながめたりもせずにマリアのうしろでじっとしていた。眺めてきてもいいよ、と言ったけれども頑として首を縦に振らなかったのだった。


「では、見てきてもよいだろうか」


 胸を躍らせてマリアがいうとソロモンが無言で頷く。花が咲くように笑顔を浮かべると、ジュリアの見ていた腕輪バングルのある店に向かう。もちろん、後ろにはレイヴァンも一緒だ。


「なにか欲しいものでもございますか」


「うん、これをビアンカにどうかと思って。そうだ、リカルダやフィーネにも買っていこう」


 レイヴァンが脱力する。


「ご自身のものは買っていかれないのですか。他国へ来ることなどないでしょうし」


 その考えがなかったのか。マリアは固まってしまう。それから、考えるように店内を見回してつぶやいた。


「わたしの分はいらないかな。レイヴァンがこうして側にいてくれるのなら、他になにもいらないから」


 黒曜石の瞳が一瞬、見開かれた。嬉しげに細められて、無骨な指が薄い金の髪をなでた。おどろいて振り向くと、レイヴァンが砂糖菓子のように甘い顔を浮かべている。


「船が来てしまうかもしれないから、はやく選ばないと」


 顔を真っ赤にしてマリアは視線をそらすと、腕輪バングルを眺めはじめた。けれども、胸が高鳴ってそれどころではない。それでも強引に意識を腕輪バングルに向けさせて、三人に似合う物を探し始めた。


「そうですね、船が来てしまっては買えなくなってしまいます」


 小さく息を吐いてレイヴァンが返せば、いつものようすに戻ったとマリアは胸をなで下ろす。

 ビアンカは青い万華鏡を選んだのを思い出して、菫青石アイオライトのついたものにし、リカルダはピンクを基調としたドレスを着ていたと薔薇石英ローズクォーツがついた腕輪バングルにした。フィーネが何の色が好きかよくわからず困ってしまったが、クサンサイトで見た喫茶店は白を基調としていたため、白い月長石ムーンストーンのついたものにした。


「決まりましたか」


「うん、この三つ」


 レイヴァンは店員を呼び、なにやら話し始める。文字を読むことは出来ても、マリアには何を話しているかさっぱりわからない。となりで店員とレイヴァンを交互に見比べていると黒い瞳がこちらへ向いた。


「10パイサ(ルピーの補助通貨)で売ってくれるそうですよ」


「これ60パイサじゃ……」


 レイヴァンは獅子の描かれた白銅の10パイサ硬貨をとりだすと、店員に渡した。困惑気味のマリアの手を取ると店から離れる。


「この国では、値段を上乗せしてあるので値切るのが当たり前なんですよ」


 マリアは青い瞳をまるまると見開いて、「そうなんだ」と驚きを隠せない。そのとき、潮の混じった風がながれてマリアの視線が海へと向いた。守人達はソロモンの側におり、買い物は終わっているようだ。


「クリス様、そろそろ船も来るのではないでしょうか」


「うん、そうだね。行こう」


 マリアとレイヴァンが皆の元へ行くと、一番にクレアが二人の方へ向いた。


「戻ってきたんですね!」


「うん」


 マリアが答えたとき、一隻の船が港へ着いた。その船から乗組員が降りてくると、ベスビアナイト国まで送る旨を告げた。どうやら、この船が皇帝が用意した船らしい。

 オブシディアン共和国で見た船よりも、ずいぶんと大きくてマリアは驚いてしまう。梯子はしごをつたい船に乗り込んで、持ったままだった腕輪バングルをカバンにしまい込んだ。

 皆が乗ったことを確認すると、船が動き出した。港にいたときよりも、潮の匂いが感じられてマリアは、ほっと息を吐いた。


「少しは落ち着きましたか」


 レイヴァンに、「うん、ありがとう」と空を見上げる。するどい太陽の日差しがさして、マリアの体を汗がつたう。潮の混じった風がながれて、汗を乾かすと同時にストールがなびいた。


「長い間、他国におりましたし、おつかれでしょう。客室で休まれては」


「いや、もう少し。風に当たっていたい」


 レイヴァンの方を向けば、すでにソロモンと守人達の姿が甲板にはなかった。客室で休んでいるのかもしれない。


「レイヴァンも休んでいいんだよ」


「いえ、あなた様をここに残して休むことなど出来ません。お側にいます」


 レイヴァンもつかれているだろうから休んで欲しいが、かたくなだから聞き入れてはくれないだろう。


「何度も言ってしまうけれど、レイヴァンが無事で本当によかった」


 この数日間、何度も繰り返した言葉をマリアは口にする。レイヴァンも嫌ではないのか、むしろ喜ばしげに頬をゆるめた。


「ありがとうございます、マリア様」


 まわりに船員がいないのを確認して、レイヴァンは“その名”で呼んだ。甘い声にとまどいを覚えつつ視線を海へと向ければ、黒い影が動いて背で人の体温が感じられた。


「どうして、俺と視線をあわせてくれないのですか。姫様」


 低く心地の良い声が耳元で聞こえた。めまいをおこしそうなほど、甘い声に体の熱気が高まるのを感じながらマリアは「なんでもない」となんとか声を絞り出した。

 相手を直視することが出来ず、じっと床を見つめているとさびしげな声色で言葉が紡がれた。


「俺のことが嫌いになりましたか」


「そんなこと!」


 おもわず振り向いてしまい、黒い瞳と視線が絡み合ってしまう。謀られたと気づいたときには、遅かった。不敵な笑みを浮かべたレイヴァンの手が、やさしくマリアの顎をとり空いている片方の手で腰を抱く。


「マリア様、どうして視線をそらすのですか」


 目線をさまよわせていると、顔をずいと近づけられた。驚いて青い瞳が目の前に集中し、レイヴァンの顔をうつしだす。武骨な手がマリアの頬をいとおしげになでた。


「だめだよ、レイヴァン。こんなことをしたら、勘違いしてしまう」


 わからないとでもいいたげに、レイヴァンが不思議そうにした。マリアは頬を撫でる手に、自らの手を重ね合わせてやさしくほどく。


「こんなことされたら、“女の子”だったらレイヴァンに惚れてしまうよ」


 強引に笑顔を浮かべれば、レイヴァンは苦々しい表情だ。口をつぐんで、腰に回した手もほどいてしまう。


「レイヴァンは女慣れしているから、自然に出来てしまうのかもしれないが。初心うぶな子だったら、きっと好きになってしまうよ」


 レイヴァンは頭を抱えた。


「どうして、俺が女慣れしていることになっているんです?」


「自然に腰に手を回してきたりするから、レイヴァンとしては自然の行為なのだと……違うのか?」


 きょとんとした顔を見て本気だとわかるとレイヴァンは深いため息を吐いたが、潮風にながされて宙に消えた。


「やれやれ、せっかくの機会を逃すとは男としてどうなんでしょうね」


 波の音に混じって水のながれるような声が、洋琵琶リュートの音色と共にきこえてきた。そちらへ視線を向ければ、ギルが立っている。


「いたのか」


「はい、姫様が“悪いオオカミ”に食べられてしまわないよう見張っておりました」


 うたうような清らかな声であるために、気づくのがおくれたが先ほどまでのようすをすべて見られていたのだ。マリアはますます、頬を真っ赤に染めて息を飲む。対して、レイヴァンは不機嫌そうだ。


「もしかして、“悪いオオカミ”とはレイヴァンのことなのか」


「ええ、もしかしなくともそうです。“赤ずきん”の童話にあるように、男はオオカミなのです」


「童話の“赤ずきん”に出てくるオオカミは、“男”をさしているのか」


 諸説あるが、オオカミは悪い男の象徴だともいわれるらしい。さらに元の「赤ずきん」の話には赤ずきんの少女の服を一枚、一枚、暖炉に放り込み、同じベッドに入る場面があるとギルがつむいだ。


「服をすべて脱がせるのか?」


 赤い頬がさらに赤くなり、声がわずかに震える。ギルは「ええ」と口角をあげた。


「それにこれは元々、『童話』などではなく、民話だとか。そのため、教訓というものもなかったそうですよ」


 赤くなっていた頬が別の意味で赤みが差し、瞳には好奇心の光が宿りはじめている。


「その話、もっと聞かせてはくれないか」


 お望みとあらば、と紳士のように頭を下げた。となりにいるレイヴァンが小さく息を吐く。なにか言おうとしていたようだが、マリアの好奇心は止められないと知っているからあきらめたようだった。


「オオカミの話ばかりしてきましたが、赤ずきんも隙のある誘惑に負ける少女として描かれています」


 なるほど。あまり考えたことがなかったが、確かにそうだと真剣な表情で考え込んだ。


「そういう風に『童話』を読んだことはないけれど、考えていくと面白いな」


「では、なにか別の『童話』の話もいたしましょうか。なんでもお話ししますよ」


灰かぶり姫シンデレラとか、白雪姫も好きだけど。つぐみのヒゲの王様や星の銀貨も好きだし……うーん」


 マリアが悩んでいると、レイヴァンの瞳にけわしさが宿る。同時にレジーが上甲板へときた。


「マリア、早く中へ入って!」


 必死の形相のレジーにマリアが茫然と固まっていると、ギルまでも眉をひそめた。


「姫様、あぶないですからさがっていてください」


「ギルまでどうしたの?」


 小首を傾げるマリアの背をギルがたたいて、よろめかせるとレジーが体を抱き留める。刹那、船が大きく揺れた。


「なに?」


 風がつよくなったわけでも、波の動きが変わったわけでもない。乗っている船のとなりに別の船が突き当ててきたのだ。船の上では数人が、矢を放とうとしている。

 レイヴァンの手には、すでに剣が握られていた。マリアも戦おうと剣の柄に手をかけたが、レジーが強引に倉口へと引き込んだ。


「“あるじ”であるマリアが武器をとる必要はないよ。今は、逃げることを考えて」


「でも――」


 そのときソロモンたちも部屋から出てきて、焦燥しているレジーにといかけた。海賊と淡々とした口調で答える。レイヴァンとギルが応戦していると報告すれば、エリス、クライド、ダミアン、ジュリアは倉口から上がっていった。


「ひとまず、ここで収束するのを待ちましょう」


 ソロモンに、マリアは小さく頷く。表情は硬い。


「レイヴァンや守人達を、もっと信用なさってはいかがですか」


「いや、信用していないわけではない。ただ心配なんだ」


「お気持ちはわかりますが、信用がなければ彼らも戦えない。信頼を寄せてみてはいかがですか」


 戦う度に“あるじ”が心配をするのはよくない。戦う“彼ら”も不安に思ってしまう。だからこそ、ソロモンは全面的に自分の臣下を信用するよう進言したのだ。


「そうだな、心配ばかりするのもよくないよな」


「ええ、姫様はどっしりかまえていればよろしい。信用するとは、そういうことですよ」


 マリアが満面の笑みをうかべたとき、倉口から武器を手に男が降りてきた。海賊の一味のようだ。ソロモンはマリアを背で隠し、レジーが短剣をとりだして男を斬った。


「ようす、見てくる」


 レジーがそういって倉口から上甲板へあがると、帆柱マストに張ってあるゼーゲルが火で燃えていた。どうやら海賊が火矢を放ったらしく、あちらこちらで煙を上げている。船員も血を流して、何人もが倒れていた。

 炎がうずまき、煙が舞う。上甲板にはレイヴァンと守人、それから乗り移ってきた海賊しかいない。


「レジー、どうなっている?」


 下からソロモンが声をかければ、レジーは息を飲んで「まずい」と呟いた。


「海賊が火矢を放ったみたい。このままじゃ、船が沈んでしまう」


 ソロモンは慌てて、マリアの手を引くと倉口から出た。甲板にある小型船舶ボートをさがしたが、すでに燃えてしまっている。


「しまった」


 玉のような汗をかいてソロモンがつぶやけば、顎を指でさわりながら考え込む。マリアはあたりをぐるりと見回した。むせかえる焦げた臭いと、さびた鉄の臭いがまざって吐き気をもよおす感覚に襲われる。それ以上にマリアは人が傷ついているのを見るのが、たまらなく悲しかった。

 青い目を伏せた瞬間、海賊のひとりがマリアに向かってきた。剣を抜いて小刀ナイフをはじき飛ばす。にぶい金属の音が響き渡った。


「ひめ……クリス様」


 ソロモンはあわてて剣を抜いて、男の腕をきりさいた。男は悲鳴を上げて海賊の船に飛び移る。


「クリス様の手を煩わしてしまい、申し訳ございません」


「大丈夫だよ、ソロモン。それにお主は策士であって、戦士ではないのだから」


「いいえ、策士とて戦士です。なのに、このような失態。申し訳ございません」


 ソロモンはかしこいが、責任感が強く自分を責める傾向にあるようだ。


「大丈夫、お主がお主自身を責める必要は万に一つもない」


 マリアが剣を鞘におさめたとき、船が大きく傾いた。倉口から出ていたクレアは、海賊をひとり、倒したてマリアの元へ駆け寄る。


「まずいわ、船が沈みはじめてる」


 表情に険しさが増した。そのとき、海賊船に向かっていくつものひらめきが向かう。視線を向ければ、ロベールが率いる船があった。真ん中でどんとかまえたロベールの後ろには、何人も弓をかまえて海賊船を狙っている。さらに仮面をしていた男もいて、船に乗り移ると海賊達を一網打尽にしていく。海賊たちは焦ったようすで強奪するのをあきらめると、早々に引き上げていく。


「坊ちゃん、はやくこの船に乗り込め!」


 マリア達と仮面をしていた男も船へ乗り移った。ロベールは船の速度を早めるよう指示する。


「ここまで来れば大丈夫だろう。無事で良かったぜ、坊ちゃん」


「船長殿、助けてくれてありがとうございます」


 マリアが頭を下げると、後ろから美しい女性が姿をあらわした。ながれるような薄い金の髪に、青い金剛石ブルーダイヤモンドのような瞳の色している。地下牢で出会った女性であった。


「かまわないさ。彼女に頼まれてな」


「間に合うか不安だったのだけれど、間に合って良かったわ」


 女性ディアナは淑女のように微笑む。


「ディアナさん?」


 不思議そうにマリアがしていると、隣にいるソロモンが額に汗をうかべる。


「なぜ、あなた様がここにいらっしゃるんです? あなたはオーガスト国王陛下の妹君ですよね」


 驚いて、まじまじと見つめる。まさか父親に兄弟がいるとは思わなかったのだ。ディアナはやさしい眼差しで、マリアを見つめていた。


「王子様が知らなくても仕方がないわ。産まれたときに一度、会ったきりだもの」


「そうなのですか」


「ええ」


 青い瞳がソロモンに向いた。


「ソロモンも、久しぶりね。いつ以来かしら? 夫が戦死する前だから、もう十三年も前になるのかしら」


「ええ、そうですね。そのころはよくニクラス公爵閣下が、父を尋ねて城に来ておりましたから。それで、今は公爵という爵位をゆずられたそうですが」


「ええ、そうよ。今は公爵の地位にいるわ」


 余計になぜここにいるのか。ソロモンがたずねる。


「お兄様……国王陛下からの勅命を受けててね。国に蔓延るものを排除するよう言われているの。それで影ながら動いていたのよ。私の執事であるゲルトも一緒にね」


 リカルダの執事ではなかったのか。マリアは、たちまち驚いてしまう。そういえば、クサンサイトでは“クスリ”の取引がされていた。くい止めるために潜入させていたのかもしれない。


「輸入先であるカルセドニー国であれば、もっとなにか掴めるかもしれないと思ってね。そこでお兄様から勅命を受けてきていた、騎士ヨハンとも出会って情報交換をしていたのよ」


 ディアナが仮面をしていた男を見た。どうやら、名をヨハンというらしい。


「しかし、まさかこのような地で出会うとは思いませんでした」


「ふふ、本当ね」


 ディアナの鈴を転がす声がひびく。ギルが小さく笑った。


「しかし、なぜゲルト殿を一緒にあの国へ連れて行かなかったのですか。さすがに一人で行くのは危険でしょう」


 王都であやしい動きがあったからだと答えた。ギルも王都へついたとき、わずかな違和感を感じたと話す。


「そうなのか」


「ええ。何とは、わかりませんが」


 マリアにギルが煮え切らないようすで応えれば、ソロモンがレイヴァンに視線を投げた。


「お前もジャハーンダールにあんなことを問われなければ、あの国にとどまるつもりだったんだろう?」


「ああ、まだ“勅命”を果たしたとは言えないからな。“ティマイオス”じゃない別の集団が王都にはいる」


 しかも“ティマイオス”をそそのかした可能性が高いとらしい。カルセドニー国に何かあるのかもしれないと間者として入り込んだが、何一つ情報は得られなかったようだ。


「そうだったのか」


 自分だけ何も気づかなかったのだと知って、マリアの肩がしゅんと下がる。その肩の上にディアナが手を置いた。


「王子様は臣下を信じて待つこともお仕事よ。なにも自分ですべてをする必要はないわ」


「けど……」


 うつむいたマリアに、ディアナは微笑みを浮かべてみせた。


「あなたは本当、心配性なのね。あの人にそっくり」


 マリアが顔を上げると、深い青空のような瞳があった。


「人にまかせるのも大切なことよ。あなただって、神様じゃない。人の子なんだから。すべてを自分一人で行おうとしては駄目よ」


 母親のように諭すディアナに、当惑しながら「はい」とかえす。ディアナは淑女のようにほころばせる。立ち上がると、レイヴァンの方を見つめた。


「遅れたけれど、レイヴァンも久しぶりね」


「はい、ご無沙汰しております」


「王子様の専属護衛に任命される前に一度、挨拶したきりだから五年ぐらいかしら」


「はい」


 礼儀正しくレイヴァンは、小さく頭を下げる。


「あなたが来たときは、驚いたのよ」


「驚かれても仕方ありませんね」


 軽く微笑んでレイヴァンが返すと、ディアナは「ふふ」と声を漏らした。


「お兄様があなたに、そんな勅命を下すとは思わなかったものだから」


 黒曜石の瞳がやさしげに細められる。その表情にマリアがどきりとして、胸の奥が悶々としているのを感じる。胸をおさえたが、答えなんて出てこなかった。



 あたりは闇に包まれて、波の音だけがひびいている。皆はすでに眠っている時間だ。起きているのは自分だけだろうな、とマリアは上甲板で手すりにもたれかかる。

 実際には船員が一人は起きているだろうが、船尾楼せんびろうか見張り台にいるだろうし、この時間に交代にはならないだろうと潮風に当たっているのだった。


「このようなところに、いらっしゃったのですか」


 波の音に混じって聞こえたのは、聞き慣れたやさしい声だった。


「レイヴァン、寝ていたんじゃないのか」


「寝ておりましたが、となりにおられなかったので探しておりました」


「寝ていていいんだよ」


「何を仰っておられるのですか。なにかあってからでは遅いのですよ」


「そうそう」


 レイヴァンに同調するべつの声がひびいて、そちらに視線を向ければハンクが立っていた。にやりと口角をあげて近づいてくる。


「そういえば、エリスだっけ? あの子にも注意されてましたよね」


「よく覚えているな。みんな、心配性なだけだよ。べつにひとりで出歩いたって危ないことなんか」


「あります」


 さえぎってレイヴァンが近づき、ハンクを軽く睨み付ける。


「あなた様のそういう隙が、“男”を近づけてしまうんです。あなたは、本当に自覚というものがなさすぎる」


 あぐねたようすでマリアは、笑みを浮かべると肩を小さくすくめた。


「ごめんね、困らせてしまって。みんなをわたしの勝手な好奇心で巻き込んでしまっている自覚はあるんだ」


 青い瞳に影が差して、深みが増した。次にその瞳が二人の姿をとらえたとき、夜明けの空のようにきらめいた。


「けれど、わたしは知らずにいたことが悔しいしつらい。だから、これから知っていきたいんだ。自分の国のこと、この世界のこと」


 黒曜石の瞳がわずかに見開かれて、やさしい光を宿した。


「そうですね、マリア様にとって新しいことばかりですよね。あなたの瞳にうつる世界がどんなものなのか、俺は興味があります」


「そんな興味を持たれるようなことでもないと思うのだけれど」


「いいえ、俺はとても気になります。国を知り、世界を知り、あなたが一体どのような決断をなされるのか。一番、近くで見ていたい」


 ありがとう。マリアのつぶやきは、風にながされていった。そのとき。どこまでも続く闇の中で、鳥の鳴き声がとどろいた。

 もしや。レイヴァンが胸元に下げた笛を鳴らすと、鷹が腕へ止まった。


「よしよし」


「その鳥は?」


 レイヴァンは鷹の頭を撫でてやり、えさを与える。


「王都にいる部下フランツに定期的にを使って近状を伝えるよう言ってあるんです」


 足にくくりつけられた筒を開き、紙を取り出す。文面を見て、レイヴァンは眉を潜めた。


「レイヴァン、どうかしたのか?」


「どうやら、まずいことになっているようです」


 心がざわついて、マリアは立ちすくんだ。

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